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"苦労人"菅氏の生い立ちから見える「菅義偉政権」の危険な兆候

プレジデントオンライン / 2020年9月8日 17時15分

予備選の準備をする自民党神奈川県連を激励に訪れ、党員に手を振る菅義偉官房長官=2020年9月5日、横浜市中区 - 写真=時事通信フォト

■「安倍の政策を引き継ぐ」と主張するが…

昔、長嶋茂雄が巨人軍の監督に就任したとき、「長嶋のいない巨人を指揮する長嶋は大変だ」と思ったことがあった。

王貞治は現役だったが全盛期をとうに過ぎていた。案の定、長嶋監督は結果を残せず、読売新聞首脳部に無慈悲に首を斬られてしまった。

菅義偉(71)も同じ道をたどるのではないかと、私は考えている。安倍首相は、自民党の歴史の中でも、「最軽量の神輿」であった。それが長続きしたのは、女房役である菅官房長官の手腕であったことは、衆目の一致するところである。

だが、黒子役である人間が表に出てしまったら、誰が菅を支えるのか。菅政権最大の弱点である。今下馬評に上がっている人間たちが、菅を支えられるとは到底思えない。

菅は以前から、「総理になる気はない」といい続けてきた。本心であろうと私は思う。なぜなら、菅の人生は常に「ナンバー2」「影の存在」だったからだ。

法政大学時代は「空手部副主将」、横浜市議時代は「影の市長」、安倍政権では「影の総理」。表舞台でスポットライトを浴びるより、黒子に徹して、裏で政治を動かすことに喜びを見出していた男が、安倍の突然の辞任で、いきなり公衆の面前に立たされてしまったのである。

菅は出馬表明会見で、「安倍の政策を引き継ぐ」としかいえなかった。前代未聞である。千歩譲って、安倍政権がそれほど悪い政権でなかったとしても、自分だったらこうするというビジョンを一つ二つ提示するのが、総裁選に臨む人間のたしなみではないか。

■菅義偉という人間を多くの国民は知らない

故中曽根康弘元首相は、平議員の時から、首相になったらこういうことやると、ノートに記していたそうだ。

菅は、東京に来て働いているうちに、26歳にして、「世の中を動かしているのは政治ではないか」と気づき、政治家を志したといっている。幼すぎる。ましてや、菅が過ごした大学時代は、70年安保闘争や学生紛争が燃え盛っていた時代である。そうした中に身を投じていなくても、政治が一番身近に感じられた時代であった。

思想信条ではなく、否応なく政治について考えざるを得なかったはずなのに、菅は大学を卒業するまで考えていなかった。だとすれば、政治は就職先の一つ程度の認識だったのではないか。

失礼ついでにいえば、菅義偉という人間について多くの国民はほとんど知らない。あるのは、「令和おじさん」としての知名度しかないといってもいいだろう。

秋田県の貧しい農家の出で、集団就職で東京に来て、法政大学の夜間を出た苦労人政治家というイメージが独り歩きしているが、それは全く違うようだ。

ノンフィクション・ライターの松田賢弥『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』(講談社+α文庫、以下、『影の権力者』)と、森功『総理の影 菅義偉の正体』(小学館ebooks、以下、『総理の影』)を基に、菅という男の人生を見てみたい。

■ソ連軍による惨劇から命からがら逃れた

菅が生まれたのは秋田県雄勝郡秋ノ宮村という雪深いところである。県南部に位置し山形県寄り、横堀が最寄り駅だが、かなり離れている。

戦前、父親の和三郎は一旗揚げようと、1941年に中国・満州へと渡っている。いわゆる「満蒙開拓団」である。彼は「満鉄」に勤めている。その後妻を満州に呼び寄せ、娘も生まれた。

だが、終戦の年の8月、不可侵条約を破って攻め込んできたソ連軍による侵攻によって、和三郎のいた開拓団376人のうち273人が亡くなっている。しかも8月19日の集団自決だけで、死者は253人にのぼったと、森は、『総理の影』に記している。当時の満蒙開拓団の全在籍者は27万人だが、死者は7万8500人にもなった。

妻と幼い2人の娘と共に命からがら逃げてきた和三郎は、故郷へ舞い戻る。だが、今でもこの地方では、その悲劇を語ることはタブーになっているという。

義偉が生まれるのは引き揚げ後2年たってである。松田は『影の権力者』の中で、「雄勝郡開拓団の不幸な歴史については、菅はくわしくは知らなかった」と書いている。

知らないわけはない。満蒙開拓団の悲劇は、日本が中国を侵略したために起きたのである。二度とこうした悲劇を繰り返してはいけないといえば、憲法を踏みにじり、集団的自衛権を容認し、戦争のできる「普通の国」を目指す安倍政権とは真反対を向くことになる。

菅はそんなことを考えもしなかったのではないか。その一つを取り上げただけでも政治家失格である。

■学生運動の最中、アルバイトをしながら法政大学へ

父・和三郎には商才があったようだ。稲作農業だけでは生活が豊かにならないと、改良を重ねて「ニューワサ」というブランドいちごづくりを始めたという。

他の地域でも同じようにいちごを作り出すと、流通量の少ない時期を狙って出荷して、値段を確保したそうだ。その後、和三郎は、町会議員にもなっている。

菅は長男だが、農業を継ぐことは嫌だったようだ。父親への反発もあったという。菅は松田に「鉛色の空に覆われた村が嫌だった」と語っている。高校を出て夜行列車で東京へ行き、就職したのである。

東京・板橋の町工場で働くが、つらかったのだろう、そこを辞めてアルバイトをする傍ら、大学受験の勉強を始めた。彼が入学した1969年当時、法政大学は東大や早稲田と並んで、学生運動の拠点だった。

菅はそうした喧騒とは離れ、空手に打ち込んだそうだ。アルバイトで学費を稼ぎ、学生課に学費の安い夜間部への転部を申し出たこともあったという。このあたりから、集団就職、夜間大学というイメージが作られてきたようだ。

一方では、家からの仕送りで、金銭的には恵まれていたという説もあるようだが、真偽のほどはわからない。

2年後輩に、後に沖縄県知事になり、米軍基地の辺野古移設問題で対峙することになる、翁長雄志がいた。

■世間の声を把握するのは新聞の「くらし」欄

卒業して、企業に勤めた後、大学のOB会に政治家を紹介してくれと頼みに行ったそうだ。

最初は、法政OBで衆院議長などを歴任した中村梅吉の秘書になるが、中村が政界を引退したため、神奈川県横浜市出身の小此木彦三郎衆院議員のところへ行く。

以来11年間秘書を務めた後、38歳で横浜の市会議員になり、市議を二期やって、「影の市長」とまでいわれるようになる。

47歳で今度は衆院選に出馬して当選する。二世でもなく、地盤も看板も鞄(カバン=カネ)もない男としては、異例の出世であろう。

よく、「男の顔は履歴書」といわれる。衆議院議員になった頃は、身体全体がふっくらとして、雰囲気も明るいのに、永田町の泥水を飲み、今のようなとっつきにくい酷薄な容貌に変わってきたのは、よほどの苦労があったのではないかと想像させる。

菅には面白い世論吸収法があるそうだ。彼は昔から、読売新聞の「くらし・家庭」欄にある「人生案内」を毎日読んでいるという。

そこで、庶民にはどういう悩みがあり、それに対して識者がどう答えているかを“勉強”していたというのである。

街に出て、庶民と対話しようなどという発想は、この男にはないようだ。選挙応援や会見では仕方なくしゃべるが、基本的にひきこもり的な性格なのであろうが、それを周囲の者や記者たちは「強面」と誤解しているのではないか。

■師匠・梶山静六は「憲法改正」反対だったが…

国会議員になってからは、竹下(登)派の七奉行の一人で“武闘派”といわれた梶山静六を師と仰ぐ。

梶山も茨城県の農家の出身である。県会議長の時、田中角栄から国政への出馬を要請された。情に厚く、角栄がロッキード事件で逮捕され、保釈されたときは、「やくざだって親分が出所するときは迎えに行く」と、真っ先に出迎えに行っている。

梶山は、橋本龍太郎内閣で官房長官に就くが、1998年7月、参院選の敗北の責任をとり橋本が退陣を表明すると、総裁選に名乗りを上げた小渕恵三と対抗して、無派閥で出馬を表明した。

菅と佐藤信二が派閥を離脱して、梶山を応援するが、わずかな差で敗れてしまう。

梶山は見かけとは違って、「再び戦争を繰り返してはいけない」と平和主義を信念としていた。戦争中に長兄を亡くしている梶山の体験から生まれたものだった。

だが、菅は松田に、「梶山さんと俺のちがいはひとつあった。梶山さんは平和主義で『憲法改正』に反対だった。そこが、俺とちがう」といったそうだ。

■両親は戦争の被害者であるのに、なぜ?

野中広務という政治家がいた。小沢一郎と死闘を繰り返した自民党の大物であった。

野中は若い頃の菅に目をつけていた。松田によれば、菅はかつて新聞記者に、「第二の野中広務さんのような政治家になりたい」と語っていたという。

野中も筋金入りの反戦・平和主義者であり、梶山と同じように、沖縄のことを真剣に考えた政治家だった。

「九七年には、沖縄米軍の基地用地使用を継続するための駐留軍用地特別措置法(特措法)改正案を可決する際、衆院本会議で声を震わせた。
『この法律が軍靴で沖縄を踏みにじる結果にならないように、私たち古い苦しい時代を生きてきた人間は、国会の審議が再び大政翼賛会にならないように、若い皆さんにお願いしたい』議場は騒然となる」(『影の権力者』)

田中角栄は常々、「あの戦争を知っている人間たちが政治家である限り、日本は戦争をしない」といっていた。

だが菅という男、恩師の梶山や野中の反戦・平和主義から学んでいないのはどうしてなのだろう。

たしかに、梶山も野中も軍隊経験をしている。菅とは20年以上の歳の差がある。だが、両親は満蒙開拓団の一員として辛酸をなめた、戦争の被害者である。菅はもうすぐ72歳になる。

後期高齢者間近い政治家が、わずか75年前の誤った戦争を二度と起こさない、仁王立ちしても止めてみせるという覚悟がなくて、何のために総理になるのか。

■「菅のいない菅政権」は成り立つのか

総裁選に出馬して以来、自分の言葉を持たない、独自の政策がないと批判されている。

「安倍政治をそのまま受け継ぐ」というだけではまずいと思ったのだろう、自分のブログに「『自助・共助・公助』で信頼される国づくり」という公約らしきものを掲げた。まるで、高校の社会科に出て来るお決まりの表現のようである。長年政治家をやってきた人間とは思えない幼さだ。

外交に未経験なことを問われ、安倍とトランプとの電話会談にはすべて同席していると答えた。オブザーバーでは、外交を実体験したことにはならないことを、菅は分からないらしい。

冒頭で触れたように、菅のいない菅政権は、羅針盤のない船で荒海に出ていくようなものである。安倍よりさらに軽い神輿になりそうな菅は、派閥のいいなりになるのではないか。

ここでは詳しく書かないが、安倍はそれを意図して、突然、辞任したのではないかと思っている。裏で菅を操り、任期明けの来年9月には「安倍再登板」の声が高まり、3度目の政権復帰を目論んでいる。これが私だけの悪夢であればいいのだが。

■菅氏が力を入れる「NHKの国有化」

菅政権の最大の不安は、言論表現の自由が安倍時代よりもさらに狭まると危惧されることである。

安倍政権時代を通じて、日本の報道の自由度は実に22位から66位にまで下がり続けた。その下落に大いに貢献したのが安倍と菅だが、菅の役割のほうが大きかったと思う。官房長官会見で、東京新聞の望月衣塑子記者への質問妨害、NHK「クローズアップ現代」のキャスターだった国谷裕子への嫌がらせで、降板に追い込んだことなど枚挙に暇がない。

第二次安倍政権から取り組んできたのがNHK問題である。

『総理の影』で森は、「菅の悲願は、受信料の義務化を通じた事実上の国営放送化である」と指摘している。

第一次安倍政権時代、菅は、受信料を2割下げろ、できなければ受信料を義務化する、国営放送にするとNHKに迫ったそうだ。

森によると、経営委員会というのは12人の委員で構成され、NHK会長を人選して任命し、理事の人事にも拒否権を持つ、大きな権限を持ったもので、その経営委員を任命するのが総理大臣だそうだ。

この時は安倍の辞任で果たせなかったが、第二次安倍政権で、菅は再び、NHK支配を強引に実行していく。

第二次政権がスタートして、経営委員に政権寄りの人間を多数押し込み、会長に抜擢されたのが三井物産出身の籾井勝人であった。

「軽量級のトップの後ろでNHKを動かそうとしてきたのが、官邸の菅や財界応援団たちである」(『総理の影』)

■担ぐのがうまい人間が頂点に立つとどうなるか

コロナ報道を持ち出すまでもなく、NHKの国営化はほとんど出来上がったと思っている。だが、菅のメディアコントロールは、それだけではないと森はいう。

「新聞やテレビの政治記者はもとより、週刊誌や月刊誌の幹部やフリージャーナリストにいたるまで、菅の信奉者は少なくない」(同)という。

極秘情報というアメをしゃぶらせて、批判させず子飼いにしてしまうのだ。自分たちが菅の掌で踊らされていると気づく者もいないのが、メディアの置かれた深刻さを表している。

NHKを支配し、メディアを黙らせ、派閥の上に乗っていれば安泰かといえば、そうではない。安倍以上に問答無用、説明責任を果たさない政権が長続きするはずはない。

それに、ここまでのし上がって来るには、どれほどの「無理」を重ねてきたのだろうと考えると、就任早々、醜聞が噴き出す可能性は大だと思っている。

「第二次安倍政権をつくったのは俺だ」。菅の口癖だそうだ。菅という男、駕籠を担ぐのはうまいかもしれないが、駕籠に乗って様になるかは疑問である。

菅の恩師、梶山は総裁選に出た時、勝てないと思う3つの理由を、秘書にいったと松田が書いている。

1つは小泉純一郎が出馬して票が割れるというものだが、後の2つは、「総理総裁をめざして政治家をやってきたわけではないので敵が多い。梶山静六に梶山静六はいない」。菅にも同じことがいえるはずである。

最後に角栄の大好きだった母親が、息子に向けた言葉を菅に贈ろう。

「総理大臣がなんぼ偉かろうが、あれは出かせぎでござんしてね」

(文中敬称略)

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198630283/presidentjp-22" target="_blank">編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、近著に『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦)

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