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三浦瑠麗『人工知能にはない意識の本質「クオリア」とは』

プレジデントオンライン / 2020年9月4日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/metamorworks

■『クオリアと人工意識』を読んで

茂木健一郎さんの新著『クオリアと人工意識』(講談社現代新書)を読んで、あらためて茂木さんの思考の広さに感銘を受けた。話は、タケシとサユリの会話から始まる。学校で行う人工知能の演劇、初めてコンピューターを発明した同性愛者、人類初のプログラマーとなった女性。読者はプロローグを読む過程でサユリがタケシの母親だと読み解き、性自認の曖昧さや、鏡に映る自己を自己と認識することの不確かさを考えさせられる。

人間が、自分はなぜ存在しているのだろうとか、自分の意識はどうやって生じたのだろうとか考えること自体、面白い。本書は読者の好奇心を惹きつけながら、人工知能と人間の意識について語ることで、人間の本質に迫っていく。

人工知能にはいまや人間が到底勝てないような計算能力という意味での知能が備わっている。だが、猿やライオンにはない人間特有の高度な学習能力を人工知能に極めさせたとしても、それで人間と同じ知性が生み出されたと私たちが感じることは(まだ)ない。それは人工知能に人間のような意識がないからだ。いまの人工知能ができることは将棋のように狭い世界におけるルールにのっとったゲームでの最適化であり、人間が納得するようなルールや倫理を生み出すことでもなければ、物語の一行目を創造することでもない。

■人間の経験による意識の集大成

では意識とは何か。メタ認知という言葉があるが、これは意識の本質であり、物事を理解したという「腑落ちする」実感につながると茂木さんは指摘する。人工知能は正解を求めるが、このような感覚を持たない。人間が自己を客観的に把握しようとするのも、意識があるからだ。そして、意識の本質にはクオリアがある。

茂木さんが随所で提示するクオリアという概念は、木に生(な)った赤いつやつやとしたトマトの外皮を見たときの感じであり、苔むした老木が倒れ掛かる渓流の浅瀬に素足をつけたときの冷やっとしたその感じだ。

私たちの感覚は、こうした個人が過去に体験した記憶を呼び起こすことで意味づけされているだけでなく、人間が進化の過程で身に付けてきたことによって備わったものも存在する。生きることを目的に、様々な行動を取捨選択してきた結果、人間が身に付けたクオリアというものが存在する、と。

クオリアが存在するならば、「私」の人生で経験した意識の集大成として、さらには人類の経験による意識の集大成として、存在するはずだ。とすれば、「私」が途切れても、人間の意識が途切れるということはないのかもしれない。

思考がはてしなく続き、少々頭が混乱するかもしれないが、本書のいいところは実に魅力的に書かれているということ。本書を読み、タケシがしたように、少し疲れたところでおいしいごはんを食べながら頭を休める、という夏の過ごし方もいいのかもしれない。

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三浦 瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者
1980年、神奈川県生まれ。神奈川県立湘南高校、東京大学農学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。著書に『21世紀の戦争と平和』(新潮社)、『日本の分断』(文春新書)など。

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(国際政治学者 三浦 瑠麗)

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