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なぜ理系出身の財務官僚は、最強官庁財務省を辞めたのか

プレジデントオンライン / 2020年11月24日 9時15分

法政大学経済学部教授 小黒一正氏

気鋭の経済学者として注目を集めている小黒一正教授。財政再建を重視する元財務官僚らしく、マクロ経済のみでなく、財政赤字が恒常化するなか、日本財政の先行きにも危機感を募らせている。コロナ対策についても、償還の議論とセットになっていない国債発行に警鐘を鳴らす。もともとは理系の学者志望がなぜ経済の道へ、そして官の世界からなぜ研究者に転身したか。背景を聞いた。

■根っからの理系学生が経済に関心を持った

石川県の山代温泉にホテル百万石という旅館があります。昭和天皇も宿泊されたその老舗旅館が私の祖父の生家です。兄弟姉妹は13人と多く、このうち祖父は双子なのですが、当時はその片方を養子に出す慣習があり、祖父は、硬質陶器などの経営をしていた小黒安雄氏(石川県出身)の養子になりました。このため、私も小黒姓です。祖父の双子の兄は戦後に「回転式黒板」「ホワイトボード」「電子黒板」を発明した日学の創業者で、吉田富雄という人物です。

祖父は戦前、陸軍士官学校を経て軍人になり、生家が資産家の祖母と結婚しましたが、太平洋戦争に突入して敗戦。戦後、俳優の上原謙氏がオーナーだった映画館の経営を依頼されたり、国際観光ホテルの取締役を務めながら帝国ホテル内にギャラリーを設立したと聞いています。その後、画廊は東京駅付近に移転しましたが、その傍ら瀬島龍三氏らが設立した同台経済懇話会の幹事もしていたそうです。なお、私の父は鹿島建設を経て祖父の画廊を継ぎました。

私自身は東京都国立市で育ちました。高校は自宅から自転車で10分の所にある都立国立高校でした。その頃から将来の進路として学者の世界を候補の1つにしていました。家系がビジネス系なので、なんとなく反骨心を抱いていたのかもしれません。

当時、興味を持っていたのが物理学と数学です。高校生のとき、数学界のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を獲った広中平祐先生が創始した「数理の翼」に応募して合格し、夏季セミナーに参加しました。参加者には数学オリンピックでメダルを獲った学生や、博士課程に進学中の10代のイギリス人女性もいて、私にはとてもいい刺激になりました。

広中先生が京大理学部の出身ということもあり、大学は京大に進学しました。現在も同様ですが、京大と東大に広中先生のサロンがあり、学生たちが自由に出入りできる交流の場になっていました。さまざまな分野の先生や先輩から最先端の話を聞けたことは、現在でもいい財産です。

専攻は物理でしたが、2回生までに卒業に必要な単位は9割ほど取得して学生生活の後半は余裕があったので、経済や法律・哲学などの勉強をしていました。特に経済学には興味をひかれました。経済にもメカニズムがあって理論や分析ツールで現実の社会を動かせることがわかって、これはおもしろいなと思ったのです。

そのタイミングで友人に大蔵省(現財務省)の説明会に誘われて参加しました。説明に来ていたのは田中一穂氏(後の財務省事務次官)で、氏の勧めもあり、大蔵省を受けたところ、入省が決まりました。研究者を志していたのですが、一方で現実の世界は生々しくて、理論どおりにいかないことがあるはず。それを1度自分の目で見たかったのです。また、過去には大蔵省から研究者に転身した方も多かった。そのことにも背中を押されて、97年に入省しました。

■いま日本に必要なのは実体経済を強くすること

まず証券局に配属されたその年に山一証券、三洋証券が破綻しました。大臣官房の文書課に異動になった翌年には、大蔵省の接待汚職事件で省内は大騒ぎ。「地検がきたぞ」と誰かが叫んで、火事でもないのに4階の防火シャッターが閉められたことを覚えています。後にも先にも、大蔵省の防火シャッターが閉まったのはあのときだけではないでしょうか。

その後は理財局や関税局などにも配属されました。その頃の関税局は9.11後のテロ対策も落ち着いて大きな政治課題もなく、時間に余裕がありました。そこで個人的に関心があった財政や社会保障についてペーパーを書き、官房に送ったところ「財務総合政策研究所に行ってみないか」と打診を受けて、財務省の中で研究の道を歩むことになりました。

■研究者として生きていこうと決心

研究にフルに時間を充てるようになると、実務をやっているときには見えなかった課題がよりクリアに見えてきました。さらに研究を続けるため、中曽根康弘さんのシンクタンクである世界平和研究所を経て、一橋大学経済研究所の准教授になりました。そして、いよいよ研究者として生きていこうと決心し、2013年、39歳で法政大学に移り、現在は経済学部で教授を務めています。

(左)中曽根康弘氏のシンクタンク・世界平和研究所に勤務。本格的に研究者への道に進むようになった。(右)大蔵省入省に際して広中平祐博士より届いた激励の書簡は、いまも書斎の本棚に飾っている。
(左)中曽根康弘氏のシンクタンク・世界平和研究所に勤務。本格的に研究者への道に進むようになった。(右)大蔵省入省に際して広中平祐博士より届いた激励の書簡は、いまも書斎の本棚に飾っている。

私の研究テーマは財政と社会保障ですが、対象領域は広がり、最近は実体経済に関心を持っています。日本の経済が盤石だったころは、アセットサイド(バランスシートの左側)を気にせず、財政のデットサイド(財政のバランスシートの右側)を正しくコーディネートしていれば、投資の収益が上がるという認識でした。しかし、いまのように実体経済が弱いと、財政政策でいくら経済をブーストさせようとしても限界がある。日本には実体経済の足腰を強くするソリューションが必要で、それを分析して提言していくことが、研究者としての現在のチャレンジです。

それと別に、政治家や官庁、日銀の幹部を務めた方などを対象に、財政のオーラルヒストリーを記録する仕事に取り組んでいます。30年間、外に出さないという約束があり、世に出るのはずっと先です。しかし、現下の日本財政や経済は本当に厳しい状況で、その舵取りに関わった方々の証言は歴史的価値が高いはずです。後世に託す貴重な資料を残すため、ライフワークとして、しっかり取り組んでいきたいですね。

▼浜ちゃん総研所長の目

現実の世界は、物理の法則どおりに動いている。もともと理系少年だった小黒さんがそのことを知って物理にのめり込んだのは、高校生の頃だった。しかし、知的な関心は物理にとどまらなかった。京大に進学して卒業に必要な単位を2年目でほぼ取り終え、片手間に他分野を学び始めたところ、経済の世界にも社会をマネジメントする理論があることを知り、おもしろさに目覚めた。そこから本格的に勉強を始めて大蔵省に入省。後にノーベル賞に繋がる素粒子を研究するゼミの教授に報告すると、「なぜ、そっちにいくのか」と惜しまれたという。分野を問わずに活躍できるスーパーマンだ。

経済評論家 浜田敏彰氏
経済評論家 浜田敏彰氏

官僚になったのは、旅館やギャラリー、硬質陶器の経営者が並ぶファミリーの影響があったようだ。小黒さんは「ビジネスで儲けるのはいいのですが、個別最適にしかならない。社会全体の最適化を手がけたかった」と明かしてくれた。大蔵省に入省後は、導かれるようにして研究者への道が拓けていく。退官して大学に籍を置くのも、理論派の小黒さんらしい。「趣味は?」と問うと、「分析ですかね」。本人の生真面目さがにじみ出る答えだ。損得を超えたところで公のために研究に打ち込む人がいるのは、とても心強いことである。

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小黒 一正 法政大学経済学部教授
1974年、東京都生まれ。97年京都大学理学部物理学科卒業。同年、大蔵省入省、2005年財務省財務総合政策研究所主任研究官、08年世界平和研究所研究員、10年一橋大学経済研究所准教授を経て、15年4月より現職。著書に『日本経済の再構築』『薬価の経済学』『財政学15講』など。

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浜田 敏彰(はまだ・としあき)
経済評論家
1955年生まれ。79年東京大学法学部卒業後、大蔵省(現財務省)入省。大阪税関長、消防庁審議官、財務省大臣官房政策評価審議官、税務大学校長などを歴任。現在、関西大学客員教授。

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(法政大学経済学部教授 小黒 一正、経済評論家 浜田 敏彰 構成=村上 敬 撮影=鈴木啓介)

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