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「銅メダルも逃した」北京五輪で大エラーしたG.G.佐藤に星野仙一がかけた言葉

プレジデントオンライン / 2020年9月3日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MisterClips

2008年北京五輪。野球日本代表の星野仙一監督は「日本を代表する最強の布陣」と評し、「金メダルしかいらない」と宣言していた。ところが結果は4位。このとき「A級戦犯」と呼ばれたのが、大エラーをしたG.G.佐藤だ。帰りの飛行機でG.G.佐藤は妻に「死にたい」とメールをするほどだった。そんな彼に星野仙一がかけた言葉とは――。

※本稿は、澤宮優『世紀の落球「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■打撃絶好調で北京五輪代表に追加招集

西武ライオンズのG.G.佐藤(本名・佐藤隆彦)は、入団5年目の平成20年、シーズンはじめから絶好調だった。

5月には9本塁打を放ち月間MVPを受賞、三冠王の呼び声が高かった。

そんなときさらなる朗報がもたらされた。北京五輪の日本代表候補に追加招集されたのである。日本代表チームの監督は星野仙一、1年前のアジア予選を全勝して五輪出場を決めていた。

代表チームには、稲葉篤紀(北海道日本ハムファイターズ)も選ばれていた。稲葉のポジションは佐藤と同じライトであり、若手の佐藤がレフトに行くことになった。

星野仙一は彼らを「日本を代表する最強の布陣」と評し、「金メダルしかいらない」と宣言していた。

■「エラーするかも」洩らした不安

日本代表は五輪前に合宿と壮行試合を行った。佐藤は合宿からレフトの守備についたが、驚くことの連続だった。

澤宮優『世紀の落球「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)
澤宮優『世紀の落球「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)

「これはやばいぞ。ライトとは予想よりも違うぞ」

右利きの佐藤は、レフトだと、左打者の切れる打球を逆シングルで捕ることになる。しかも捕球したあとは、体が二塁ベースとは反対方向を向くので、切り返す動きが入ってくる。

佐藤は壮行試合で、左打者の打球をトンネルして二塁打にしてしまった。

「思った以上に切れ方が大きかったですね。これは気を付けなければならないなと思いました」

そこに不運も重なった。合宿の初日にノックを受けたとき、佐藤は張り切って二塁へ全力で投げた。その際、肩に急激な痛みが走った。

「ビカンという感じの痛みが走りました。それまで感じたことのない激痛でした」

以後、送球の不安を抱えることになり、それは守備に対しての自信を失わせた。捕ったらすぐに投げて、送球の弱さをカバーしようと考えたが、それでは確実に捕ることに徹せない。

北京へ向かう飛行機の中で佐藤は村田修一(横浜ベイスターズ)に「自分はエラーするかもしれない」と不安を洩らしている。その不安が的中することになる。

■焦りが捕球をおろそかにさせた

日本チームは予選リーグを4位で準決勝に進んだ。ここから試合形式は総当たりから、トーナメントに変わる。

準決勝の相手は、予選で負けた韓国である。佐藤は7番レフトでスタメン出場した。

日本が2点をリードした4回裏。先頭は左打者の李容圭。

李は先発・杉内俊哉(福岡ソフトバンクホークス)の球を流し打ち、レフト前に運ぶ。打球は大きく切れながらレフト線寄りに落ちた。佐藤はライン際に走ってゆく。肩が痛いので、捕ったらすぐに二塁に投げなければならない。その焦りが、捕球をおろそかにさせた。

ボールはツーバウンド目で、彼のグラブをかすめて左足に当たり、ファウルゾーンへ転がった。トンネルだった。

その間に李は悠々と二塁まで進んでいた。杉内はその後ヒットを打たれ、次打者の内野ゴロの間に1点を失った。2対1となった。

「自分でも“何これ、なんで捕れないの”と思いました。わけがわからなくなって、トンネルした自分を疑い出してしまって。“どうしたんだろう今日は”と思うようになり、こんなゴロも捕れないのだから、とフライを捕る自信も失ってしまったんです」

■「どうせならホームランになってくれ」

日本代表は追加点を奪えないまま、7回裏に同点に追いつかれた。

そして8回裏、李承燁に2ランを打たれ、ついに勝ち越される。なおも二死一塁で、バッターボックスには7番高永民。

涌井秀章(埼玉西武ライオンズ)の速球を思い切りスイングすると、打球は左中間の深い場所に飛んだ。レフトの佐藤とセンターの青木宣親(東京ヤクルトスワローズ)がともに追いかける。

4回にトンネルをして弱気になっていた佐藤は「青木、捕ってくれ」と思ったが、佐藤のほうが先に打球に追いついた。フェンスにぶつかりながら捕球しようとしたが、ボールはグラブからこぼれてセンターへ転がった。

青木がすぐに拾って返球したものの、一塁走者は三塁を回ってホームインした。佐藤は膝をついてしばらく立つことができなかった。

「難しい打球でしたが、グラブに触っているので捕れた当たりだと思います。ただ飛んで来たときには、どうせならホームランになってくれとも思いました。青木に捕ってくれと考えているようじゃ駄目ですよね。自信がなかったんですね」

■阿部慎之助に抱きかかえられてバスに乗った

これで韓国にダメ押しの5点目が入った。佐藤はベンチに戻るのが怖かったという。

最終回の日本の攻撃時も佐藤はベンチの隅にうなだれて座っているだけだった。誰も声をかける者はいなかった。

韓国に敗れた日本は金メダルの可能性が消え、3位決定戦に回ることになった。試合後、佐藤は涙が止まらず、阿部慎之助(読売ジャイアンツ)に抱きかかえられてバスに乗るのがやっとだった。

その夜、森野将彦(中日ドラゴンズ)と阿部が食事に誘ってくれた。二人で「負けたのはお前だけのせいじゃない。気にするな。明日勝って銅メダルを獲ろう」と励ましてくれた。しかし佐藤は、明日は自分の出番はないと考えた。

「金メダルが目標でしたからね。自分のエラーで負けたので気持ちが切れてしまったんです。二度エラーした私を星野監督が翌日も使うわけはないと思い込んでいました」

ところが翌日、彼にとって予想外の出来事が待っていた。

■星野監督の恩情が裏目に出てしまった

翌日の米国との3位決定戦の日。朝食会場の壁に貼られたスターティングメンバーを見て、佐藤は仰天した。そこに自分の名前があったからだ。

「レフトはお前で行くぞ」

星野にも打撃コーチの田淵幸一にも声をかけられた。佐藤の喉からは「嘘でしょう」という言葉が出かかった。

星野は「佐藤の野球人生をダメにしたくないからチャンスを与えたい」とコーチ陣に洩らしていた。だがこの状況では、星野の恩情は佐藤にとって逆に作用した。

「ふつうならチャンスをもらって意気に感じる場面なのでしょうが、僕には『やばい』という気持ちしかありませんでした。なぜ僕を先発で使うのか、と。気持ちがへこんでいたので試合に出る自信がなかったんです」

佐藤は、昨日は弱気になっていたので、今日は守備でももっと積極的にいかなければならないと肝に銘じた。

試合が始まった。日本代表の先発は左腕の和田毅(ソフトバンクホークス)。日本は3回表を終わって、4対1と試合を優位に進めていた。

■任せるべき打球を深追いしてまたも落球

3回裏、米国の先頭打者1番バーデンの打球は、和田の球威に押され、ショート中島裕之(埼玉西武ライオンズ)の後方に上がった。中島が捕球体勢に入ろうとしたが、そこへ佐藤が声を上げて勢いよく前進してきた。中島は急いで二塁方向によけ、佐藤に任せた。

佐藤は逆シングルで捕球しようとしたが、ボールをグラブの先に当てて落としてしまう。またもや騒然となる球場。落ちたボールはレフトフィールドを転がる。

「強気にいこうという気持ちが空回りして、本来中島に任せるべき打球を無理に捕りにいきました。積極性が裏目に出てしまいました」

バーデンは一気に二塁へ進んだ。和田は次打者を歩かせ無死一、二塁に。一死後センター左へ3ランを打たれ、4対4の同点となった。

5回裏に和田をリリーフした川上憲伸(中日ドラゴンズ)も打たれ、ついに逆転され、その後4対8と突き放された。

日本は挽回できず、米国に敗れ、銅メダルも逃した。

試合後、星野は「すべては自分の責任」と報道陣に語った。

■「飛行機が落ちてくれないか」とさえ思った帰路

試合後、日本代表は帰国の途についた。飛行機に乗る前に佐藤は妻に携帯電話からメールを送っている。そこには「死にたい」と書かれていた。

現在のG.G.佐藤氏
現在のG.G.佐藤氏(画像=著者撮影)

飛行機に乗っている最中も、帰国後にマスコミから取材攻勢を受けることを考えると気が重かった。不謹慎だが、飛行機が落ちてくれないかとさえ思った。他の乗客のことまで頭が回る状況ではなくなっていた。

空港に着くと、談話をとるため佐藤のもとに新聞記者が駆け寄った。翌日からは「G.G.佐藤、A級戦犯」「エラーのE.E.佐藤」などと書かれた。

佐藤は、町を歩いていても、常に誰かから見られている思いがした。プライベートのときも記者に追いかけられた。そんなとき妻は明るく励ましてくれた。

「野球でまた見返していこうよ」

佐藤は回顧する。

「バッシングもすごくて、常に追いかけられている感じが1カ月くらいあったと記憶しています」

■「所沢の空が北京の空に見えました」

佐藤の復帰は、あの落球から3日後、本拠地である西武ドームで行われた東北楽天ゴールデンイーグルス戦だった。

佐藤は、観客からひどい野次を受けるのではないかという不安を覚えていた。しかし球場に行くと、観客席には「G.G.立ち直れ」「どんなときもG.G.はG.G.だ」「G.G.俺たちはいつもお前の味方だ」と大きく書かれたプラカード、貼り紙があちこちに掲げられていた。

「うれしかったですね。本当に勇気づけられました。頑張らなければいけないと思いました」

試合前に佐藤の名前がアナウンスされたとき、誰よりも大きな歓声が上がった。ポジションは慣れたライトである。2回に楽天ホセ・フェルナンデスの打球がライトに上がった。平凡なフライだったがこのとき球場全体がどよめいた。

「こいつフライ捕れんの? みたいな雰囲気があったんでしょう」

佐藤は苦笑する。無事にキャッチすると、大きな歓声が上がった。佐藤はガッツポーズをして見せた。イージーなフライで観客を沸かした選手は自分だけかもしれないと思うとおかしくもあった。

試合後、「所沢の空が北京の空に見えました」とコメントして、ファンの笑いを誘った。

佐藤は、帰国直後に星野に手紙を書いていた。〈すべては私のせいです。申し訳ありません〉と思いのたけを綴ったが、このとき星野から返事はなかった。

この年は9月に左足首痛で戦列を離れたが、21本塁打、打点62、打率3割2厘(ベストテン7位)と素晴らしい成績を残した。チームもオリックスを振り切ってリーグ優勝し、日本シリーズでも巨人を破り日本一になった。この年の優勝は佐藤なしではありえなかっただろう。

■「自分の野球人生を全うして、野球界に貢献しろ」

翌年3月のヤクルトとのオープン戦のときだった。試合前に北京五輪で主将を務めた宮本慎也が話しかけてきた。彼は佐藤に「星野さんに手紙書いたんだって?」と尋ねた。佐藤が頷くと、宮本は言った。宮本は星野と会っていたのだ。

「星野さんからの伝言だけどな。あのことは気にしなくていいから、自分の野球人生を全うして、野球界に貢献しろと言っていたよ」

佐藤は胸が熱くなった。

この年、佐藤はプロ生活でキャリア・ハイの成績を残す。4月に長女が生まれ、家庭生活もさらに安定した。とくに9月は打率4割、9本塁打を記録して、2度目の月間MVPを獲得した。シーズンを終わってみれば、ほぼ全試合に出場して、25本塁打(リーグ5位)、自己最高の83打点(リーグ6位)、打率も2割9分1厘を残した。年俸も1億円を超えた。

星野の言った「野球人生を全うすること」を自分なりに体現したのだった。

■星野の言葉を胸に、現役にこだわった

しかし翌22年、シーズン途中に左肩を故障し、さらに両肘も痛め戦列を離れた。翌年は二軍暮らしが続きシーズン後に戦力外通告を受けた。それでも佐藤は諦めなかった。24年はイタリアのチーム(8月に解雇)、さらに富山県のクラブチームでプレー、この年の11月に千葉ロッテマリーンズのテストを受け合格、入団する。そこまでして現役生活に固執したのも星野の言葉が彼の中で生き続けていたからだろう。

あるとき、試合前に佐藤が挨拶に行くと、星野は笑顔で冗談を飛ばした。

「元気か? 今日もフライ落としてくれよ。うち勝てるから」

佐藤は恐縮するばかりだった。

平成26年のオフ、彼は現役引退を決めた。すでに36歳になっていた。

苦しい時を支えてくれた妻に伝えた。

「これで引退するね。本当にありがとう」

妻の頬には涙が流れていた。

■「星野さんに何も恩返しができなかった」

佐藤が第二の人生に選んだのは、地盤測量、改良を行う会社「トラバース」の会社員だった。父親が創業者だが、彼は新入社員と同様に、住宅メーカーや建築現場に足を運び、営業回りをした。仕事が終わって毎日2時間は測量、地盤関係の勉強の時間を作った。測量士補、二級土木施工管理技士の資格を取得した。

そんなとき星野の野球殿堂入りが決まった。平成29年1月だった。その年の11月に祝賀会が行われたが、来客も多く、佐藤は挨拶ができなかった。言葉をかけられぬまま、いつかはと思っている矢先、星野は翌30年の年明け早々に亡くなった。70歳だった。

「何も恩返しができないまま星野さんはいなくなってしまった」

■「もし落球する運命でももう一度五輪に出たい」

現在佐藤はトラバースの千葉営業所の所長を務めている。部下も60人ほどいる。管理職として、常に彼の念頭にあるのは星野の姿だ。

それが星野イズムかどうかはわからないが、部下が失敗したら、なぜ失敗したのかを考えさせて、答えを出すまで待つ。そして次にどうすべきか考えてもらい、もう一度チャンスを与えることにしている。そのときは自分が積極的に背中を押すようにしている。

取材の最後に、もう一度五輪に行きたいか、と尋ねた。

佐藤はいっとき思案していたが、はっきりと言った。

「もう一回オリンピックに出て金メダルを獲り返してやりたいです。もし、また最後に落球する運命だったとしても自分は行きます。あのことで自分は人の苦しみ、痛みがわかったので、いい経験をしたなと思うんです。世の中には苦しんでいる人がいっぱいいますから」

平成30年、佐藤は合格率15パーセントという宅地建物取引士の国家試験に一度の受験で合格した。彼の会社員としてのペナントレースはまだ前半戦である。

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澤宮 優(さわみや・ゆう)
ノンフィクション作家
1964年熊本県生まれ。青山学院大学文学部、早稲田大学第二文学部卒。日本文藝家協会会員。『巨人軍最強の捕手』で戦前の巨人軍の名捕手吉原正喜の生涯を描き、第14回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。主な作品に『イップス――魔病を乗り越えたアスリートたち』『スッポンの河さん――伝説のスカウト河西俊雄』『戦国廃城紀行』など。

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(ノンフィクション作家 澤宮 優)

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