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大分県の離島に「住みよい北朝鮮」を築き上げた村長親子の末路

プレジデントオンライン / 2020年10月9日 15時15分

姫島村の風景。藤本昭夫村長の前任で父でもある熊雄氏の銅像が立つ - 写真=筆者撮影

全国には、何十年も選挙が行われていない町や村がある。そのうちの一つだった大分県の姫島村では2016年、61年ぶりの村長選が行われた。親子2代にわたり島を統治してきた「王朝」に、ノンフィクションライターの常井健一氏が迫った――。

※本稿は、常井健一『地方選 無風王国の「変人」を追う』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■32年もの間、村長の椅子に鎮座してきた

大分県東国東(ひがしくにさき)郡姫島(ひめしま)村(人口1930人、2017年3月1日時点)は、瀬戸内海にぽっかりと浮かぶ日本有数の「一島一村」の自治体である。

2016年秋、そんな島で、歴史的な事件が突然起きた。

〈61年ぶり村長選へ、来月の姫島村長選〉

同年10月18日、大分合同新聞がこんな見出しで大きく報じるなり、島には続々と報道陣が上陸してきた。8軒しかない旅館や民宿は季節外れの繁忙期に突入した。小さな村の騒ぎは大手紙の全国版でも報じられ、その名が知られることとなったのである。

姫島の村長選は1955年にあった一騎打ちを最後に、16回も無投票が続いた。その間、現職の藤本昭夫(取材当時73)は初当選時からじつに8度も不戦勝。つまり、32年も投票用紙に自分の名前が書かれたことが1度もないまま、島の主の如く村長の椅子に鎮座してきたというわけだ。

姫島村の藤本昭夫村長。任期32年は、現職としては全国最多となる
写真=筆者撮影
姫島村の藤本昭夫村長。任期32年は、現職村長としては全国最多となる - 写真=筆者撮影

1943年に満州(中国東北地方)で生まれた昭夫は3歳の時に父の故郷である姫島に移住し、対岸の町にある県立国東高校、東京の慶應義塾大学経済学部で学んだ。卒業後の68年、日本住宅公団に入職し、主に経理畑を歩んだ。そして、80年に帰島。84年から村長の職にある。

■親子56年間の「王朝」に吹いたつむじ風

「8選」は現職の村長として全国最多。全市町村の中でも堂々の第2位だ(取材当時)。

さらに、驚愕の事実がある。

藤本の前任者は、父の熊雄(くまお)だった。満州帰りの父も1960年の初当選時から無風続きで7期24年もの長い間、姫島村長を勤め上げ、現職の立場のままで名誉の死を遂げたのである。

熊雄から昭夫へ。親子で56年──。

当然、村役場の現役職員は「藤本村長」しか知らない。80代以下の島民は、村長選びに参加した経験すらない。2000人の誰もが自分の目が黒いうちには村長選というものは行われないと信じ込んでいた。

ところが、神代の小島につむじ風が吹いた。

無敵の「フジモト王朝」が自動的に延長されようとした2週間前、「9選阻止」を訴える挑戦者がひょっこりと現れたのだ。

対抗馬の藤本敏和(としかず)(同67)は、島生まれ、島育ちのUターン組である。

県庁所在地の大分市にある名門・大分上野丘(うえのがおか)高校から東京外国語大学中国語学科に進み、1972年にNHK入局。下関支局でアナウンサーとして活躍した後、韓国の延世(ヨンセ)大学に留学した。東京に戻ると国際放送の番組制作を手掛け、チーフプロデューサーに。一時は和光大学でも教鞭を執った。定年後は、2014年に島出身の妻とともに里帰りした。

本稿の主人公2人はどちらも「フジモト」なので、それぞれ「昭夫」、「敏和」と呼ぶことにしたい。

■雇用形態を増やし、7人に1人が役場勤めに

私が取材した2017年末時点、村役場の正規職員は130人ほどだった。それに加え、ほぼ同数の臨時職員が働いていた。つまり村民の7人に1人、大家族の中に1人は役場勤めがいるという計算になる。その大半は診療所とフェリー乗り場で働いている。

給与水準は、月額平均約25万円。これは財政再建中の北海道夕張市や人口最小の東京都青ヶ島(あおがしま)村よりも安く、全国の自治体の中でワースト3に入る。だが、時短勤務や嘱託など柔軟な雇用形態も増やしながら、ボーナスは正職員と同基準で出している。その上、「出戻り」のシングルマザーも積極雇用するなど、困難を抱える家庭にも手を差し伸べてきた。

そのため、村では官民の所得格差も少ない。ある種の平等主義を徹底したことで、過去の村長選で失いかけた地域社会の調和はすっかり蘇った。

「こうした村主導の取り組みが、(全国屈指の組織力を誇る大分の)自治労さえ島に入れない防波堤にもなった」

そう誇らしげに説く島民にも出会った。

■ここはなぜ「住みよい北朝鮮」なのか

「住みよい北朝鮮」

ある村議は、島をそんな一言で表現する。

なぜ「北朝鮮」か。島の民は健康で文化的な最低限度の生活を営むために、選挙による民主主義よりも選挙を行わない寡頭支配を選んだ。無投票による「独裁」、つまり藤本親子による世襲体制を抱きしめたのだ。

ある村議は嘆息する。

「お年寄りは祭りを通して昔を思い出して、『熊雄さんにお世話になったから息子の昭夫さんも支えなくては』という気持ちになる。お弁当を楽しみにしていて、それをタダでもらうだけでありがたいと思ってしまうんだ。祭りの原資は自分で納めた税金なのに、ね」

お弁当をもらって、「村長に世話になった」と錯覚する。地区の行事に補助金が出ても、「世話になった」。村のグラウンドを借りても、「世話になった」。診療所を利用しても、フェリーに乗っても、「村長に世話になった」……。

感謝の気持ちは、往々にして負い目に反転する。村民の「心」を支配する。つまり、村長としての活動は事実上の選挙運動になってきた。

「自分の家族が就職でお世話になって役場に勤めているから、誰もが村長には逆らえないと思ってしまう」

史上初めての対抗馬となった藤本敏和は、誰も口にすることはできない村の実情をこう明かす。

昭夫は助役や副村長を置かず、村長1人で全権を掌握するワンマン行政を理想としてきた。ナンバー2を作らない。後継者を育てようともしない。すなわち、ライバルは生まれず、寝首をかかれる恐れもない。これも古今東西の為政者が心がけてきた権力維持の定石だ。

■「議場」とは名ばかりの会議室

だが、光が多いところには影もある。

姫島の観光誘致策には、大きなイベントが多い。例えば、夏になると子どもたちがキツネのお面をつけて踊る盆踊りが開かれる。国の無形民俗文化財にも指定されている伝統行事だが、その裏では開催が近づくと残業を強いられる職員たちの苦労がある。それなのに、箸の上げ下ろしまで厳しく指導する昭夫のやり方に耐え切れず、役場から逃げ出す者は少なくない。

また、絶対的な権力は絶対に腐敗する。

私は昭夫に役場の中を一通り案内された。

2階にある村長室の近くに「議場」と表札のかかった一室があった。

扉を開けると、がらんどうだった。部屋の中央には安っぽい長机をつなぎ合わせ、「ロ」の字にされていたが、これでは議場というよりも会議室だ。私がこれまで訪ねた町や村で見てきた、「自治の殿堂」たる議会の重々しい雰囲気とは大きく異なった。

昭夫にとって村長就任後から18年がたったそのころから現在に至るまで、議会なんてあってないようなもので、数ある会議のうちの一つに過ぎないのだと私は悟った。

■迂回融資疑惑、そして最大のナゾは

村議の1人によると、議会では質疑も一般質問もなく、執行部提案が原案通り可決されて1日で閉会するという。32年間で質問に立った議員はのべ7人しかいない。

2012年、村が漁協の関連団体に貸し付けた3500万円が、村長の実弟が経営する水産仲卸会社に迂回融資されたという疑惑が浮上した。村、つまり昭夫はその監査請求を棄却した。すると、島民たちは一斉に口を噤(つぐ)んだ。むろん、村議たちも沈黙を守った。

そして、最大のナゾとされているのが子どもたちの存在だ。

昭夫には70年代生まれの息子も娘もいたはずだが、20年ほど前に島を出てから姿をくらましたままなのだ。「県道船」と呼ばれる村営フェリーに乗らなければ、島に帰ることはできないので、帰省すれば間違いなく島民に目撃される。だが、長い間、なんの音沙汰もないという。

そもそも昭夫は私生活を人前で語ろうとしないし、村民が尋ねることも禁じ手とされている。

私は村長室で行ったインタビュー中、「3代目」に引き継がれる可能性を思い切って問うた。

すると、昭夫は「ない」と短く答えた。

■「とっさんの話を聞いて一目惚れした」

近い将来、「フジモト王朝」は途絶える──。

島の民がそう薄々と意識するようになったころ、NHKで働いていた敏和が東京からやってきて、村で講演することがあった。島でプロパンガス販売店を営む、村議の小野仁(ひとし)(取材当時55)は一目見てピンときたという。

「私はいずれ村長を替えたいと思って村会議員になったんですよ。島出身の人間の中から村長候補をずっと探していた時期もあったけど、しばらくの間は周囲に流されていた。だけど、とっさんの話を聞いて一目惚れした。目が覚めたんだよ」

敏和がUターンすると、小野は同じ集落に住んでいる関係で頻繁に顔を合わせるようになった。かつて小野の父は6期も村議を務め、収入役だった敏和の父とも親しかった。

小野は事あるたびに敏和に「村長選に出ろ」と決起を迫るようになった。

■派手な不意打ちを食らわせたが…

一方、敏和は教育委員になると小野だけでなく、役場の内部からも村長に対する不満をこっそり聞かされるようになった。だが、そんな動きをしていることが村長の耳に入れば潰される。これまでも村長に歯向かい、島から出て行った者は少なくない。敏和は小野の自宅を訪ね、「密室」で酒を酌み交わすことが増えた。

61年ぶりの村長選の約1カ月前、年に1度の村民体育大会が行われた。そこで、敏和と小野が住む集落では、昔使われていた景気づけの応援歌を復活させた。当日、2人は大喝采を浴び、高揚感に酔いしれた。

「その後、打ち上げで飲んでいるうちに、出馬の話が決まりました」(敏和)

口達者な小野は、報道機関出身の敏和よりもメディア対応に長(た)けていた。私の取材にも立て板に水で受け答えする。彼はその能力を活かして、敏和の一大決意を地元紙にリークした。

果たして、冒頭で紹介した大分合同新聞のスクープは生まれ、村長に不意打ちを食らわせた。だが、そのやり口は有力者の不興を買った。

■新人が戦うにはあまりに不利だった

61年ぶりの戦いが始まる告示日、フェリー乗り場のそばにある大きな広場には400人を超える村人が集まった。この島の歴史において、「キツネ踊り」で有名な盆踊りの時期でもない限り、村民の2割が一堂に会することなんてありえない。役場で仕事をしている200人の村民は参加していないにもかかわらず、だ。

姫島村行きのフェリー乗り場
写真=筆者撮影
姫島村行きのフェリー乗り場 - 写真=筆者撮影

副知事、県議、県内大手の建設会社の幹部、漁協、農協、村内全6地区の区長、高額納税者のIT起業家、そして村議8人のうち7人が駆けつけた。昭夫はここぞとばかりに「力」を見せつけた。

一方、そこから500メートルのところにある敏和の自宅前には10人ほどしか集まっていなかった。村議は小野のみ。あとは親類縁者だった。一時は熱心に「応援するよ」と言ってくれた人たちは見事に切り崩され、静かに身を引いていった。

姫島の選挙には新人に不利な条件が整っていた。

まず、村には「ポスター掲示場設置条例」がない。そのため、村長選が行われても島に選挙ポスターが貼られたことは1度もない。姫島と同じように設置条例を設けていない町村は、全国に24しかない(2017年12月31日時点)。極めて少数派だ。

さらに、同様の理由で選挙公報も討論会もない。

つまり、敏和のような新人が突然現れた場合、政策の中身はともかく、顔を知らせる手立てさえゼロに近いのだ。

■村長派が仕込んだ“罠”

実際、Uターンから2年たったとはいえ、半世紀近くも島を離れていた敏和を覚えている者は少なかった。島では「元NHK」という肩書きなんて、なんの役にも立たない。むしろ、「可根古(日本料理店)の長男」、「収入役だった藤本秋太郎の長男」と強調したほうが、どこの誰なのかを思い出してくれる。

選挙戦中、両陣営は「村民生活への影響に配慮する」という申し合わせを行った。そういった自主規制は新人の敏和にとって選挙運動の足かせとなった。

その一例がある。

選挙戦の中日は、文化の日だった。役場周辺では村の文化祭が行われ、島じゅうの人たちでごった返した。すでに期日前投票は始まっていたので、お年寄りの多くは役場に寄るついでに投票を済ませた。

チャレンジャーの敏和にとって、これほど有権者に対して1度に「顔」を売れるチャンスはなかった。だが、時すでに遅し。両陣営で「活動自粛」の合意をしてしまった後だった。それが村長派が仕込んだ“罠”だと気づいた敏和陣営は地団太を踏んだ。

一方、イベントの主催者である村長は大手を振って文化祭の会場を練り歩き、誰にも邪魔されずに多くの村民たちとふれあった。

■圧勝も村長派の表情は硬かった

投開票は島に一つしかない小学校の体育館で行われた。投票率は88.13%。97.81%だった61年前の“前回”を大きく下回った。結果は、村長が1199票、敏和は512票。ダブルスコアだった。

完敗したはずの敏和は泰然としていた。たった2週間の運動で、キャリア32年の「王」を相手にしながら島の3割近い支持を得たからだ。「敏和は取れても200票」という村長らの見立ても覆した。

新人側の立会人として開票作業を見守っていた村議の小野は、まるで勝ち戦の思い出を語るような満面の笑みで開票中の様子を回想した。

「村長の票が次々と積まれていくのに、向こうの立会人の表情が硬いんだ。とっさんの票が予想よりも多いから、あっちの連中は頭を抱えていたよ」

想定外の批判票を集めた敏和自身は「役場職員の大半は入れてくれた」と分析している。

「だけど、やっぱりお年寄りの票が取れなかった」

島民たちが食わず嫌いで畏(おそ)れ続けていた村長選は、いざやってみたら村の改革に一役買った──。

私は結論として、そう感じた。

■王座を降りた村長は暮らしていけるのか

敗北から数カ月後、敏和は得意の語学力を活かし、島で週1回の韓国語講座を始めた。新聞の折り込みチラシで呼びかけると13人の応募があった。

常井健一『地方選 無風王国の「変人」を追う』(KADOKAWA)
常井健一『地方選 無風王国の「変人」を追う』(KADOKAWA)

「人口2000人の村で13人も集まるということは、2万人の町なら130人──と同じことでしょう。これはすごいことです」

一方、島の人たちは喜寿を間近に控えた村長の「老後」を心配している。昭夫は30代で東京からUターンして以来、「普通の人」として暮らした経験がないからだ。

島を出る時はフェリーの特別室に1人で座り、対岸に置かれている運転手付きの公用車で行動してきた。四半世紀以上、フェリーの切符を買ったことも、一般席に座ったこともない。

「村長を辞めて、役場の職員を召し使いのように使えなくなったら、暮らしていけないんじゃないか」

そんな声もある。

仮に次の選挙で敗れても、適任者を見つけて禅譲しても、積年の埃《ほこり》は出てくるだろう。私が島に滞在した4日間に聞いた証言を総合すると、昭夫の政治は情実にとらわれ、公私混同甚だしいという評価だ。これ以上、晩節を汚さないためには、早いうちに先代のような「殉職」を遂げるしか道はない──。

そんな縁起でもない陰口も叩かれているが、昭夫は強気だった。

「次も誰が出ようと、ボクが出れば同じこと」

昭夫の村長任期は2020年11月25日に満了する。瀬戸内海に浮かぶ「最後の王朝」は、その日まで続くことは確約されている。

だが、その先の確かなことは、島の誰にもわからない。

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常井 健一(とこい・けんいち)
ノンフィクションライター
週刊誌記者として政治や働き方に関する特集記事を手掛け、独立。進次郎氏の演説や講演の取材は300回近くに及ぶ。著書に『小泉進次郎闘う言葉』『 保守の肖像』などがある。

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(ノンフィクションライター 常井 健一)

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