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男性、正社員……「普通の人」を無視するリベラルの敗北は必然だった

プレジデントオンライン / 2020年11月21日 11時15分

国会前で行われた市民集会で安倍政権を批判する参加者たち=2018年4月14日、東京・永田町 - 写真=時事通信フォト

格差や分断がキーワードになっているのに、世界中で「リベラル」と呼ばれる勢力が退潮している。なぜなのか。弁護士の倉持麟太郎さんは「リベラルは特定の集団を『弱者』としてきたが、その実態は『会員制のバー』になっている。それではリベラルへの不信は避けられない」という――。

※本稿は、倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。

■「実際に体験した人にしか分からない」という狭すぎるロジック

ハーバード大学のヤコブ・ホーエガーは「Lived Experience vs. Experience」という図式を提示する。前者は他者とは共有できない主観的な「生ける経験=体験」であり、後者は他者と共有できる客観化された「経験」である。「体験」には当事者がいる。そして、「実際に体験した自分にしか分からない」からこそ素晴らしく、価値がある! そう位置付ける。自分の体験が、そう簡単に他者によって再現され普遍化され「経験」へと変換されてしまっては困るのだ。

「体験」ベースで共通項をくくっていけば、人や集団のカテゴリーはどんどん細分化していく。たとえば、「人間」から「女性」に、女性から「子どものいる女性」に、子どものいる女性から「働きながら子育てする女性」に、働きながら子育てする女性から「非正規で働きながら子育てする女性」に……。

その過程で、集団の垣根を越えた「経験」を介して相互理解を深め価値観を共有する可能性が失われていく。それどころか、「女性」と「男性」、「子どものいる女性」と「子どものいない女性」、「働きながら子育てする女性」と「家庭にいて子育てする女性」、「正社員として働きながら子育てする女性」と「非正規で働きながら子育てする女性」というように、むしろ「体験」の有無をめぐって分断が深まっていく。ここでの主体(主語)は、ある特定の物語の「本人=当事者」であって、普遍的な「個人(individual)」ではない。

■「非正規で働く子育て中の女性」でないと入場すらできない?

本来、「民主主義」や「人間の尊厳」そして「個人(individual)」という概念は、もともとは誰でも入れる市民会館や公園、広場のように、多様な人々を包摂する空間としてのプロジェクトだった。

しかし、「個人」概念にふるい落とされた人々によるアイデンティティの政治(アイデンティティ・リベラリズム)は、この空間を会員制のバーに変えてしまった。会員資格は、「非正規で働く子育て中の女性」であるとか「戦争を経験し集団的自衛権に反対する護憲派」であるとか、細分化された個別の「体験」「共感」の共有である。それらを共有していない者は、入場すら許されない。

興味深いレポートを紹介しよう。Yahoo! JAPANビッグデータレポートチームがビッグデータを利用して、政治的トピックに関する人々の属性別関心分布を分析した報告である(2017年4月~18年5月調べ)。

「森友・加計学園」についてはシニア層の関心が圧倒的であり、ヤング層の関心は薄い。男女を比較すると、「働き方改革」については男性の方が関心が強く、「少子化・子育て」については女性の関心が強い。

「原発」や「基地」問題についてのエリア別の関心分布をみると、辺野古の「基地」問題については西日本の関心が高いのに対し東日本の関心は低く、宮城県の女川原発や福島原発をはじめとする「原発」問題については東日本の関心は高いが西日本では低い。明らかに政治的トピックに関する関心分布は、年齢、性別、地域など自分がおかれた属性によって大きな関心の偏りがみられる。

■行き過ぎたポリコレが、多様で寛容な社会を自ら掘り崩している

このレポートは、「『自分と関係のある問題にしか関心がないのでは?』という……予測は、悲しいかな、的中してしまったようだ」と結論づけている(安宅和人他『ビッグデータ探偵団』講談社現代新書、2019年)。現代社会の人々の関心事が、身の回り半径数メートルの近視眼的な範囲にとどまっている傾向を裏付けるものだといえよう。

一方で、近代「個人」概念は、自らの属性のみにとらわれることなくフェアで合理的な判断をなす存在としてあまりにも理想的に設定されてしまった。フェアで合理的な「個人」などという夢物語の概念に基づいて、人類としての幅広い相互承認を見出すなんて不可能だ! 分かる人には分かる「体験」という共通の物語で人を束ねて、限定された特定のアイデンティティの承認を求める闘争の方が、政治戦略としても現実的だ! 意識的か否かは別として、こうした判断と実践がなされた結果が、現在のアイデンティティの政治である。

そして、それは、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」概念と結びついた。行き過ぎたポリコレは表現を萎縮させ、リベラルが目指す多様で寛容な社会を自ら掘り崩し、息苦しい社会を作ってしまう。アメリカの右派は、このリベラルのポリコレを恰好の攻撃材料として標的にした。トランプ大統領の誕生をアシストしたのは、皮肉にもリベラルのポリコレの風潮であることは間違いない。

■アメリカ民主党が特別に配慮する「17の集団」

コロンビア大学歴史学部教授のマーク・リラは、『リベラル再生宣言』(夏目大訳、早川書房、2018年)において、アイデンティティ・リベラリズムがもたらす社会分断の象徴として、アメリカ民主党のウェブサイトを挙げる。

このサイトには、総合的な国家ビジョンに関するペーパーの代わりにPeopleと題されたリンクのリストがあり、クリックすると特定のアイデンティティを共有する合計17の集団のために作られた専用ページに飛ぶ。女性、ヒスパニック、LGBT、アフリカ系アメリカ人……。

リラはこれを「何かの間違いでレバノン政府のウェブサイトにアクセスしてしまったと勘違いする人もいるかもしれない」と皮肉たっぷりに揶揄する(確認したが、現在のサイトはもう少し体系的なメッセージを発信しているようだ)。そして、この喩えののち、こう結論付ける。「アメリカの二大政党の一つがアメリカの将来はこうあるべきというビジョンを示す場にはなっていないのだ」と。

アイデンティティ・リベラリズムは、権利を制約されている特定の集団を「弱い」集団として特別の配慮をしようとするが、「弱い集団」間の利害調整や、「弱くない」集団への配慮に欠ける。その上、「配慮」は必ずしも「解決」を伴わない。特定の「弱い」集団の承認欲求をセラピー的にその場しのぎで満たしても、多くの場合真の解決には向かわない。

■「平均的な日本人のための政党である」という努力をすべき

そもそも、属性に関係なくすべての人が普遍的な尊厳を保ちながら生きていくことができるというリベラルな社会を本気で実現しようとするなら、本来政権交代(新陳代謝)が必要なのだ。そして、政権交代のためには、幅広い人々に訴えうる統合的な国家ビジョンの提示が不可欠だ。それをやらないのであれば、政権交代への意欲はその程度のものと見透かされても仕方ない。

アイデンティティ・リベラリズムは、自分たちの要求を政治権力や民主政の過程で実現させることとは正反対の行動をとっている。リベラルの野党勢力は、もっともっと良い意味で「自分たちが平均的な日本人のための政党である」とより多くの人に思わせる努力をしなければならない。

アイデンティティの政治やグローバリゼーションへの処方箋として構築すべきは、誤解を恐れずに言えば、ナショナル・アイデンティティである。これは民族的なアイデンティティや狭矮なナショナリズムでもない。

■ナショナル・アイデンティティを再構築すべき6つの理由

ナショナル・アイデンティティを再構築すべき理由として、政治学者フランシス・フクヤマは6つの理由を挙げる。

まず、何より国民の物理的安全のためである。ナショナル・アイデンティティを喪失し、国内の分断が深刻化すれば、行き着く先は内戦である。

2つ目は政府及び公的権力の質の維持のためである。真に包摂的なナショナル・アイデンティティがない社会では、公的な職務に属する人間は、自分に近いアイデンティティ集団に有利になるように公的資源を投入したりするだろう。お友達優遇、どこかの国でよく聞く話だ。

3つ目は経済の持続可能な発展のためである。ナショナル・アイデンティティにより、国民一人ひとりに自らが社会の成員であるという意識と、誰もが社会の成員であるという意識が涵養されれば、上位1%の富裕層のために99%が搾取されるような社会構造を転換するきっかけがつかめるかもしれない。

4つ目は、広範囲の「信頼」の醸成による社会の共通課題への理性的な討議のためである。各アイデンティティ集団の数だけカスタマイズされた信頼が存在し乱立しても、集団間での協働にはつながらない。一方、共通のナショナル・アイデンティティという信頼に支えられた人間同士の間では、同じチームのメンバーとして、協力や対話という交流が交わされる。

■それでも日本での暮らしを望むのは「愛着」があるから

5つ目は、経済格差を是正する社会的セーフティネットを維持するためである。特定のアイデンティティ集団ごとに分断されている社会では、「互いのことを資源を奪いあうゼロサムの競争相手とみなす可能性が高い」。

そして最後が、自由民主主義そのものを可能にするためである。個別のアイデンティティや利害関係を超えて、集団的決定をしなければならないのが自由民主主義のサガ(運命)だが、そのためには、党派性をぐっとこらえて、まったく別の価値観への寛容さが求められるのだ。

加えて、ナショナル・アイデンティティが包摂する「愛着」という感覚は、現在の日本社会に置き換えても通用するのではないか。政府が憲法や法律解釈を融通無碍に変える。正義や公正という概念が失われ、権力者に有利なルールメーキングが常態化する。その「お手盛り」によって公僕に死者が出ても、これらを是正するシステムを我々日本人は持っていない。それでも、多くの人が日本での暮らしを望み、絶望の中にも希望を見出そうとするのは、何らかの形でこの国に愛着があるからである。

■我々は知らぬ間に、自由のベースラインをどんどん後退させている

そしてその愛着はたぶん、「国家」といった堅苦しいものではなく、つらいときに語り合える仲間がいたり、守らなければならない家族や大切な人がいたり、ふと疲れた時に寄るビアバーがあったり、そんなささいなことから醸成されるものなのだと思う。

それで十分なのだ。それこそが、地域コミュニティや共同体、属性を超えた人的つながりや他者との共通体験なのだ。暮らしの中のささいな愛着にこそ、包摂的なナショナル・アイデンティティを再構築するきっかけがある。

日本が演じてきた民主主義や立憲主義がハリボテであったことは、平成30年間を通じてより明らかになり、もはや根本的なテコ入れをしない限り、それらの価値は維持していけないことは自明だ。

特定秘密保護法、安保法制(集団的自衛権の行使容認)、共謀罪、生前退位に関する皇室典範特例法、出入国管理法改正、閣議決定による東京高検検事長の勤務延長、そして新型コロナ特措法での緊急事態宣言にかかる国会の承認etc……その他権力の私物化事例は数えればキリがないが、与野党関係なく、これに対する本質的な危機感は日本社会からは感じられない。我々は知らぬ間に、自由のベースラインをどんどん後退させている。

■リベラル=高すぎる理想を説教台から語るエリート主義

リベラル勢力(含む野党)も、総理大臣や自民党という「属人的な」批判に終始するばかりで、制度的に権力を縛る具体的提案がされることはなく、「与えられた」民主主義や立憲主義が血肉になっているとは到底考えられない。

倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)
倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)

リベラルが無批判かつ無邪気に主張し続けた様々な価値観が、グローバリゼーションやアイデンティティの政治を産み、他者を尊重し思いやるための「共同体」や「個人の尊厳」を歪めてしまった。

加えて、リベラルが、その高すぎる理想を説教台から語るエリート主義(愚民思想)に陥ったことによって、怒りや不安で満たされた人々が排外主義的な価値観のもとに結束した。愚民思想が蔓延すると、生活者たちは、自分たちはリベラルに信用されていないと判断し、もはやリベラルな価値観のもとでは結集しなくなる。リベラルに対する不信は必然である。

リベラルは、非現実的な「個人」像から脱却し、共同体や文化に根差した顔が見えて温もりを感じる生身の個人による政治(「個人(individual)2.0」)の構築を模索すべきだ。そのためには、「国家」の概念も適切に再定位しなければならない。

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倉持 麟太郎(くらもち・りんたろう)
弁護士
1983年、東京生まれ。慶応義塾大学法学部卒業、中央大学法科大学院修了。2012年弁護士登録(第二東京弁護士会)。弁護士法人Next代表弁護士・東京圏雇用労働相談センター(TECC)相談員として、ベンチャー支援、一般企業法務、「働き方」等について専門的に取り扱う。共著に『2015年安保 国会の内と外で』(岩波書店、2015)、『時代の正体2』(現代思潮新社、2016)。

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(弁護士 倉持 麟太郎)

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