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「僕にはメロディーがない」ピアノ好きだった50代の牧師は認知症になった

プレジデントオンライン / 2020年11月3日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Orthosie

自身が認知症になった専門医の長谷川和夫さんには、今も忘れられない患者がいる。長谷川さんは「当時は認知症に関する薬がなく、専門医に紹介状を書くことしかできなかった。その時感じた無力さが、認知症と向き合い続けるきっかけになった」という——。

※本稿は、長谷川和夫・猪熊律子『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■認知症になって感じた不便さ

認知症になって、もの忘れが甚だしいし、自分がやったことの確かさがはっきりしなくて、とても不便になりました。

ただ、それでも、とくに人さまの前の出るときには大丈夫なように装って、大丈夫だぞ、と自分自身に言い聞かせ、少しうそをつくような感じでやっていたら、それなりに大丈夫だということがわかってきました。別に誰かを騙すわけでもないし、そうした努力をすることは、よいことではないかと思っています。

ただ一つ、社会に対して決してやってはいけないことがあります。それはクルマの運転です。これだけは絶対、やめたほうがよい。事故を起こして、人を傷つけたらたいへんです。

ボクは、じつは、クルマが大好きです。以前は自分でクルマを運転していました。若いとき、アメリカにいたころは運転するのが当たり前でしたし、日本に戻ってからも、大学病院などへの通勤はもっぱらクルマでした。最初に乗っていた車種はマークⅡ。次はベンツ。ぜいたくをしないボクが「これだけは」といったので、家内も買うことを認めてくれました。

でも、80歳のころ、車体をこするようなことがあり、これはいけない、危ないと思ってすぐにやめた。未練を残して、小さなクルマなら大丈夫じゃないかとあとで思ってしまうといけないと考え、思い切って運転免許証を返納しました。

運転免許証は身分証明書にもなるし、ちょっと先走ったかなと思ったときもありました。でも、そのまま持ち続けていたら、やはり運転したくなります。いまでは、歩けるところは歩くけれど、転ぶことも増えてきたので、ほとんどタクシーを使っています。

■身をもって感じる地域の人たちの支えとぬくもり

あるいは認知症と社会ということでいえば、地域ケアという言葉が盛んに聞かれるようになってきました。これはとても大切なことだと思います。子供の数が少なくなり、高齢者が増え、家族や地域の絆が薄れたといわれますが、地域ケアがあるかどうかで、安心感が大きく変わってきます。

老婦人が手押し車を使用し、介助されながら歩行
写真=iStock.com/Toa55
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Toa55

ボクも認知症になって、地域ケアの重要性をあらためて感じました。自宅近くにある幹線道を渡っているとき、真ん中あたりで転んで倒れてしまったことがあります。

そうしたら二人の男性が車をとめて、安全な場所まで運んでいってくれました。そのあと女性が来て、ボクのことを「見かけたことがあります。近所に住んでいますから」といって、家まで送ってくれたのです。

地面に顔を打ちつけてしまったから血だらけになっていて、自分ではあまり痛みは感じていませんでしたが、けっこうひどい状態だったようです。その女性は家までボクを送ってくれたあと、家内にも会って状況を説明してくれて、そこでボクはやっと落ち着くことができました。

これこそ地域ケアだと思います。地域全体で、きちんと見てくれる。必要なときには手を差し伸べてくれる。お互いを大切に思い、ぬくもりのある絆をつくって日々を暮らしていくことの大切さを、身をもって感じています。

■医療は認知症にどう向き合うべきか

認知症に社会が果たす役割は論を俟(ま)ちませんが、認知症に対して医療はどう向き合うべきでしょうか。

1973年にボクは聖マリアンナ医科大学の教授となり、その翌年、長谷川式スケールを公表しました。そのせいか大学の病院の外来には、認知症の患者さんが各地からたくさん訪れるようになりました。

付き添ってくるご家族の悩みは切実です。「家にいるのに『帰る』と言い張ります」「何度も同じことをいうので疲れます。どうしたらよいですか」……。こうした悩みに外来診療でじっくり答えるのは難しい。そこで外来の延長として、独自にデイケアを始めることを考えました。

治療法がないという状況にあっては、認知症の患者さんとご家族にとって、医師や医療はほとんど役に立ちません。無力です。でも、医者として何とかしたい。そういう思いが常にありました。診断し、病名を告げてそれで終わりというのではなく、そこからできることを医療者としてもやっていきたいと思っていました。

■手探りで始まった独自のデイケア

デイケアを外来の延長として始めてはどうかという構想を看護師たちに相談すると、すぐさま、「先生、やりましょう」といってくれました。1983年からスタートすることにしましたが、参考にすべきものは何もなく、まさに手探りでした。

毎週水曜日の日中に、ご本人7~8人とご家族の方が見え、数カ月たったら次の方たちと交代します。曜日にちなみ、「水曜会」と名づけられました。

目的の一つは、ご本人の心の働きを活発にすることです。時間や場所がわからなくなっても感情は残りますから、いろいろな刺激を受けることが大切です。

もう一つは、ご家族への支援です。介護はやはりたいへんですから、職員が相談に乗って少しでも安心していただくと同時に、症状についての医学的な説明やケアの助言なども行ないました。

血圧と体調をチェックして、昼食を挟んで歌や体操、ボウリングなどをします。ボウリングはルールが簡単で結果もわかりやすいので、好評でした。

最近の出来事を忘れても昔のことは覚えている方が多いため、昔の写真やお手玉などを用意し、みんなで「思い出語り」もしました。いわゆる回想法です。一日の終わりには、反省会を行ないます。ほとんどの人が朝から何をしたか忘れてしまいますが、覚えていたときは笑顔になります。

■「治らない病気」と向き合うための覚悟

水曜会の部屋に、こちらからあちら側は見えるけれど、あちら側からは鏡になって見えないマジックミラーがありました。最初、認知症の方とそのご家族が固まってしまい、離れなかったため、ご家族にマジックミラーの向こう側に行ってもらいました。

そこから様子を見ていたご家族が、「お宅のお年寄り、お元気ですね」「あれ、あんなに笑っている」などと互いに話しはじめたのです。

それまでは、自分のおじいちゃん、おばあちゃんしか見ていなかったのが、ほかの高齢者と比べることで客観的な視点をもつことができ、ゆとりが生まれました。そこでさまざまな発見があったのは、マジックミラーの思わぬ効果でした。

試行錯誤から始まったデイケアは、13年ほどで幕を閉じることになりました。行政の取り組みも進んできて、一定の役割を終えたと考えられたからです。

ボク自身、悪戦苦闘しながらもデイケアを始め、認知症のご本人とご家族の悩みや苦しみ、悲しみ、そして希望を共有させていただくことができました。診察室のなかだけでは、なかなか、わからなかったことです。

■無力感に襲われた教会牧師との出会い

認知症における医療の無力さを痛感しつつ、何とかしたい、医者としてこの分野で尽力したいと思う過程で、忘れられない人がいます。外来患者として来ていたキリスト教の牧師さんで、綺麗な大きな目が印象的な方でした。

まだ50代前半で、若年性のアルツハイマー型認知症の疑いがあり、強い頭痛を訴えていました。奥さまによれば、礼拝時にオルガンやピアノの演奏をされたり、賛美歌の指導をされたりと、教会音楽にたいへん造詣が深かったそうです。

ところが、賛美歌を弾いているときにどこを弾いているかがわからなくなったり、クルマの運転もおぼつかなくなったりといったことが増えてきたというのです。

ボクは主治医としてかかわりましたが、当時は認知症に関する薬がありませんでした。診療をしていると、医者として忸怩たる思い、深い無力感に襲われました。

結局、その方は教会をやめて故郷に帰ることになり、そこでボクにできたことといえば、専門医への紹介状を書くことだけでした。

■五線譜に記された悲痛の叫び

それから20年くらいたったころ、奥さまとたまたまお会いする機会がありました。彼はすでに亡くなられていましたが、認知症がそうとう進み、ご家族はずいぶんご苦労されたとのことでした。

長谷川和夫・猪熊律子『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(KADOKAWA)

亡くなられたあと、書棚から、その方が五線譜に書かれたメモが見つかったとのことで、奥さまが見せてくださいました。

「僕にはメロディーがない 和音がない」
「あの美しい心の高鳴りは もう永遠に与へ(原文ママ)られないのだろうか」
「いろんなメロディーがごっちゃになって気が狂い相(原文ママ)だ」

悲痛な叫び、心のうめきが書かれていました。それを読んだとき、ボクは言葉を失いました。

認知症の人の思いを、自分はほんとうにわかっていたのだろうか、という思いにとらわれたからです。一方で、五線譜に書かれた文字を見ながら、認知症の研究や診療をボクは何が何でも続けていくぞという決意を、あらためて固めたのです。

■治らない、でも医者として逃げてはいけない

認知症は治りません。だからそれを医者として専門にすることは、かなり変わり者だと思われていました。医者は「治してなんぼ」の世界です。大方の医者は、老年医学や認知症の医療にはそっぽを向いていました。

でも、ボクは、認知症の人とかかわるようになって、悲しんだり苦しんだりしている人の力になりたいと思った。この牧師さんのような方たちの心の叫びから、絶対に逃げてはいけないと思ってやってきました。

五線譜のメモを見て、あらためて認知症の診療やケアに向き合っていく力を与えていただいたのです。

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長谷川 和夫(はせがわ・かずお)
認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医大名誉教授
1929年愛知県生まれ。53年、東京慈恵会医科大学卒業。74年、「長谷川式簡易知能評価スケール」を公表(改訂版は91年公表)。89年、日本で初の国際老年精神医学会を開催。2004年、「痴呆」から「認知症」に用語を変更した厚生労働省の検討会の委員。「パーソン・センタード・ケア」を普及し、ケアの第一人者としても知られる。現在、認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医大名誉教授。認知症を描いた絵本『だいじょうぶだよ――ぼくのおばあちゃん――』(ぱーそん書房)の作者でもある。

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(認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医大名誉教授 長谷川 和夫)

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