薬師丸ひろ子の「3分間独唱」が朝ドラの歴史を塗り替えてしまった理由
プレジデントオンライン / 2020年10月21日 11時15分
■薬師丸さんの提案で台本が変わった
2020年10月16日に放映された、NHKの連続テレビ小説『エール』で、薬師丸ひろ子さんが絶唱された賛美歌「うるわしの白百合」は、心が震えるくらいに素晴らしかった。視聴されたみなさんも、感動されたのではないだろうか。私もキリスト教考証者として関わることができたことを、本当に幸いであったと思う。
すでに各種メディアで、脚本も執筆したチーフ演出の吉田照幸監督が語られているように、当初の台本では、薬師丸ひろ子さん演じる光子が、「戦争の、こんちくしょう! こんちくしょう!」と唸りながら地面を叩くシーンであったが、薬師丸さんからは、ここは地面を叩くのではなく、賛美歌の「うるわしの白百合」がその場面に適当ではないかという提案があり、キリスト教考証として私が検証することになった。
■「光子」の教派の聖歌集にはなかったが……
私からの応答は以下の通りである。
「関内家は聖公会という設定だが、「うるわしの白百合」は聖公会の『聖歌集』にはなく、日本基督教団の『讃美歌』に収録されたものである。しかしながら、ミッションスクールをはじめ、広くキリスト教関係者の間で親しまれた歌なので、光子が愛唱していたとしても不思議ではない。「うるわしの白百合」は現在の『讃美歌』496番(1954年発行)で、その譜の下にある〔509〕という記載は、1931年(昭和6年)版『讃美歌』の「該当讃美歌番号」である」
■日本だけに生き残った「幻の賛美歌」
その後、さらに調べた上で、以下の補足を送った。
「しかし、19世紀にアメリカで創られたこの曲は、宗教的内容が乏しい、音楽的にも価値が高くないとの評価で、早くからアメリカの歌集からは姿を消してしまった。多く愛唱されているという理由などで、日本だけに生き残ったもので、1954年版『讃美歌』でも「雑」という項目に分類されていた。1997年に『讃美歌21』が発行された時に、そのような理由から残念ながら消えてしまった賛美歌のひとつである。おそらく高齢の方々には懐かしく思われる方も多いと思われる」
■歴史的事実と矛盾のない「設定」を提案
このような経緯で、急遽、この場面は、台本通りではなく、薬師丸ひろ子さんが「うるわしの白百合」を歌われることとなった。ここで私が悩んだのは、先述した通り、関内家は聖公会という設定であり、歴史的には、「うるわしの白百合」は聖公会の『聖歌集』にはなかった、という点である。
そこで、私は、以下のような設定を提案した。<光子は、名古屋にある1889年創立の金城女学校の卒業であり、学校で良く「うるわしの白百合」を歌い、親しんでいた。光子が焼け跡で拾い上げたのは、日本聖公会『古今聖歌集』ではなく、金城女学校時代に彼女が大切にしていた『讃美歌』だった>。
ある日本聖公会中部教区司祭の、聖公会信徒の祖母は、金城女学校卒であり、「うるわしの白百合」は実質的に「第2校歌」として愛唱していたという。また、日本聖公会の信徒の中にも、「うるわしの白百合」を故人愛唱聖歌と指定される方は少なくない。したがって、光子が、「うるわしの白百合」に親しんでいたことは、何の不思議もない。
■アップでは映らなくとも緻密に作り込んだ歌集『讃美歌』
ただ、光子が生徒であった時代に用いられていたと思われる『讃美歌』を再現することは種々の理由から困難であったため、当時、実際に使用されていた、「日本日曜學校協會」編纂の『日曜學校 讃美歌』を参照して、私が、現在、理事長を担っている、日本のすべてのプロテスタント系ミッションスクールが加盟している「キリスト教学校教育同盟」の前身である、「基督教教育同盟會」が編纂した『基督教學校 讃美歌』が存在したこととした。
薬師丸ひろ子さんが、歌いながら手にされているのが、この『基督教學校 讃美歌』である。実際の放映では、この歌集のクローズアップ映像は使用されなかったが、テレビ画面に映り込まないアイテムであっても、これほどの細かな設定と準備がなされていることを、理解していただけるとありがたい。
■歌詞もメロディも最初から完璧だった薬師丸さん
さて、薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」の収録当日、私は、キリスト教考証とキリスト教関係の所作指導のため収録に立ち会った。事前に、私は、「うるわしの白百合」の2節部分のみを歌われることを提案していた。15分という放映時間の中で、常識的に考えても、薬師丸さんの歌唱部分の尺は相当短いはずだと認識していたからである。
もし一部(一節)ということであれば、台本のイメージを踏まえても、2節がふさわしいと考えた。「かぎりなき/いのちに/さきいずる/すがたよ」という詩は、前日までに繰り広げられるインパール作戦、豊橋空襲という「絶望的な死」を悲しみながら、しかし、未来への限りない「いのち」を願うという意味でも、感動的ではないかということ、また、これは私のある意味、偏見でもあったのだが、1節の「イエスきみの/はかより/いでましし/むかしを」という、ダイレクトにキリスト教の中心的教理を表現する詩を、公共放送としてのNHKが放映するのには躊躇(ちゅうちょ)があるのではとも想定したからである。
ところが、薬師丸ひろ子さんは、1節と2節すべてを完璧に暗唱されて来られた。また、この「うるわしの白百合」という賛美歌は、アカペラで歌うのはかなり難しい曲である。しかし、薬師丸さんは、放映の通り、見事に歌いきられた。プロフェッショナルとは、こういうことかと感嘆した。
■そして生まれた「歴史的名場面」
いよいよ薬師丸ひろ子さんの撮影が始まり、薬師丸さんは、最初は静かに「うるわしの」と歌い出され、そして2節に入ると、歌は高揚し、最後はまさしく「絶唱」であった。監督の「カット」がかかっても、広いスタジオは深い沈黙に包まれたままであった。私の隣でモニターを見つめていた、若いスタッフたちが、目を真っ赤にしながら泣いていた。私も、胸が締めつけられながら、涙が溢れて止まらなかった。
吉田監督が、「薬師丸さんが体現する悲しみと、そこから立ち向かわなくてはいけないという力強さを歌から感じたので、もうドラマじゃなくなっているなって思いました。みんなそれぞれが何かを感じ振り返る時間になっていて、それを(朝ドラの尺の)15分の中でやることに勇気と迷いはありましたけど、さすが薬師丸さんだなって」と証言されている通り、その現場は、もはやドラマではなかった。
新型コロナウイルス感染症蔓延と、それに伴う収録中止、放映中止、10話分カットという、『エール』収録開始時には想定もしていない異常事態に直面し、収録再開後も、極限の感染対策で神経をすり減らす中で、それでも、良質のドラマを創り上げたいという、『エール』制作陣、一人ひとりの中に、薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」の歌は、深い深いところで響いたのだろうと思う。私は、収録直後、この場面は間違いなくNHK朝ドラ史上の名場面になるのではないかと確信したが、今回の放映で、ただの1秒もカットされることなく、1節、2節、すべてが歌われた薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」は、確かに、歴史的な「名場面」となった。
■「死」から「復活」へという神学的メッセージ
薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」が持つ意味は、観た者それぞれにとって違うだろう。そもそも、「うるわしの白百合」という賛美歌は、イースター、復活を謳う歌である。戦争・死・暴力という「死」と「絶望」。それを悲しみながら、しかし、ただそこにとどまるのではなく、未来の平和・生・人間の尊厳という「いのち」と「希望」を願い、告げることの大切さ。そこには「死」から「復活」へという、神学的なメッセージが通奏低音のように流れている。
自分が作曲した歌に鼓舞され、予科練兵として戦地に赴き戦死した弘哉君の壊れたハーモニカを前にして、「音楽で人を戦争に駆り立てることが、ぼくの役目なのか」「若い人の命を奪うことが、ぼくの役目なのか」と自問しつつ、ついには「ぼくは、音楽が憎い」と呟く古山裕一。その絶望的な呟きに対する、見事な応答こそが、光子の「うるわしの白百合」なのではないか。本当の『エール』とは何かを、音楽の本当の力を、光子は、裕一や音、そして華、残された、これからの世代の未来を想って歌ったのではないか。否、「祈った」のではないだろうか。
■世を去った人の魂と、今を生きる<いのち>を包む祈り
また、光子はキリスト者として、戦中、特高からも監視される中、礼拝をすることも、地下のような場で、ひっそりとせざるを得なかった。戦争が終わり、今、光子はようやく、声高らかに、自分の大好きな愛する聖歌を歌うことができる。また、十字架も堂々と、身につけることができる。そのことの喜びは間違いなく大きなものであった。
しかし、豊橋空襲で、愛した教会もまた焼け落ちたに違いない。事実、日本聖公会中部教区「豊橋昇天教会」は、関内家が焼失した同じ日の、1945年6月19日の空襲で全焼した。現在の「豊橋昇天教会」は、1949年11月3日に再建されたものである。
「うるわしの白百合」を歌い終わった薬師丸ひろ子さんが、ゆっくりと、しかし、優しく十字架をその手に包む美しい場面があったが、事前に、私と薬師丸さんとで相談させていただいた姿である。それは、世を去ったすべての人の魂と、いま生きるすべての<いのち>を優しく包む「祈り」に他ならない。このような「祈り」を見事に表現された薬師丸ひろ子さんと、また、制限のある中にあって、その「祈り」を静かに、そのままに届けてくださった『エール』の制作陣のお一人ひとりに、あらためて、心からの感謝を伝えたい。
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立教大学文学部教授・文学部長、立教学院副院長
1962年京都市生まれ。京都大学工学部卒、立教大学大学院文学研究科修了。博士(神学)。キリスト教学校教育同盟理事長。NHKの連続テレビ小説『エール』キリスト教考証担当。著書に『聖公会が大切にしてきたもの』(教文館)、『聖公会の職制論 エキュメニカル対話の視点から』(聖公会出版)、『神学とキリスト教学 その今日的な可能性を問う』(共著、キリスト新聞社)など多数。
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(立教大学文学部教授・文学部長、立教学院副院長 西原 廉太)
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