「国費投入でマスク配布」100年前の日本政府も同じことをしていた
プレジデントオンライン / 2020年9月24日 9時15分
※本稿は、山岡淳一郎『ドキュメント 感染症利権』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
■大衆の誕生と「スペイン風邪」の襲来
1918(大正7)年、日本の人口は5600万人をこえ、労働者や農民、商人をひとくくりにした「大衆」が社会の中心にせり上がった。「米騒動」が大衆の時代の到来を告げる号砲だった。7月、米価の高騰に苦しむ富山の女性荷役(陸仲仕)が米の積み出し停止を求めたのを発端に、騒動は北陸から3府1道32県に広がる。商社や米問屋の打ちこわし、炭鉱の暴動へとエスカレートし、軍隊の出動が70カ所に及んだ。
指導層にとって、拳を振り上げ「人間らしく生きたい」と叫ぶ大衆は「火」のような存在であった。その熱量を上手く使えば権力を握れるが、使い方を間違えれば破滅に追い込まれる。従順な衣を脱ぎ捨てた大衆は時勢を動かした。もともと英語の「マス」を表す日本語はなかったのだが、仏教で多数の僧侶や宗徒をさす「大衆」があてられると、新語はモードとなる。大衆酒場に大衆運動、大衆文芸……そんな時代の移り目に史上最悪のインフルエンザ、「スペイン風邪」が襲いかかったのである。
■まるで新型コロナウイルスの「予告編」だ
感染症とのたたかいは、政府が大衆に提供する情報で左右される新たな段階に入った。感染の制御が「情報戦」の色を濃くする。鍵を握るのは、政府に検閲されるメディア、新聞だった。結果的に第一次世界大戦下のスペイン風邪のパンデミックは、参戦国が情報統制したうえに治療法もなく、膨大な死者を出し、多くの教訓を残した。
日本の新聞を見ると、まるで21世紀の新型コロナウイルス感染の「予告編」みたいな記事が並んでいる。まず、1918年4月、台湾巡業中の大相撲力士3人がスペイン風邪で亡くなり、休場力士が続出した。10月ごろに毒性の強い欧州型ウイルスが入り、感染は急拡大。11月には、演劇の大衆化を導いた劇作家の島村抱月が発症し、48年の生涯を閉じる。パートナーで女優の松井須磨子は、支えを失い、2カ月後に自ら命を絶った。ファンは須磨子の「カチューシャの唄」のレコードを蓄音機にかけて追慕する。
■国際航路の客船内で「感染爆発」が起きた
スペイン風邪は第一撃だけでは終わらず、第二、第三の波が押し寄せ、国際航路の客船でも感染爆発が起きた。
「わが労働代表を乗せたサイベリア丸にも周知のごとく多数の患者を出し、いたましい悲劇が演ぜられている。またこれが出迎えをなさんとする家族の人びとにも多数の患者あり。鎌田(永吉)代表一家のごときは枕を並べて病室に呻吟している」(東京日日新聞1920年2月13日付)。前年10月、ワシントンで開催されたILO(国際労働機関)の第一回国際労働会議に出席した日本代表が、サンフランシスコで東洋汽船のサイベリア丸に乗船し、ホノルル経由で横浜に帰航する途中、船内で感染が広がったのだ。
三等乗客700人中80名が発病し、8人が亡くなったと報じている。なかでもカリフォルニアに出稼ぎ中の家族の話が涙を誘う。過酷な労働で夫は肺結核にかかり、ひと足早く帰国した。病は癒えず、危篤の電報が妻に届く。妻は臨月の身重で三歳の長子の手を引いて船に乗り、夫の訃報が届く前に産気づき、船内で男児を産んだ。しかしインフルエンザにかかって、産褥に苦しみながら黄泉へ旅立つ。あとには二人の子どもだけが残された。
■国費投入でマスク配布、装着を強制
政府は、市民に自衛を求め、ポスターで「うがい、マスク、人混みを避けよ」と促す。「警視庁ではいまや不眠不休の姿でこれが撲滅に腐心し、昨日は午後三時より内務省に会合して善後策を協議した。……印刷物その他の宣伝により極力市民の自衛を喚起し、なお最後の手段として国費をもって全市民にマスクを配布し、強制的にこれを実行せしむることに内定した」(出典前同。傍点筆者)。最後の手段が国費投入によるマスク配布と強制的な装着である。その傍ら「命のとりで」の大病院は「感冒患者を忌避」した。門前払いされた患者が行き倒れた話がつづられている。
「帝国大学附属医院をはじめ赤十字病院、泉橋病院(三井記念病院の前身)のごとき設備整える一流の病院は、こぞって『流感患者入るべからず』の掲壁を設け、入院はもとより外来患者に至るまでこれが診療を喜ばざる風がある。その口実は『流行性感冒は猛烈な伝染性を有しているので他の患者が迷惑する……』。昨日の正午、死に迫った一人の貧者が泉橋病院に担ぎ込まれたが彼はこの冷たき運命に慟哭しつつ門前で絶息した」(出典前同)
■三度の流行で、38万人以上が死亡した
客船内の感染爆発に、政府のマスク配布、大病院の診療拒否による患者の死亡、と100年後の新型コロナ禍でも同じことが反復される。社会は進歩しているのだろうか。
被害が甚大なのは、当時の医学ではインフルエンザの病原体、ウイルスの存在が解明されておらず、ワクチンも治療薬もなく、患者の隔離も不徹底だったからだ。ウイルスの発見は1931年の電子顕微鏡の発明後まで待たなくてはならなかった。
もっとも、患者の鼻腔粘液や喀痰からは何種類もの細菌が分離されており、そのうちのどれかがインフルエンザ菌だと医学者は考えた。新設の北里研究所は、分離される割合の高かったパイフェル氏菌を病原体と断定し、その菌でワクチンをつくる。対抗する東京帝大伝染病研究所は、病原体を確定しないまま「予防液」としてパイフェル氏菌と肺炎双球菌の混合ワクチンをこしらえ、発売にこぎつけた。互いにわがワクチンこそ効力が高いと論争をくり広げる。当時からワクチンは研究所の利権だった。
どちらのワクチンもウイルスとは無関係だから、虚しいバトルではある。しかしながらワクチンは約20万人に投与され、発病は阻止できなかったけれど死亡率を下げる効果はあったともいわれる。重症化による細菌の二次感染を防いだのだろうか。内務省衛生局が編集した『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』は、1918年8月から21年7月までの三度の流行で日本では38万8727人が亡くなったと記す。人口学者の速水融は死亡者数を約45万人と推定している。
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ノンフィクション作家
1959年愛媛県生まれ。時事番組の司会、コメンテーターも務める。一般社団法人デモクラシータイムス同人。東京富士大学客員教授。
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(ノンフィクション作家 山岡 淳一郎)
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