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ネットや本を調べてもピンと来ない時に試したい「究極の調べ方」

プレジデントオンライン / 2020年11月13日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/filadendron

ネットを検索すれば大概のことはわかる。しかし、「わかった!」と納得できる情報に行き着くことはまれだ。『実践 自分で調べる技術』を書いた宮内泰介氏と上田昌文氏は「世の中の情報の99.9%は、まだ書かれていない。だから知りたい情報を得るためには、現場に出かけ、見て、話を聞くという『フィールドワーク』が必要になる」という――。

※本稿は、宮内泰介、上田昌文『実践 自分で調べる技術』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

■「知りたい情報」はどこにあるのか

何かについて知りたいと思ったとき、まずは、誰かがそれについて調べていないだろうか、書いていないだろうか、と考えます。

それを調べるのが、前の章で解説した文献・資料調査です。記事・論文、本、新聞記事、そして統計と形こそ違え、いずれも誰かが大事だと思って調べ、根拠を示しながら書いているものですから、たいへん有益なものです。さらには、筋立てて書いてくれていますので、物事の因果関係もよくわかります。

しかし、言ってしまえば、文献や資料に載っていることは、この世の現実の一部にすぎません。誰かが調べてくれている、と言っても、それはあくまでその人の視点で調べたものです。書かれている因果関係は、その人の視点と方法による分析です。それが自分が調べたいことと、ずばり一致するということは、なかなかありません。

知りたい情報は、なかなか書かれていないのです。

私たちは、一人ひとりが無数の知られざる「情報」をもっています。私が朝何を食べたか、私はどういう友人関係をもっているか、私は今の政治についてどう考えているか、私は地域社会のなかでどんな役割を果たしているか、私の職場ではどんな隠れたルールがあるか。

どうでもよさそうな情報から大事な情報まで、私たち一人ひとりは、数え切れないほどの情報をもっています。

■情報の99.9%は書かれずに眠っている

しかし、そうした情報は、一部は自分しか知らないし、一部は身近な人しか知りません。それらの情報は、ほとんどどこにも「書いて」いませんし、誰かから調査を受けたこともありません。SNSに頻繁に文章を上げている人でさえ、実際に上げているのはもっている情報のごくごく一部でしょう。

調べる側からすれば、ある事象について調べたいと思った場合、それがすでにあらゆる角度からあらゆることについて書かれていることはまずありません。

世の中の情報の99.9%は、書かれないまま、眠っています。

と考えれば、私たちのもつ「常識」は案外狭い情報や知識によるもので、ある意味、ほとんどが思い込みだとさえ言えるかもしれません。

■気づかないうちに「常識」にとらわれている

私たち一人ひとりの認識、たとえば今の世の中はもっとこうあるべきだとか、最近の社会はこんな傾向があるとかいった認識が、いったい何をもとにできあがっているのか、もう一度考えてみてもよいかもしれません。

どの人の認識の形成プロセスも簡単ではないと思いますが、おそらく、家族、友人関係のなかでつちかわれた感覚、学校、メディア、その他からの情報、そういった案外限られたもののなかから形成されていると思ったほうがよいかもしれません。

自分の認識から外れるような情報に接したとき、私たちは「そんな話、聞いたことがない」と、無視したがる傾向にあります。しかし、それは、ただ「聞く」、「調べる」という作業をしていないために情報が入らなかっただけだと考えたほうがよいでしょう。

テレビのニュースを見て、ネットを眺めているだけでさまざまなことがわかるなどということは、まずありえません。

■現実は「二項対立」ではできていない

○○問題をめぐって住民どうしが対立している、という報道に接し、実際に行ってみて、いろいろな人に詳しく聞いてみると、じつは「対立」ではなく「意見の相違」くらいで、しかも意見は二つにわかれているのではなく、三つにも四つにもわかれている、ということがわかったりします。そもそも「○○問題」というフレーム(枠組み)すらあやしい、ということも見えてきます。

このように、現場に出かけ、見て、話を聞くことで実際の姿に迫ろうとすること、それがフィールドワークです。

フィールドワーク、と一言で言っても、いろいろなものがあります。山のなかに入ってどんな植物が生えているか調べるのもフィールドワークですし、大都市の駅前で人の流れを観察するのもフィールドワークでしょう。

一軒一軒訪ねて話を聞くというフィールドワークもありますし、企業や行政に対してインタビューを行うのもフィールドワークです。あるNPOの活動にしばらく参加させてもらって、なかから観察するのもフィールドワークですし、工場に入って一緒に働いてみるというのもフィールドワークです。

地図を持つ男女
写真=iStock.com/RoBeDeRo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RoBeDeRo

■「現場」は“モノの見方”を変えさせる

ところで、こうしたフィールドワークを経験した人の多くが実感することがあります。それは、フィールドワークをすることで、単に現場でデータを得るということ以上のものが得られる、という実感です。「現場がやはり大事だ」と経験者はよく言います。

単にデータを得るということ以上のものがある、とはどういうことでしょうか。

一つには、現場では、単にデータが得られるだけでなく、私たちがもっているフレーム(考え方の枠組み)そのものが壊れたり再構築されたりすることが多いということです。フレームは、おおまかな仮説と言ってもよいかもしれません。こういうことを知りたくて、現場に行く。こういうことを考えて、フィールドで調査する。

すると、その「こういうこと」の妥当性がそこで揺らぐのです。これは人がとってきたデータだけを見たり、遠隔で調べたりしているときには生じにくい現象です。

現場に身を置いて、現場の雑多な「ものごと」に注意深く耳を傾けることで、私たちのなかにあった仮説、調査の前提として考えていたフレームが壊れていきます。

■解釈のぶつかりあいが新しい情報を生む

現場は、でこぼこしています。あらかじめ読んでいた文献の知識をたずさえて現場に行ってみると、文献に書かれているような単純なことではないことがわかります。そのでこぼこさに身を置くことによって、あらかじめもっていたフレームが壊れ、また、修正を余儀なくされます。

あらかじめつくっていた調査事項を修正し、フレームを修正し、さらに調査が続きます。調査のプロセスでは、フレームは何度も何度も修正する必要が出てきます。それがフィールドワークのおもしろさです。

とくに人びとにかかわる調査、社会にかかわる調査では、私たちがどんなフレームをもっていようとも、調べる対象である人びとも彼ら自身のフレームをもっています。私たちが社会を解釈しようとする前に、人びとも、社会を解釈しているのです。

こちらの解釈と人びとの解釈がぶつかりあい、ひびきあうことで、新しい解釈が生まれます。このプロセスはとても大事で、フィールドワークなしの認識が信用できないのは、そうしたプロセスを経ていないからです。

握手する人
写真=iStock.com/BraunS
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BraunS

■フィールドワークで「学び」の姿勢が身につく

さらに、フィールドワークはそういう性質ゆえに、「学び」の場としての機能も強くもっています。

宮内泰介、上田昌文『実践 自分で調べる技術』(岩波新書)
宮内泰介、上田昌文『実践 自分で調べる技術』(岩波新書)

私たちは、知りたいことすべてについてフィールドワークをすることはできません。しかし、フィールドワークの経験によって、そうやって雑多な情報がうごめく現場の感覚、そこからフレームが壊れ再構築されていく感覚を身につけることができます。

論文や記事を読む際にも、メディアの情報に接する際にも、そうしたフィールドワーク感覚が、それらを批判的に読む素地、立体的に読む素地になります。フィールドワークには、認識を深化させる練習場としての機能があると言えるでしょう。

文献調査では「○○と△△が原因で××になった」と書いてあっても、実際に現場に行ってみると、もう少し複雑であることがわかります。○○と△△だけが原因とも言えなさそうですし、完全に「××になった」とも言いきれないことがあるようです。

しかし、そうしたことをいろいろ現場で調べ、考えて、分析してみると、結局のところは、つづめて言えば、「○○と△△が原因で××になった」という、文献の文言と同じ言い方にならざるをえないこともあります。

それでも、文献でそう書かれていたのをただ表面的になぞって理解するのと、実際に現場でいろいろ感じて、聞いて、調べて、深く「そうだ」と理解するのとでは雲泥の差があります。

文字面の向こうにあるもの、表面的な情報の向こうにあるものを想像できるような感覚を身につける。認識のプロセスこそが重要であるという感覚を身につける。フィールドワークは、単にデータを得るだけでなく、そうした「姿勢」を身につける学びの場でもあります。

■調べることは他人と接することである

何か知りたいことがあるとき、それが起きている現場、その当事者・関係者たちがいる現場を訪れ、そこで調べるいとなみ全体が、フィールドワークです。調べ方はいろいろでしょう。

一人ひとりに話を聞く、集まってもらって話を聞く、人びとを観察する、場所を観察する、そこに参加させてもらいながら観察する、そこにしかない資料を集める、そこでしかとれないデータをとる。これらは、互いに結びついています。

話を聞くなかで大事な資料のありかを教えてもらったり、察するなかで少しまとまって話を聞いたりします。このように、いろいろな要素が複合的に合わさったものが、フィールドワークです。

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宮内 泰介(みやうち・たいすけ)
北海道大学大学院 文学研究科教授
1961年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。自然と人、コミュニティのこれからをテーマに、国内外のフィールドワークを続ける。さまざまな市民活動、まちづくり活動にもかかわっている。編著書に『自分で調べる技術』(岩波アクティブ新書)、『震災と地域再生――石巻市北上町に生きる人びと』(共編著、法政大学出版局)、『かつお節と日本人』(共著、岩波新書)、『開発と生活戦略の民族誌――ソロモン諸島アノケロ村の自然・移住・紛争』(新曜社)など。

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上田 昌文(うえだ・あきふみ)
NPO法人市民科学研究室代表理事
大学では生物学を専攻。2003-06年科学技術社会論学会の理事。2005-07年東京大学「科学技術インタープリター養成プログラム」特任教員。2010-18年に恵泉女学園大学において「市民と環境政策」を担当。2013-19年高木仁三郎市民科学基金・選考委員。著書:『原子力と原発きほんのき』(クレヨンハウス・ブックレット)、『エンハンスメント論争』(共編、社会評論社)など。

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(北海道大学大学院 文学研究科教授 宮内 泰介、NPO法人市民科学研究室代表理事 上田 昌文)

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