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50年虐待を続けた毒母が認知症に…独身息子がワンオペ介護で湧きあがる衝動

プレジデントオンライン / 2020年10月25日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/CHUYN

3歳から両親に虐待を受けていた58歳の独身男性。大卒後に就職して一人暮らしを始めたが、父親が2010年に亡くなると、母親の認知症が急速に進み、男性は介護を余儀なくされる。「毒母の介護をすることは、自らのトラウマと戦うこと」という壮絶な半生の教訓とは——。

この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、未婚者や、配偶者と離婚や死別した人、また兄弟姉妹がいても介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■毒親の「機能不全家庭」に生まれた58歳独身男性の壮絶な半生

現在、東京都杉並区在住の高橋琢郎さん(仮名、58歳独身)は、神奈川県横浜市出身。父親(10年前に81歳で他界)は会社員、母親(現在86歳)は専業主婦のごく一般的な家庭で生まれ育ったが、高橋さんが3~4歳の頃にはすでに両親から虐待を受けていた。

父親は短気で気性が荒く、幼い高橋さんに対し、「お前を見てるとイライラするんだ!」と特に理由もなく罵倒、恫喝、物を投げつける。母親も、結婚当初から父親による暴力や暴言を受けていたため、ストレスや不満がたまると、その矛先は息子である高橋さんに向かう。他の子と比較して高橋さんの自尊心をそぐような暴言や、父親に対する不満や愚痴を長時間浴びせ続けた。

「母は常に『金がない金がない』と言っていました。父に怒られるのが怖くて、お金を自由に使えなかったようです。私が小学校へ入学したとき、図工で使うため、色鉛筆を買うように学校から言われましたが、母は買ってくれず、代わりに自分が裁縫で使っていた、青色の反対側が赤色になっているチャコペンを1本持たせたのです。担任の先生が連絡帳に、『色鉛筆を買ってあげてください』と書いてくれて、嫌々ながらもようやく買ってもらえました」

父親は「もったいない」と言って、家族で旅行や外食をしたがらない。両親とも子どもにお金を使うことを渋り、高橋さんが熱を出して「薬を買ってきてほしい」と頼んでも、「安売りしてなかったから買えなかった」と平然と言われた。

その一方で、同級生の親に「ウチの子はこんなに頑張ってるのよ」という“わが子自慢”をされると、両親は我慢ならない。「○○くんは風呂に教科書を持って入ってるんですって!」「○○くんは頑張ってるのにお前はダメなやつだ!」と競争心をむき出しにして勉強を強要。母親は大量に問題集を買ってきては、高橋さんに無理やりやらせた。

「母が買ってくる問題集は極端に簡単すぎたり難しすぎたりして、私に合っていないものばかり。それなのに文句を言ったりやらないでいたりすると怒り狂うので、母の問題集をやってから宿題や自分で買った問題集をやらなくてはならず、時間もお金も無駄。いつも怒りがこみ上げてくるのを我慢していました」

言い返したり反抗的な態度をとったりすると、「そんなに勉強がしたくないのか!」と激昂し、もっと酷く面倒なことになることがわかっているため、いつしか高橋さんは、内心ものすごく憤慨していても、表に出さないようにする癖がついていた。

■ステレオのコードで首を吊ろうとしたが、死ねなかった

中学に入学する頃、父親が家を建てた。父親は、ちょっとでも家を汚したり傷をつけたりするとすぐに怒鳴るため、ますます家庭内がピリつく。高橋さんはイライラや破壊衝動が抑えられなくなり、衝動的にステレオのコードで首を吊ろうとしたが、コードが伸びただけで死ねなかった。

高校受験では、学区内で偏差値が2番目に高い高校に合格したが、母親は1番でないことが気に入らず怒り心頭。高校入学前の春休みは、塾の春期講習に通わされたうえ、家では家庭教師をつけられ、遊びに行くこともテレビを見ることも禁じられてしまう。

毎日のように「落ちるところまで落ちたな!」と母親から罵倒され、愚痴や不満を繰り返し聞かされ続けた結果、食欲は落ち、食べてもすぐにお腹を下すようになる。高校入学時の高橋さんの身長は約170cm、体重は40kgしかなかった。

■暗黒の青春時代「寝るとバカになる」と十分な睡眠取らせず

高校入学後は、母親から「寝るとバカになる」と言われ、十分に睡眠を取らせてもらえず、集中力が減退。中学までは友だちに「ウチの親、おかしくてさ、テレビも見せてもらえないんだ」などと笑って話せたが、高校では親の話をするのが恥ずかしくなり、誰にも話せなくなる。「昨日のテレビ見た?」と話しかけられても、「見てない」としか言えず、「日曜日に遊びに行こう!」と誘われても、「具合が悪くて行けない」と断るしかなく、友人たちとはどんどん疎遠になった。

大学受験を迎える頃には慢性的な疲労やだるさ、動悸、不眠、下痢、微熱などの症状に悩まされ、第一志望は不合格。不本意ながら、滑り止めの大学に通うことになる。

高橋さん自身は文学を学びたかったが、両親に「文学関係の仕事になんて、お前が就けるわけがないだろう!」と言われ、経済学部に入学。すると今度は、「経済学部なんて何の取り柄もない奴が行くところだ!」とバカにされる。

ある夕飯時、食器がぶつかるささいな音にいらついた母親が、「わざと音を立てて私に嫌がらせをしているんでしょう」と言い出したため、高橋さんは「わざとじゃないよ。毎日毎日文句や不満ばかり言われてたら、頭がおかしくなるよ」と返すと、「だったら精神病院にでも行けば!」と激昂する始末だった。

身を守る
写真=iStock.com/Serghei Turcanu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Serghei Turcanu

■母親は10歳まで上海で裕福な暮らし、上流階級思考が抜けない

高橋さんが心療内科を受診したところ、うつ病と診断。医師に幼少の頃から両親に受けてきた虐待の数々を話すと、母親を連れて来るよう言われる。

後日、母親を伴って受診すると、医師は母親をたしなめた。母親は高橋さんに、「まさか自分の子どもに人格があるなんて知らんかったわ」と吐き捨てるように言った。

母方の祖父は、日本統治時代の上海警察勤務。母親は上海で生まれ、10歳まで上海で家政婦がいるような裕福な暮らしをしていたせいか、常識はずれなところがあった。

「上流階級思考の抜けない母は、自分の子どもも服やカバンやアクセサリーみたいな感覚だったのだと思います。だから私のせいで自分の品が落ちるのが許せなかったのでしょうね」

大学でできた友人に家庭のことを話すと、「子どもの頃はつらかったかもしれないけど、もういい加減そろそろ忘れなよ」と言われることが少なくなく、高橋さんは口をつぐんだ。

■飼っていた猫が死に、父親も死んだ

大学卒業後、編集プロダクションや小さな出版社を経て、団体職員として働き始めた高橋さんは、実家を出て都内で一人暮らしを開始。高橋さんがいなくなると父親の暴言や暴力は、母親に集中した。

しばらくして両親は、猫を飼い始める。

「私が5歳くらいの頃、やはり知人から父が猫をもらってきたことがありましたが、『家具に傷がつく!』と言って捨てました。でも、このときは、『子育てには失敗したけど、猫はちゃんと育てる』と言って、両親とも猫を溺愛。猫でかわいがり方を学んでから子どもを育ててほしかったと思いましたが、この頃がわが家の最も平穏なときだったように思います」

猫
写真=iStock.com/ramustagram
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ramustagram

猫が来てからは、父親が母親に暴言を吐いたり暴力をふるったりすることがなくなった。

父親は1989年に60歳の定年を迎え、再雇用になった後、1994年に完全定年。自宅にいる時間が増えたが、猫の存在のおかげで両親の関係が険悪化することはなかった。だが……。

2001年春、「胸が苦しい!」と父親が訴えたため、病院を受診したところ、狭心症と診断。手術を受け、詰まっていた血栓を取り除いた。

■母親の料理がしょっぱすぎたり、甘すぎたり……

やがてかわいがっていた猫は、2004年に死亡。これを機に、再び父親による母親への暴力や暴言が始まる。30代前半となった高橋さんは、当時、実家にはお盆と年末年始くらいは帰省していたが、2005年ごろ、母親の作る料理が、しょっぱすぎたり、甘すぎたりするだけでなく、言動がおかしいことに気づいた。

時々母親と会っていた母方のおばが、「もしかしたら認知症なのではないか?」と父親に話したが、「そんなわけないだろう、言っていいことと悪いことがある!」と激怒して聞く耳を持たなかった。

そして2010年。父親が自宅の布団の中で死亡しているのを母親が発見。救急車を呼んだため、警察に届けられた。

警察病院で調べたところ、死因は心不全。父親は亡くなってから丸1日経っており、冬場で暖房をつけていたため、すでに腐敗が始まっていた。81歳だった。

父親の葬儀後、母親は50万円ほどあった香典を銀行に預けに行って、どこかに置いてきてしまった。

「今思えば、母はとっくに認知症になっていたのだと思います。これから私が一人で介護しなければならないのかと思うと、絶望的な気持ちと孤独感に襲われ、途方に暮れました……」

■毒母は認知症となってからも介護に献身する息子を振り回し続けた

介護認定を受けると、母親は要介護1だった。医師やケアマネジャーからは同居するように言われたが、高橋さんは「気性の荒い母と同居すると、私のほうが先にまいってしまうと思うので、通い介護にしたい」と事情を話し、週に1度のペースで、片道2時間かけて実家へ通い、家事や母親の介助をした。

介護と同時に高橋さんは、父親の預金や証券口座などの名義変更手続きを開始。銀行で事情を話してしまったため、父親の預金や証券口座などがすべて凍結されてしまう。預金口座が凍結されたことから、実家の電話も止められてしまい、平日は仕事の合間に凍結解除手続きに奔走せざるを得なかった。

通帳
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

「当時母は、家に介護認定の調査員さんやケアマネさんが来ると、『わが家を乗っ取りに来た!』と言って大騒ぎしました。被害妄想がひどく、夜中に電話をかけてくることも頻繁。自分が認知症だと思っていないため、わかったつもりで勝手に書類を書いたりサインをしたりして、提出してしまうこともしばしば。要るものと要らないものの区別がつかなくなっており、必要なものを捨ててしまい、捨てたことさえ忘れることも多く、凍結解除のために私が仕事の合間に集めた資料や書類も、私がいない間に捨てられていました。私がどこへやったか聞くと、『凍結解除にいつまでかかってるんだ!』と激怒。また1から資料や書類を集めなければならないと思うと、ものすごい脱力感に襲われました」

■自分の預金を切り崩し母親に生活費として渡すも、30秒後には失くす

高橋さんは、母親の介護が始まってからうつ病が再発。心療内科への通院を再開し、2013年、51歳の時に仕事を辞めて、母親の介護に専念し始めた。

父親の預金は凍結されて引き出せないため、自分の預金を切り崩して母親に生活費として渡す。すると30秒後にはどこかへ失くしてしまい、「もらってない!」と激怒する。

実家の中はゴミ屋敷のように雑然としており、リビングには母親が昔から読んでいた婦人雑誌が積み上げられている。母親からは明らかに異臭がしていたが、「風呂に入っているか?」と訊ねると、「昨日も入った」と言い張る。しかし自宅の浴室に入った形跡は見られなかった。

「母は、ケアマネさんに『息子から暴力を受けている』とか、『隣の人からうちが汚いと悪口を言われる』などと、あることないこと言っているらしく、父が亡くなってから私が頻繁に来るようになると、『下宿ではいい加減な生活ができてるかもしれないけど、ここでは許さないからな!』と突然早朝に怒鳴ってきたりして、めちゃくちゃです。私がスーパーで弁当や総菜を買ってきても、目を離したスキにどこへしまったかわからない。数日後に冷凍庫で見つかればいいほうで、見つからないとどこかで腐らせてしまうんです」

母親の認知症は進行し、2014年には要介護3に。高橋さんは大半を実家で過ごすようになった。そして2015年7月、自宅で転倒し、大腿骨を骨折。急性期病院で手術をしてひと月ほど過ごし、転院したリハビリ病院の医師から、「同居して24時間母親を見守ることが可能なら、在宅に戻る方向で治療を続ける」と告げられる。

「つまり、『現実的には施設に入れるしかない』ということです。ショックでした。自分が子どもの頃には親からお金をかけてもらえなかったのに、なぜ自分がこれ以上母親にお金を使わなければならないんだろうと落ち込みました」

それでも母親は気が強く、ささいなことで激昂する。高橋さんは、母親に手を上げたことはないが、口論は日常茶飯事になっていた。

「老人ホームに入れられるくらいなら、死んだほうがマシ! もう殺せ!」と絶叫する母親に対して、「殺さねーよ! バカヤロー! 一人で自殺しろ!」と声を荒らげた。

「私が幼少の頃からしつこく言われ続けてきたことに比べたら、この程度の言い方はかわいいものだと思います。私は中学1年の頃から、親を殺したいと思うよりも、『自分が死んでしまいたい』『消えたい』『楽になりたい』と常に思っていましたから……」

■父親の遺産相続完了、母親は脳梗塞で憎まれ口も減ったが……

父親の預金や証券などの凍結解除や名義変更手続きは、行政書士の助けもあり、2019年にようやくすべて完了。

母親は、介護老人保健施設で3年過ごし、今年の4月末に有料老人ホームに入所。コロナの影響でしばらく面会できなかったが、9月に脳梗塞を起こしたため、10月には会うことができた。

「久しぶりに会った母は弱々しく、口数が減り、憎らしい口もきかなくなっていて、正直ほっとしました」

父親がある程度遺産を遺していたことが分かり、金銭的にも多少の余裕ができた。

「まともな親の介護だったら、やりがいや喜びもあったかもしれません。しかし自分の両親は毒親だったので、全くありませんでした。有料老人施設に入れてからだいぶマシになりましたが、それまでは毎日不愉快で、自分の心身を悪くする一方でした。今でも『なんで私が介護をしなければならないんだ?』と思うことはしょっちゅうです。でも無責任にはできません。もっと無責任に生きてもいいのかなって思うこともあるんですが……」

■うつ病の治療を続けるなか「来週は水族館でデートなんですよ」

現在も高橋さんは、大きな不安感や希死念慮、服薬の副作用による倦怠感や眠気、フラッシュバックなどに頻繁に襲われ、うつ病の治療を続けている。

「今後、私のようなシングル介護は、介護者の心身の疲労、社会的孤立、貧困、将来への不安感などにより、共倒れや心中、逃避する家族が増加し、ますます深刻化してしまうかもしれません……。介護の話は介護をしていない人にはしづらいので、介護者は孤独感や不安感に苛まれがちです。私は、働いている頃は時間的に参加が難しかったのですが、退職後は介護者の集まりに顔を出し、情報交換に努めました。また、片道2時間の通い介護は大変でしたが、母と離れることで、自分の時間が持てたのは良かったと思います」

若い頃に楽器をやっていた高橋さんは、休息時は静かな音楽を聞いて過ごした。

「母を有料老人施設に入れてから、心に余裕ができたのか、ようやく抗うつ薬の効果を感じられるようになりました。また、価値観の近い異性と何人か知り合い、一緒に食事をするようになりました。この年齢で恥ずかしいですが、束縛しない関係のパートナーができたらと夢見ています。来週は水族館でデートなんですよ」

ジンベエザメ
写真=iStock.com/Aonip
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Aonip

そう言って高橋さんは笑った。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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