「死因不明遺体にもPCR検査を」変死体と向き合う女性法医学者の警告
プレジデントオンライン / 2020年9月3日 11時15分
■変死体が「感染していない」とは言い切れない
——法医学教室には事件や事故、孤独死などによる「変死体」が運ばれてきます。千葉大学では全国に先駆けて、変死体にPCR検査をしています。いつから始めたのですか。
【永澤】そろそろ緊急事態宣言が出るらしい、という話が出始めた3月後半です。
法遺伝学者(法医学領域のDNAを扱う研究者)であり、歯科法医学者の斉藤久子先生と共に、「警察から運ばれてきたご遺体のPCR検査は、法医学教室でできるようにしておかなければならない」と思い立ち、二人で相談しながら、PCR検査機器のメンテナンスや試薬の発注など、準備を始めました。
保健所や衛生研究所は、現在もそうですが、生きている患者さんのPCR検査で精いっぱいでご遺体にまでなかなか手が回りませんので。
——変死体にもPCR検査が必要だと思った理由は何ですか。
【永澤】警察が「異状死」として取り扱うご遺体の中には、はっきりした死因がわからないまま自宅で亡くなっている人や、屋外で倒れて発見されるケースが多いのですが、そうした方の中にも新型コロナウイルスの感染者が含まれている可能性があると思ったからです。
——感染を認識しないまま、病状が悪化して亡くなる方もいるのですね。
【永澤】そのとおりです。発熱したらすぐに病院へ行って受診する、また、症状が出る前からPCR検査を受けようと思う人は意識の高い人ですが、体調が相当悪くても病院に行かないで我慢する人はかなりおられるのです。
■感染リスクにさらされる警察官、検視官、警察医、法医学者……
——実際に、『変死体のコロナ感染11件…5都県、1か月間で』(2020.4.21/読売新聞)という報道がありました。記事によると、死後に感染が発覚した方の多くは自宅で倒れている状態で見つかったとか。
【永澤】北千住駅近くの路上で倒れていた方もおられたようですね。
——5月には群馬で「交通事故後に救急搬送され死亡→コロナ感染判明」というケースもありました。
【永澤】変死体として法医学教室に運ばれてくる遺体にも検査をする必要があります。死後CTで肺炎は見つけられたとしても、それが新型コロナウイルスかどうかは、解剖とPCR検査をしてみなければわかりません。
——死因不明の変死体に触れる先生方のような仕事は、感染が心配ですね。
【永澤】はい。われわれの仕事は、常にさまざまな感染症のリスクにさらされています。私自身は今、4歳と2歳の子どもの子育て中ですが、もし、自分がご遺体から感染して子どもにうつしてしまったらどうしようという不安は常にありますね。また、現場でご遺体にファーストタッチする警察官や検視官、警察医も特に危険です。
——遺体の場合、PCR検査に使う検体はいつ、どのように採取するのですか。
【永澤】鼻咽頭を拭ったり、解剖時に肺から組織をとったりして、それを使います。
■感染の有無も分からずに遺体に触れる現状
——PCR検査の結果は、解剖が終わってから出るのですか?
【永澤】本来は、解剖医やスタッフの安全を守るためにも、解剖の前に感染の有無を検査するべきです。特に、今回の新型コロナは、未知のウイルスによる新規感染症ですので……。
しかし、残念ながら今の日本ではそういう流れにはなっていないので、死後CTで肺炎が疑われる場合は、防護服などを着用して感染症対策を行ったうえで解剖しています。
——千葉大法医学教室ではこれまでに何体分のPCR検査をしたのでしょうか。
【永澤】8月28日現在で77体ですが、これらは生前の症状の有無にかかわらず検査を行いましたが、今のところ陽性者は出ていません。
——陽性の結果が出たらどう対応するのですか。
【永澤】まずは結核と同様、保健所に連絡します。その後、ウイルスの専門家がいらっしゃる東大医科学研究所に、ご遺体から採取した検体や血液を送り、死後、ウイルスの感染力がどのくらい続くのかを分析していただきます。
——現在、変死体のPCR検査をしている法医学教室は、千葉大以外にもありますか。
【永澤】全国で7~8カ所だと聞いています。
——日本国内では、変死体のPCR検査がほとんどできていないのでは。
【永澤】そうですね。どこの大学も、国や県から検査をするよう指示を受けているわけではなく、あくまでも独自の判断で行っているというかたちになります。
他の法医学教室では、すでに新型コロナ陽性のご遺体が出ていると聞いています。やはり、検査をしておくことは大切だと痛感しています。
■「善意」に頼る遺体へのPCR検査の実態
——PCRの検査機器をそろえる費用はどれほどかかりますか。
【永澤】多くのメーカーからさまざまなグレードのPCR検査機器が販売されていますので一概には言えませんが、1台350万円から500万円です。試薬も意外と高く、50反応分で15万~25万円です。
【永澤】もちろん、50回で50人分の検査ができるわけではありません。1体につき2~3カ所の反応を見る場合がありますので、50反応分の試薬でも25体分しかできないということになります。作業を行う安全キャビネットは、サイズにもよりますが200万円くらいです。
——「安全キャビネット」とはどのようなものですか?
【永澤】バイオハザード(生物学的な危害要因)を封じ込めるための“箱”のようなものです。検体の感染症から作業者の身を守るために箱の中を陰圧にし、上部にHEPAフィルターをつけ、病原体が箱外に漏出しないようにしたものです。
この箱の中で検査をすれば、作業者への感染を防ぐことができますし、検体をクリーンな空間で扱うことができます。
——3月時点で、千葉大の法医学教室には、すでに設備があったのですね。
【永澤】はい。実は偶然なのですが、今から12年前、私自身が修士課程から博士課程へ進学する際、担当の教授から「何か研究に必要なものはありますか?」と聞かれたので、「リアルタイムPCRの機器が欲しいです」とお願いし、購入してもらっていたのです。
おかげさまでそれが今、想定外の場面で活躍してくれることになりました。
■国も県もお金は出さない……PCR検査は大学の経費
——法医学教室で行われたPCR検査の費用は、国や県から支払われるのでしょうか。
【永澤】実は、ご遺体のPCR検査費用は、今のところどこからも出ません。そのような法律も、規則もないんです。私たちが現在行っているPCR検査については完全に無償で、大学の経費で賄っています。どこかに請求しようという予定もありません。
——どこからも費用が出ないのですか?
【永澤】はい。日本ではこれまで、ご遺体に対する各種検査や経費負担の議論がほとんど行われてきませんでした。ちなみに、日本で死亡したアメリカ人のご遺体を空輸して母国に返す際は、PCR検査をして陰性でなければならないそうです。他国では死者に対してもそれくらい慎重になっているのですが。
——警察の科捜研などでは変死体のPCR検査をしているのでしょうか。
【永澤】検視官から科捜研へ要望はあったようですが、ほとんど行っていないと聞いています。
警察の場合は犯罪捜査がメインなので、「感染症のPCR検査は実施しない」という判断は正しいと思います。科警研や科捜研で行っているDNA検査は、あくまでも物体検査や個人識別のためですので、今回のようなウイルス検出とは目的が異なります。
——国内で見つかった変死体のPCR検査やウイルスに関する研究は、ごく一部の法医学教室に委ねられているということですね。
【永澤】たしかにこのままでは深刻だと思いますが、今回の新型コロナの感染拡大をきっかけに、国も少しずつ私たちの声にも耳を傾けてくれていますので、今後に期待したいです。
■「PCR検査に過度な期待をするべきではない」
——メディアなどでは盛んに「PCR検査をもっと増やすべきだ」といった声が上がり、最近は検査数も増えてきています。これは、死者ではなく、生きている人の話ですが、この現状をPCR検査の専門家としてどう思いますか。
【永澤】検査数を増やすこと自体は悪いことではありませんし、症状がある人に対しての確定診断としては有効です。ただ、PCRの結果に一喜一憂するのはどうかと思います。
【永澤】すでにメディアでも指摘されているように、PCR検査は「陰性の証明」にはなりません。検体をとるタイミングが問題で、1日ずれると結果が異なります。そのため、「陰性だから大丈夫だ」と、検査結果が安心の材料として使われるとしたら、逆に危険です。
そもそも、PCR検査の正確さは70%程度と言われており、100%の結果を出せる検査ではありません。また、得られた結果をどう扱うかということも重要で、その判断を行う上で必要な基礎的データを収集・解析する必要があるのです。
とにかく、PCR検査に過度な期待をするべきではありません。
——初感染の確認から半年以上たちましたが、データの集まり具合はいかがですか。
【永澤】まだまだ十分とは言えないと思います。自動のPCR検査機器が次々と導入されていますが、かといって誰もがすぐに扱えるとは思えません。
今回の新型コロナは「RNAウイルス」なので、まずは検体からRNAを抽出し、そのあとに「逆転写PCR」(RT-PCR,Reverse Transcription-PCR)をするのですが、実際には繊細な作業を間違いなく行えるだけの手技が必要で、豊富な経験が要求されます。
検体をとる際にも慣れていない人の場合は不安ですね。
■遺体への「検査」を軽視すべきでない
——失敗がありうるということですか?
【永澤】生きた方の検査では鼻咽頭をぬぐうとき、患者さんが痛がって顔をそむけることがあるのですが、慣れない人が行うと、まったく検体がとれていないことがあるようです。遺体ではこのような心配はありませんが、採取場所や採取方法を統一しておく必要があります。いざというとき、正確な検査を行うためにも、人材の育成は不可欠です。
——新型コロナ感染症で亡くなった人や感染の疑いのある遺体の取り扱いについて、マニュアルの作成にも協力したそうですね。
【永澤】はい。現在、医師、法医学関連の歯科医師、薬剤師、葬祭業者さんや火葬業者さんまで、人の死にかかわるさまざまな分野の専門家と連携し、感染症で亡くなった方に接するための、かなり具体的なマニュアルが作成されました(※)。私はその会議に参加させていただきましたが、国の方も協力的です。こうした「マニュアル」はもちろん、人も機器も防護用品も有事に備えてしっかり備えておくべきです。
※日本医師会総合政策研究機構「新型コロナウイルス感染症 ご遺体の搬送・葬儀・火葬の実施マニュアル 第5訂」(2020年6月)
死因不明の遺体もしっかりと検査して、感染の有無を調べること、そのデータを蓄積していくことが大切です。
もし、ご遺体からウイルスが検出されたら、その方のご家族や濃厚接触者、遺体に触れた警察官や検視官、葬儀関係者などへの感染の有無を検査することができ、思わぬ感染拡大を食い止めることにもつながります。
生きている人へのPCR検査も大切ですが、死因不明のご遺体へのPCR検査こそ、しっかりと行うべきではないでしょうか。
薬剤師/法遺伝学者、法中毒学者、千葉大学附属法医学教育研究センター助教
薬学部生時代に細菌学とウイルス学に興味を持ち、2006年、千葉大学法医学教室へ入局、2012年、「ヘリコバクター・ピロリ(Helicobacter pylori)」の持つ毒素の遺伝子多型を利用した身元不明死体の出身地域推定の研究で博士号を取得。現在は、DNA型鑑定やLC/MS/MSなどの機器を用いた薬毒物検査などの実務をこなしながら、DNAや薬毒物関連の研究を行っている。
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ジャーナリスト・ノンフィクション作家
1963年、京都市生まれ。ジャーナリスト・ノンフィクション作家。交通事故、死因究明、司法問題等をテーマに執筆。主な作品に、『私は虐待していない 検証 揺さぶられっ子症候群』(講談社)、『自動車保険の落とし穴』(朝日新書)、『開成をつくった男 佐野鼎』(講談社)、『家族のもとへ、あなたを帰す 東日本大震災犠牲者約1万9000名 歯科医師たちの身元究明』(WAVE出版)、また、児童向けノンフィクション作品に、『泥だらけのカルテ』『柴犬マイちゃんへの手紙』(いずれも講談社)などがある。■公式WEBサイト
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(ジャーナリスト・ノンフィクション作家 柳原 三佳)
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