「排泄を必死にこらえて帰宅」17歳の少女はなぜ学校のトイレが使えなくなったのか
プレジデントオンライン / 2020年9月17日 11時15分
※本稿は、遠山高史『シン・サラリーマンの心療内科 心が折れた人はどう立ち直るか「コロナうつ」と闘う精神科医の現場報告』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■確認作業に明け暮れ、手洗いを執拗に繰り返す
新型コロナのおかげで休みになっていた学校が、この7月あたりからようやく始まった。しかし、17歳の娘は、学校のトイレを使えなかった。
便座にちょっとでも体の一部が触れただけで、身に着けているすべてが汚れたと思え、排泄を必死でこらえて帰宅する。玄関の取っ手をティッシュで覆いひねる。中に入ると、衣服を素早く脱ぎ捨てて、トイレに入り、風呂場に駆け込む。新しい下着を母親に持ってこさせる。
そのあと学校に着ていった制服をほかに触れないように部屋の隅に下げ、カバンの中の携帯や教材を、アルコールで消毒する。寝る時も学校に着ていった制服にほかの物が触れないように気遣いながらベッドに入るが、気づかず触れたのではないかとの思いが頭を巡り寝付かれない。知らずに悪しきものに触れたのではと、確認作業の挙げ句に手洗いを繰り返す。宿題をやる余裕はない。睡眠不足で朝起きられない。遅刻する。
彼女は少し神経質と思わせる娘であったが、これまではかなり成績が良かった。しかし、ここにきて格段に成績が低下しだしたのを教師はいぶかった。
こういった些細な接触(実際に触れたかどうかわからずとも)にも過剰な不安を抱き、確認と洗浄作業をし、接触を極力避けるような行動をとる病態は強迫性障害の患者に多く認められる。
コロナの蔓延以来、この傾向の人々は増大している様子である。触れずに生活を成り立たせるためには、非常に無駄でまわりくどい作業を要し、生活のほとんどはそれに支配され、他の生活内容は極端に貧しくなる。この病の治療は容易ではない。
■細部にこだわる“強迫社会”に浸食される日常
学校のトイレの便座にコロナウイルスが付いている可能性は確かにゼロではない。百に一つ、千に一つ、いや万に一つでも、いかにまれな確率でも、そのまれな一つに掛けて、どれほどエネルギー、時間を費やそうと、回避のための行動方針を立てる。この考えが、それ自体間違っているとはいえない。
ただ、その行動の実効性が定かであろうとなかろうと一つ一つの細かい確認と回避作業を繰り返すよう駆り立てられる。
しかし、この細部へのこだわりは、今日的社会ではむしろ推奨されている。複雑高度な機械は一つ間違えれば大事故になるから、徹底的に細かいビス一つについても確認が必要である。薬の効能書きにはおびただしい注意が並べられ、めったにない副作用も書かれている。そのまれな副作用の記載があるために、かなりの効果が期待できる薬の採用も控えざるを得ないことが少なくない。
最近の契約書の内容もほとんど形式的でしかないことも言及され、それに従った無駄とも思われる対応を求められる。細部へのこだわりは社会全体を覆っているのである。
だからこの娘にこだわりすぎだなどという説得は通用しない。彼女はすでに細部に拘泥する強迫社会に侵食されているのである。これからも、強迫性障害の治療はかなり困難であることがおわかりいただけると思われる。実際、治療は完治を目指さず、現実との妥協点を探すように軽減を目指す。
■近代は「部分から全体を把握しようとする手法」で成り立っている
この治療方針は、ロックダウン下で、経済の疲弊をできるだけ少なくするために人の触れ合いをどこまで認めるか、の妥協点の模索とどこか重なってくる。
近代的社会は強迫的確認社会と思われる。先ごろますますその傾向が増している。
なぜなら、近代を支えているサイエンスそのものが、さまざまな現象を細かく部分に分け、それぞれを分析して、部分から全体を把握しようとする手法(要素還元主義)をとっているからである。
これは、当面の成果を得るにはよいが、長い視野からは全く違う結果を引き出す危険がある。
■自然とのかかわり方を再考する契機
例えば、近代医学の画期的成果の一つであるペニシリンの発見は、当初目覚ましい成果を上げたが、ほどなくして耐性菌が発生し、その後次々と出現した耐性菌は抗生物質全体の使用を著しく複雑化させている。
部分的な知識で自然を把握しようとすると、より多くの手間とエネルギーを必要とする結果を招きかねない。そこで、要素還元主義ではこういった欠点を避けるために、さらに、細かい事実を寄せ集め確かめるという方法をとっている。
ただ、それは、いたずらに細部の厳密さを求める強迫性障害の心性とあまり変わらない。結局、不必要な情報の増大を招きその削除に多大のエネルギーを必要とさせている。しかも、新型コロナウイルスはそういったことをいくら積み重ねても防げず、その隙間を縫って侵入してきた。そして、人と人との分断を図ることで、さらなる弊害を発生させようとしている。
例えば、アフリカでは、ロックダウンがマラリアへの対応を阻害し、他の疫病への対策を遅らせ、事態をより複雑深刻化させている。
もはや新型コロナの制圧は難しく、戦うのではなく、自然のなせる業として、共存を図るべきだという識者は少なくない。それは、自然との妥協点を探してゆくということだろう。当面はそれしかないかもしれないが、そもそも、人類は自然との付き合い方を誤ってきたといえまいか。ITを含め科学的手法で人類の繁栄は保ちうると勝手に思い込んでいたのではあるまいか。
コロナ後に必要なことは、これまでとは異なる自然とのかかわり方ではなかろうか。それには新しい哲学が必要であるかもしれない。私はその糸口が古き東洋の知恵の中に見出せると愚考している。
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精神科医
1946年、新潟県上越市生まれ。すぐに東京に移り、そこで成育する。千葉大学医学部在学中に、第12回千葉文学賞受賞。大学卒業後は精神病院勤務を続け、1985年より精神科救急医療の仕組みづくりに参加。自治体病院に勤務し、2005年より同病院の管理者となる。2012年、医療功労賞受賞。2017年、瑞宝小綬章受章。自治体病院退職後、2014年に桜並木心療医院を開設。現在も診療を続けている。46年以上にわたり臨床現場に携わった経験を生かし、雑誌『FACTA』(ファクタ出版)にエッセイを連載中。著書に『微かなる響きを聞く者たち』(宝島社)、『ビジネスマンの精神病棟』(JICC出版局。のち、ちくま文庫)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)など多数。千葉県市原市で農場を営み、時々油絵も描いている。
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(精神科医 遠山 高史)
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