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「先のことはまだ何も」64歳の客室乗務員は大減便の最中でも笑顔だった

プレジデントオンライン / 2020年9月7日 9時15分

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん - 撮影=遠藤素子

空を飛び続けて46年、乗務時間は3万時間を超えた。新型コロナウイルスによる大減便で、乗務の機会が減って自宅待機が続いていた。それでも、全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さんは「長く働いているといろんなことが経験できますね」と前向きだった。連載ルポ「最年長社員」、第9回は「客室乗務員」——。

■コロナで運休、減便……最年長客室乗務員の今

19歳で「スチュワーデス」となった女性が64歳の今も空を飛び続けている。その間に呼び名は「キャビンアテンダント(CA)」に変わり、若い女性だけだった職場にも老若男女がそろう。「辞めたいと思うようなことは何もなかった」。天職を歩んだ人生だった。

新型コロナウイルスの感染拡大で大幅な運休、減便が実施されていた7月も全日本空輸(ANA)の客室乗務員、小俣利恵子さんは勤務に就いていた。取材した7月16日の翌日は羽田―沖縄間の往復勤務。10日ぶりの勤務だった。もちろんコロナ禍の前に比べれば勤務日数は激減している。

「こんなに飛べないまま定年を迎えるのかしら?」

小俣さんは笑ってみせるが、空に憧れ続けたCA人生のエンディングとしては少し残念だろう。

同期のCAが8月に退職。小俣さんは約9000人のCAの中で最年長となった。雇用延長制度で65歳になる来年2月まで働く。あと半年の間、最年長社員として飛び続ける。これまでの乗務時間はすでに3万時間を超え、定年までには3万1000時間を突破しそうだ。

■テレビドラマに憧れ、2度目の受験でつかんだ仕事

小俣さんがANAに就職したのは1975年5月。当時、スチュワーデスは若い女性がなりたい花形職種だった。そのきっかけを作ったのは、1970年から71年にかけて放送されたテレビドラマ『アテンションプリーズ』(TBS系)である。

地方出身の女性が高卒で上京し、国際線のスチュワーデスになるまでを描いている。茨城県で育った小俣さんも中学生の頃に番組を見ては「スチュワーデス、いいわね」と友達と語り合った。

茨城県の女子高を74年3月に卒業。卒業前にANAと日本航空を受けたが、どちらも二次試験で不合格。両親は大学進学を勧めたが、「高卒でスチュワーデスになれるのにわざわざ大学に行かなくてもいい」と再受験を目指した。卒業直後の5月に既卒対象の試験があり、受けたら今度は合格に。8月に内定し、翌年の5月に入社した。

飛行機に乗ったことはなかった。「親戚を見回しても飛行に乗ったことのある人はいなかったと思います」。高校の恩師に「すごいね」と褒められたのを覚えている。『アテンションプリーズ』の主人公は佐賀県出身の高校卒業生だったが、小俣さんのスタートもうり二つ。テレビ番組に憧れた少女の夢がまずはかなった。

■厳しい指導を受けた先輩から太鼓判を押された

テレビドラマではCAの卵たちは厳しい教官の指導や仲間のいじめなどに苦労しながら成長していくのだが、小俣さんは「これまで辞めたいと思うようなことは何もなかった」と笑う。

地上訓練の後、インストラクター役の先輩CAと一緒に4日間のOJTがあった。入社から2カ月後のことだった。先輩CAは社内でも「指導が厳しい人」と知られていた。その4日間を振り返り、「できないことばかりで、できることは少なかった」と小俣さん。

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん
撮影=遠藤素子
全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん - 撮影=遠藤素子

離着陸の前にお客様がちゃんとシートベルトを締めているか、座席の背もたれを元に戻しているかなどを確認しなければならないが、見落としてしまう。今なら「なんで見えないのかしら」と思えるようなミスだ。もちろん先輩の厳しい指導が数多くあったはずだ。

でも厳しい指導にも「こんなものだろう」と受け止めたという。中学校時代にはこれまたテレビドラマ『サインはV』(TBS系)に刺激され、9人制バレーに精を出していた。「体育会系でしたので、上下関係や自分に与えられた職務をちゃんとやる、ということに違和感はありませんでした」。

厳しい指導にも「なぜこのように言われるのか」を考え、「確かに不手際があった。なるほど努力が足りないなあ」と思うようにした。小俣さんの自己分析は「負けず嫌い」。厳しい指導に落ち込むのではなく、「ちゃんとやらねば」と前向きに考えた。

4日間のOJTが終わったとき、その先輩CAは「あなたならできるから大丈夫よ」と小俣さんを励ましたという。

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん
写真提供=小俣利恵子さん

■“46年間”の土台…「負けず嫌い」と「プラス思考」

CAを続けるには体調管理が大切だ。気圧の変化が大きい離着陸を繰り返し、国際線ならば時差もある。日々、体調を整えるのは難しい。

でも小俣さんは「小さなことを気にしない。職業柄、目配り気配りはしますが、くよくよしない性格です」という。時差のある地域に飛ぶと、寝付けないこともある。そんな時、小俣さんは「眠くなったら眠られる。一晩ぐらい眠れなくても死にはしない」と考えるようだ。

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん
撮影=遠藤素子

「眠れなかったらどうしよう」と考え始めると、眠れなくなる悪循環に陥ってしまう。そんな状況で無理を重ねると本当に体調を壊してしまう。でも小俣さんの場合は、そんなことはなかったという。

航空業界で一番大切なものは「安全」である。安全を維持するには決められたルールを守るという規律が必要だ。CAは決められたことを時間内にきっちり実行しなければならない職業である。それだけに日頃から過ちは許されないのだが、人間だから見落としもある。

そのたびにクヨクヨしていては、身が持たない。日々前向きに業務に取り組みつつ、失敗などを引きずらない鷹揚さを併せ持たねばならないのがCAだろう。その点、小俣さんは双方を持ち合わせているように見えた。まさにCAは小俣さんの天職だったのではないかと思う。

■「国際線を飛びたい」実現した30年越しの夢

小俣さんはCA人生を順調にスタートさせたが、その後も順風満帆だったわけではない。念願の国際線のCA業務に定期的に就けるようになったのは50歳を前にした「アラフィフ」の頃だった。

ANAが国際線の定期便を飛ばすようになったのは1986年から。拠点は成田空港だった。それまではANAの国際線はチャーター便だけである。

小俣さんも1979年に国際線サービス資格を得て、アジア路線を中心にチャーター便のCAとして不定期に乗務することはあったが、乗務の中心は羽田空港を拠点にした国内線。1986年にANAが国際線に本格的に参入したことで、小俣さんは「国際線を飛びたい。羽田から成田へ移りたい」と毎年の自己申告面談で上司に繰り返し希望を伝えた。

だが希望は40代半ばになってもかなわない。小俣さんは「もうこの年で成田に行ってもやることはないだろう。羽田でやれることをやろう」といつしか考えるようになり、成田への異動の希望を出すのをやめたという。

ところが2000年以降、羽田空港の国際化が議論になる。いったん成田空港に移した国際線を羽田に戻し、羽田を国際空港として再整備するという流れが生まれたのだ。そうした流れの中で、国内線と国際線のチーフパーサー(CP)資格も見直され、新制度が導入された。小俣さんも国際線のチーフパーサー資格を取り直すことになる。

2004年、48歳の時に国際線CP資格を取るために、若いCAらと一緒に訓練を受けた。「まさに50の手習いでした」。その後、2010年には羽田空港に新しい国際線ターミナルが供用開始となり、羽田から国際線定期便が再び飛び始めた。

「国際線が私の周りに寄って来たのです」

全日本空輸(ANA)客室乗務員の小俣利恵子さん
撮影=遠藤素子

小俣さんは50代になって国際線定期便のCPに就くことができた。当時の勤務は国内線と国際線の兼務だったので、国際線に乗務するのは月に1、2回ではあったが、国際線に乗務するという夢は30年越しにかなったのだ。

■持ち前のプラス思考が生きた「前例のない出向」

CAは55歳の時に定年の60歳以降も雇用延長して働くかどうかを会社に申告する。ようやく夢をかなえた小俣さんはもちろん働き続けたいと雇用延長を選んだ。

ところが会社人生は思うようにはいかないものだ。56歳の時にスカイビルサービス(現ANAスカイビルサービス)に出向を命じられる。羽田空港に到着し、次の便に乗り継ぐ人を案内する業務を担う会社である。これまでCAが出向したことはない会社だった。「何で? 私が働けるのかしら?」という思いで小俣さんは働き始めたという。

しかしそれは杞憂だった。40~50歳代の社員が30人ほど働く小さな会社で、ANAのさまざまな部署の経験者が集まっていた。CA一筋だった小俣さんの知らない事や経験談を聞くにつけ、勉強になり、楽しい日々となった。「泣く泣く行ったのにとても楽しく働きました」という。

入社直後のOJTで先輩CAの厳しい指導を受けても「こんなものだろう」と受け止め、前向きに努力した小俣さんである。同じ経験をしてもネガティブに見るか、ポジティブに見るかで、その後の人生は大きく変わるものだ。

「出向中に仲良くなった人たちと今もお付き合いしていますよ」。何事もポジティブに受け止める小俣さんだからこそ、新しい職場でも仲間が増えたのだろう。

とはいえ出向中、心配だったことがある。定年の60歳までにCAに復帰できないと雇用延長後はCAとして働けなかったからだ。結局、出向は3年間で終え、定年の半年前にCAに復帰できた。「その時はホッとしました」と小俣さん。

■「目の前のことをきっちりやれば、次が見えてくる」

最近、小俣さんは入社5、6年目の若いCAに「なぜ小俣さんはこんなに長く働けたのですか?」と尋ねられたという。小俣さんの答えはこうだった。

「私は人に誇れるようなことは何もない。すごく努力をしたわけでもない。目の前でやらねばならないことをきっちりやればいいのよ。そうすると次にやることが絶対に見えてくるから。人に教えてもらうこともあるけれど、自分で見えてくることもあるわ」

小俣さんの流儀は「まずは目の前の課題を全力で取り組む」ということなのだろう。それが次の課題に続き、そして夢の実現につながる——。

小俣さんを取材していて、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で語った有名な演説“Stay Hungry, Stay Foolish”を思い出した。その中で、ジョブズは“Connecting the dots”(点と点をつなぐこと)の重要性を強調した。

目の前のモノに一生懸命取り組むと、おのずと点と点はつながり、素晴らしい未来にたどり着くものなのだ。先々のことを思い悩み、点と点をつなごうとしてもうまくいくとは限らない。そんな人生訓である。

小俣さんのCA人生も“Connecting the dots”そのものであった。

ANA機
撮影=遠藤素子

■「前に出るのをやめました」自覚する自身の役割

今もシニアエキスパートCAとして飛び続ける小俣さんは彼女よりずっと若いCPのもとで働いている。「私ならこうやるのに! などと忠告したくなりませんか?」と意地悪な質問をしてみた。

すると「前に出るのをやめました。今のCPは私たちの頃と比べてちゃんと育てられています。彼女の『便』を作ればいいのです。もしも間違っていることがあれば助けるのが私の役割ですが、そんなことはあまりありません」と小俣さんは言う。

打ち合わせ風景
撮影=遠藤素子
打ち合わせ風景 - 撮影=遠藤素子

出向時代の3年間、飛行機が飛んでいくのを見ながら「飛びたい!」といつも眺めていた。だから今も飛べることがとてもうれしく、楽しいそうだ。もしもずっとCPのままシニアになっていたら、シニアの境遇に不満を持ってしまったかもしれないが、飛べなかった3年があったから、今とても冷静な気持ちで飛べているのだろう。

先輩CAから「出向した3年間は絶対に無駄ではないからね」とアドバイスを受けたという。小俣さんは「その通りでした」と静かに振り返る。

■先のことは何も決まっていないというけれど……

長く働き続けたことでいろんなことが実現した。入社した頃は結婚や出産をすればCAを辞めなくてはならなかった。しかし、入社後ほどなく結婚、出産後も働けるようになり、小俣さんは結婚後も働き続けることができた。

すでに書いたが国際線定期便も羽田空港に戻ってきたので、シニアで働き始めてからは大半が国際線の業務である。国際線の業務は薄暗い中で作業することが多く、メニューなどの小さな文字が読みにくくなり苦労することもあるが、「長く働いているといろんなことが経験できますね」と小俣さんはクスっと笑う。

来年2月末に退社する。小俣さんは「その先のことは何も決めていません。どうしたらいいかもわからないのです」と話す。でもこれまでの流儀ならその時、何かが見えてくるに違いない。

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安井 孝之(やすい・たかゆき)
Gemba Lab代表、経済ジャーナリスト
1957年生まれ。早稲田大学理工学部卒業、東京工業大学大学院修了。日経ビジネス記者を経て88年朝日新聞社に入社。東京経済部次長を経て、2005年編集委員。17年Gemba Lab株式会社を設立。東洋大学非常勤講師。著書に『これからの優良企業』(PHP研究所)などがある。

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(Gemba Lab代表、経済ジャーナリスト 安井 孝之)

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