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安倍首相の「私たち」とメルケル首相の「私たち」にある小さくて大きな違い

プレジデントオンライン / 2020年8月25日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/iZhenya

新型コロナの危機対応では、ドイツのアンゲラ・メルケル首相のスピーチが高く評価された。社会学者の橋爪大三郎氏は「3月18日のテレビ演説では『私たち全員が力を合わせることが必要です』と呼びかけていた。一方、安倍首相は『皆さんの声は、私たちに届いています』と話した。この差は大きい」という——。

※本稿は橋爪大三郎『パワースピーチ入門』(角川新書)の一部を再編集したものです。

■3月18日、メルケル首相テレビ演説を紐解く

新型コロナウイルスが中国の湖北省武漢で感染が最初に拡大したのは2020年1月のことだった。その後、イタリアに続いてドイツでも、コロナウイルスの感染が厳しい状況になった。3月1日に100人を超えた感染者が、3月9日には1000人を超えた。州ごとに外出制限などの措置がとられた。

そのさなか、アンゲラ・メルケル首相は3月18日、テレビで異例の演説をした。直接、ドイツの人びとに、危機を訴えたのである。

以下、そのスピーチのなかみを紹介しよう。

まず、冒頭の呼びかけ。

《Liebe Mitbürgerinen, lieve Mitgürgeren, Fellow citizens(市民のみなさん)》

と語りかける。なんと呼びかけるのか。語りかける政治的リーダーと、それを聴く一般の人びと、の関係を設定する大事なポイントだ。

その昔、ヘルメット姿の日本の過激派の学生は、「通行中の労働者、学生、市民の皆さん!」と呼びかけた。それ以来、日本では、「市民の皆さん」と呼びかけると、私は左翼です、という表明していると取られることがある。

では、「国民の皆さん」と言えばどうか。

「国民」はよく使う日本語である。でも、英語にもドイツ語にも対応する概念がない。nationは集合名詞で、国民や国家を表す。一人ひとりを表す言葉ではない。nationalは国籍保有者という意味になって、法律のもとに置かれる存在だ。

「市民」は、国や政府や、法律がなくても市民。なにしろ、市民革命で国家を樹立するのが市民なのだから。その市民に呼びかける。主権者である皆さん、という意味である。首相から一般の人びとへ、という上から目線ではない。ひとりの市民・対・市民として呼びかけているのである。

Mitbürgerinenという単語の中のBürgerが、市民にあたる言葉。フランス語ならブルジョワで、丘に(都市に)住んでいる人びと、という意味である。ドイツ語の名詞は、男性/女性、単数/複数を分けるので、冒頭のように両方を複数形で並べる言い方になる。

Mit-がまた訳しにくいが、togetherの意味。英語のfellow(仲間)に近い。

Liebeは「親愛な」という常套句だが、「愛」がこもっている。きちんとスピーチをすると、その意味が伝わってくる。

この呼びかけを聴いたとたんに、お、首相がひとりの人間として、私たちに語りかけているのだな、という関係が感じられる。もちろんそれに続くスピーチの内容も、それにふさわしいものでなければならないけれども。

■私たち(政府)は皆さんのことをひとごとだと思っていますという本音

日本語でこれに近いことを言おうとすると、それなりに苦労しなければならない。

4月7日、日本の安倍晋三首相が発出した緊急事態宣言のスピーチには次のようなくだりがある。

《日本経済を支える屋台骨は中小・小規模事業者の皆さんです。本当に苦しい中でも、今、歯を食いしばって頑張っておられる皆さんこそ、日本の底力です。皆さんの声は、私たちに届いています。皆さんの努力を決して無にしてはならない。その思いの下に、史上初めて事業者向けの給付金制度を創設しました。》

なんとなく力の入ったスピーチであることはわかる。でも「皆さんの声は、私たちに届いています」と、皆さん/私たち、と区別している。私たち(政府)は皆さんのことを、ひとごとだと思っています、という本音がにじみ出ている。

■世界から賞賛を受けたメルケル首相の知恵と覚悟が詰まったメッセージ

さて、メルケル首相は、どんな人物なのだろうか。

アンゲラ・メルケル、1954年生まれ、65歳。西ドイツのハンブルグで生まれ、父が牧師だった関係で、東ドイツに移った。真面目で目立たぬ学生で、物理学者となった。ベルリンの壁が崩れたのを機会に、政治を志す。東西ドイツの統一後はキリスト教民主同盟(CDU)で活動。2000年から党首、2005年から首相を務めている。

東ドイツの体制のもとで育ち、自由を勝ち取った。冷戦からポスト冷戦への激動を、身をもって体験している。東の出身者が西側のリーダーになったのも、ユニークである。

これを踏まえて聴くと、スピーチの中盤のメルケル首相のつぎの言葉は、胸に響く。

《つぎのことは、はっきり言いたいと思います。私のように、旅行の自由、移動の自由をようやく権利として勝ち取った者にとっては、こうした制限は、絶対に必要な場合にしか正当化できないものです。こうした制限を、民主主義は軽はずみに決めてはならず、決めるとしても時限的でなければなりません。けれどもいま、命を救うために、こうした制限を避けることはできないのです》

「こうした制限」とは、政府が介入して、公共の生活を縮小すること。基本の社会インフラは確保しつつ、外出を制限すること。学校や幼稚園は休み、イベントは中止になり、商店も閉じた。憲法が保証している、人権の一部を制限することである。

■安倍首相とは正反対「私たち全員が力を合わせることが必要です」

だが、政府はただ外出を制限する、と決めるだけではない。メルケル首相は続けて言う。

《政府は、企業と従業員が、この厳しい感染を乗り切るのを助けるため、必要なことを実行します》
《生活日用品の供給はつねに確保されるので、安心してください。ある日、棚が空っぽでも、すぐに元どおりになります。スーパーに行くひとは、買い置きはいいですが、ほどほどにしてください。やみくもな買いだめは意味がなく、思いやりのない行為です》

メルケル首相は、スーパーで買い物する人びとの気持ちをわかっていそうだ。その彼女から言われると、買いだめはいけないなあ、と思えるから効果がある。

政府にできることは限られています。みなさん一人ひとりの行動が大事です、とメルケル首相は呼びかける。

《何はともあれ、いま起こっていることを、真剣に受け止めてください。パニックになる必要はありません。が、自分ひとりぐらい関係ないやと、一瞬でも思わないことです。どうでもよいひとは、ひとりもいません。誰もが当事者です。私たち全員が力を合わせることが必要です》

スピーチは、こう結ばれる。

《この危機を、私たちは克服するでしょう。私はそう、確信します。でも、どれだけの犠牲が出るのでしょう。それは大部分、私たち自身の手のなかにあります。私たちは制限を受け入れ、互いに支えあうことができます》
《これは私たちが今まで、経験したことのないことです。それでも私たちは、心をこめ理性的にふるまって、命を救うことができます。このことを、私たち一人ひとりが問われているのです。あなたとあなたの大事な家族の健康を願います。ありがとう》

■自然体で心にすんなりと届くメルケル首相、お役人文体の安倍首相

メルケル首相は、視聴者の目をみて、ゆっくりしっかり、噛みしめるように話す。穏やかな人柄が伝わってくる。しかし、言っていることは厳しい。多くの人びとに、犠牲と忍耐を強いることだから。自由と権利を制限することだから。そして、それでも人びとの命が失われるだろうことだから。

人の生き死にに関わることが、真面目でないわけがない。人びとの生活の根本に関わることが、真面目でないわけがない。政治は、人びとが大事にする価値の根本に関わる、真面目なことがらである。メルケル首相のスピーチを聴いていると、そういう政治の原点に立ち戻るような気がする。

真面目な、政治の原点。それをもう長い間、忘れていたのではないだろうか。

また、メルケル首相のスピーチは、自然体である。誰でもわかる自然な言葉で語っていて、スーパーの話とか、祖父母に孫がメッセージを送る話とか、ふつうの人びとの感覚でできている。「りっぱな演説をしよう」と、力んでいるところがない。人びとの頭のなかに、そして心に、すんなりと届く。そして人びとは、そうか、そう考えるのかとか、そう行動すればいいのかとか、わかる。

一方、わが国の安倍首相はどうか。プレジデントオンラインで以前書いたように、私が緊急事態宣言のスピーチ全文(約5600字)に関して、言い訳や余計な説明を省いて添削したところ、文量を約半分にまで短くすることができた。

どういった点を削ったのか。お役所が好む「ただし書き」のたぐいは削った。「ただし書き」は、言い訳である。役人が責任を取りたくないときに、つけ加える。いや、もうこれは役所の習慣で、それ以外の文章の書き方がない。本人は、責任を取りたくないので「言い訳」をしているという意識すらないかもしれない。なお恐ろしい。

■信頼を獲得するリーダーシップの秘訣とは

メルケル首相は、外出制限にともなう補償が、人びとに行き渡るようにすばやく行動した。パートやアルバイトのひと、芸術家や音楽家も、生活費がすぐ振り込まれた。

橋爪大三郎『パワースピーチ入門』(角川新書)
橋爪大三郎『パワースピーチ入門』(角川新書)

こういう政治の基本を守っている点が評価されて、メルケル首相の支持率がぐんとアップした。

メルケル首相は、人気取りでスピーチをしたわけではない。ただ、必要なことを言い、適切な行動をとっただけだ。

そういうリーダーを、人びとは信頼する。そして、政治が機能する。

そういうリーダーを、うみだすのはパワースピーチだ。パワースピーチが世の中をよくする。世の中を正しくする。そういう希望を、メルケル首相は与えてくれている。

メルケル首相を含む、リーダーたちのパワースピーチについて、『パワースピーチ入門』(角川書店)で詳しく書いた。ぜひ、参考にしてほしい。

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橋爪 大三郎(はしづめ・だいさぶろう)
社会学者
1948年神奈川県生まれ。大学院大学至善館教授。東京工業大学名誉教授。77年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。『4行でわかる 世界の文明』(角川新書)、『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『皇国日本とアメリカ大権』(筑摩選書)など著書多数。共著に『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、新書大賞2012を受賞)、『日本人のための軍事学』(角川新書)など。

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(社会学者 橋爪 大三郎)

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