「史上最大の上場が寸前で不意に」世界の投資家を翻弄する中国当局の思惑
プレジデントオンライン / 2020年11月14日 11時15分
■約3兆6000億円を調達する見込みだったが…
市場関係者や個人投資家を沸かせた史上最大の株式上場が、上場予定日の2日前に、一瞬にして吹き飛んだ。その銘柄は中国電子商取引(EC)最大手、アリババグループ傘下の金融会社、アント・グループだった。
11月5日に香港と上海の両市場で新規株式公開(IPO)を予定し、350億ドル(約3兆6000億円)を調達する見込みだった。それが3日、上海証券取引所が突然、上場中止とし、アントは香港取引所への上場も延期すると発表した。
例によって上場延期の明確な理由は示されていないものの、個人投資家から3兆ドルを超える応募が殺到したとされるIPOに、習近平政権による強い圧力がかかったとみるのは想像に難くない。
アントのIPOが「ノー」を突き付けられた発端となったとされるのは、アントの経営権を実質的に握るアリババの創業者、馬雲(ジャック・マー)氏に対する金融当局による聴取にあった。北京に本部を置く証券監督管理委員会(証監会)は2日、馬氏とアント幹部を呼び出した。
■馬氏に対する当局による一種の制裁という見方
米ブルームバーグ通信によれば、その場でアントのIPOについては直接の言及はなかったものの、当局者は馬氏らにこれまでにアントが享受してきた緩い監督と最低限の資本要件の日々は終わったと告げたとされる。
事実、証監会はその日の夜、馬氏とアント幹部を聴取したことを突如、発表した。金融当局はほぼ同じタイミングで、アントも手掛けるインターネット小口金融に対する新たな規制案も公表した。これを受けて、上海証券取引所は情報開示の要件を満たしていない可能性があるとして、アントの上場延期を3日に発表した。
この瞬間、昨年上場したサウジアラビアの国営石油会社、サウジアラムコの調達額を上回ると見込まれた史上最大の上場は消え去った。
しかし、ここ数カ月入念に準備が進められてきたアントのIPOに上場直前になって待ったがかかった理由にはさまざまな憶測を呼んでいる。
その最たるものは馬氏に対する当局による一種の制裁という見方だ。その根拠として挙がるのは、習近平政権への批判とも受け取られかねない馬氏の発言にあった。
■「良いイノベーション(革新)は当局の監督を恐れない」
10月24日に上海で開かれた金融フォーラムでの公演で、馬氏は「良いイノベーション(革新)は当局の監督を恐れない。ただ、古い方式の監督を恐れる」と発言し、現在の中国の金融監督、規制が今の時代にそぐわないと強調した。同じ会議で馬氏の前に登壇した王岐山国家副主席は、金融リスクを防ぐためにイノベーションと強力な規制の間でバランスをとる必要性を主張していただけに、中国の国営メディアは馬氏を激しく批判し始めた。
馬氏といえば、教師から起業し、「アリババ帝国」を築き上げた今の中国にとってはまさに立志伝中のカリスマ的存在の経営者であり、国民からも広く尊敬されている。それだけに国営メディアによる馬氏への痛烈な批判は異例ともいえる。その意味で、土壇場でのアントのIPOの中止は、習政権の逆鱗に触れ中国共産党員でもある馬氏の鼻をへし折ったととらえることもできそうだ。
ただ、証監会の報道官はアントの上場中止が決まった翌4日の声明で「金融監督・規制に重大な変化あったため、アントの性急な上場を回避した。投資家と市場に対して責任ある対応だ」として、アントの上場中止を正当化した。
■フィンテック企業に対する圧力は、アントだけにとどまらない
アントは電子決済アプリ「支忖宝(アリペイ)」を運営し、その利用者は10億人を超える。キャッシュレス決済が当たり前のように広く浸透している中国において、アリペイは国民生活とは切っても切れない存在の金融プラットフォームだ。アントはその顧客基盤を活用して融資や資産運用など幅広い金融事業サービスを展開し、急速に勢力を拡大している。
しかし、ITと金融を組み合わせたフィンテック企業の急速な台頭に対しては、習政権は警戒感を強めている。事実、10月末には劉鶴副首相が率いる金融安定発展委員会がフィンテック企業を規制する必要性を強調していた。
アントのIPO中止はその意味で、アリババグループが中国経済を牽引する重要な企業であるにしても、民間企業が習政権の下で経済統制を強める共産党の意向には背けないという事実を如実に表した。それは同時に、台頭するフィンテック企業に対する圧力は、アントだけにとどまらないことも暗示している。
■世界の投資家に中国共産党の力を誇示した狙いとは
中国共産党は10月26~29日に開催した重要会議、第19期中央委員会第5回総会(5中総会)で採択した2021~25年の次期5カ年計画で、これまで掲げてきた外国への市場開放と人民元・資本動向規制の段階的緩和の実現に向けて、一段の金融市場の開放を示唆した。
しかし、それはあくまで習政権、共産党の手のひらに収まった形での条件付きの金融市場の開放であって、目前でのアントのIPO阻止は、史上最大の上場を前に色めきたった世界の投資家に対して習政権、共産党の力を誇示する強力なメッセージを発したことになる。
半面、中国の国内事情として、旧来型の金融システムの維持、ひいては政治の安定が習政権にとっては重要課題であることは変わらない。その中で、緩やかな規制を前に金融市場で急激に影響力を増してきたアントに代表されるフィンテック企業による独走を許したままでは共産党による権力支配を損なうリスクにもなりかねない。そのため強権を発動したとも考えられる。
■問題視されたのはアントの「与信プラットフォーム」
金融当局が今回、アントの事業で問題視したのは、その収益源だとされる。アントは、国有を含む銀行などの金融機関から融資を受けて中国全土の消費者や小規模企業に資金を提供するビジネスモデルが収益を支える。
金融当局は今、この与信プラットフォームにメスを入れ、アリババが目指すフィンテック帝国を切り崩そうともくろんでいるとされる。
ブルームバーグ通信は、中国銀行保険監督管理委員会(銀保監会)が銀行など資金の貸し手にアントのプラットフォームを使わないように促していると、事情に詳しい関係者の言葉を引用して伝えた。習近平政権と中国共産党にとっては、このままアントのIPOを認めてしまえば、中国の金融システムにおいてアントに大きな影響力を許してしまう。
■ダメージを受けた投資家たちは、中国市場への警戒を強める
また、中国は現在、中央銀行の人民銀行が仮想通貨「デジタル人民元」の導入に向け、10月には深圳で5万人に1人当たり200元のデジタル人民元を配り、大規模な実験を実施するなど、欧米先進国に先駆けて中銀が管理する仮想通貨の普及を目指している。
台頭する民間のフィンテック企業は、習政権、党がデジタル人民元を基軸通貨に育て上げて安定的な金融システムをコントロールし続けていくうえで、何とも厄介な存在になるというわけだ。
一方、アントを持ち分法適用対象とするアリババにとっては、当局によるアントに対するIPO阻止と規制強化のダブルパンチで、今後の業績面で大きな不安材料になりかねない。ただ、今回のアントのIPO中止によってダメージを受けたのは米国系の引き受け証券会社、さらには投資先として大きな期待を寄せた機関投資家や個人投資家であることは言うまでもない。
アントの上場は半年程度遅れるとの観測を現地メディアは伝える。
ただ、今回のアントのIPO中止で中国当局に翻弄された投資家らは、習政権が掲げる「市場開放」は自らの手のひらの中で都合よくコントロールする、統制下での開放であることを身に染みて実感したに違いない。これが、この先の投資行動にどのような影響をもたらすか。それによっては、習政権にとって痛手ともなりかねない。
(経済ジャーナリスト 水月 仁史)
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