日本の政治家とマスコミは「政治」ではなく「選挙ビジネス」をしているだけ
プレジデントオンライン / 2020年11月22日 11時15分
※本稿は、倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
■永田町まわりから民主主義を「解放」せよ
「政治的なるもの」の惰性で民主主義を回している限り、本質的な議論も責任ある決断も行われようがなく、したがって、アイデンティティの政治、グローバリズムの副作用、ネット言論空間における社会の分断、国会の形骸化や法の支配の空洞化など、日本社会の病理を根本的に治療することは難しい。
ここにいう「政治的なるもの」とは、政党を中心とした政治家・メディア・市民運動体など、政治という名の選挙ビジネスを飯のタネにしている永田町まわりの人々の総体だ。
だからこそ、選挙と政党から、民主主義を「解放」しなければならない。今現在我が国で行われている学芸会的「ミンシュシュギ」の幕を下ろし、なんとかして血を流さずに、しかし血の通った本物の民主主義へと再生させなければならないのだ。
さあ、この21世紀の日本社会において、敗戦や革命など国内外の多大な犠牲と引き換えにせずとも、新しい民主主義をスタートさせることは可能なのか。その挑戦のメニューが、立憲主義の制度的強化と民主主義のルートの多様化である。
■崇高な価値を語っても「うさん臭さ」が浸透するだけ
リベラルが再度人々の心や理念を超えて受け入れられるためには、リベラルが大切だと考える権利や自由が一部の特権的な人のためのものであったり絵に描いた餠でないのだという実感を、人々がその属性に関係なく持てるかどうかである。具体的には、
②法の「中身」:リベラルな価値がどのようなアイデンティティの人間に対しても等しく適用されるように基準が明確化・明文化され解釈の余地ができる限り統制されていること
である。
崇高な価値をいくら語ってもその原理が自分たちには適用されないと考える人が存在すれば、その人は疎外感を覚え、むしろリベラルの「口だけ」「うさん臭さ」が社会に浸透する。
立憲主義の強化とあわせて、リベラルの再生に欠かせないのは民主主義のルートの多様化だ。
■国会議員とマスコミは「信頼できない」が46%
まず、日経新聞が2019年に行い2020年初に公表した郵送式の大型アンケートを紹介したい。アンケート項目は政治経済から生活様式まで多岐にわたるが、私が取り上げたいのは「あなたは日本のどの機関、団体、公職を信頼できますか」という問いである。
「信頼できる」との回答を得たランキングは、1位:自衛隊(60%)、2位:裁判所(51%)、3位:警察(47%)、4位:検察(42%)、5位:国家公務員(26%)。
対して「信頼できない」は、1位:国会議員(46%)、1位:マスコミ(46%)、3位:教師(27%)、4位:国家公務員(25%)、5位:警察(15%)であった。
国会議員とマスコミは「信頼できない」同率1位で、永田町を中心とした「政治的なるもの」への漠然とした不信を表している。一方で、安倍前首相が「違憲の疑いを払拭したい」としていた自衛隊は、法的位置づけはなんのその、ダントツで「信頼できる」と評価されている。
■選挙に「信頼」は必要ないから「不信」歓迎
この「信頼できない」という不信の感覚は、積極的に反対票を投じて変革を求める意志と同義ではない。我が国での「不信」は無気力、ニヒリズム、脱政治、を意味している。そして、「政治的なるもの」にとって、それはそれで好都合なのだ。
信頼される必要はない。無党派層は「寝ていて」くれさえすれば、与野党双方とも、自分たちの政局に明け暮れることができる。そして、最終的には政局のゴールである選挙において、旧来の市民運動家たちを含めた一部の熱狂的な「過剰代表」、ノイジーマイノリティの支持さえ調達できれば、少なくとも現状維持は可能なのだ。
加えて、大手メディアの政治部との依存関係もこの構造を維持するためには重要である。政局部と堕した大手政治部は、全紙代わり映えのしない同じ論点について、上司に言われた文字数に前例踏襲的な定型句を嵌め込むことを仕事にしているかのようだ。
その情報収集のために群れを成して政治家に付き従い、永田町の廊下を往復する。その光景はまるで秘書か党職員と見間違えるほどだ。
■「政党化」する大手政治部記者の思考回路
他方、政治家もすべては選挙中心の行動原理で動くから、メディアへの露出度をアップするために、メディアが設定した論点や論調にあわせて、自己の主張を立論する。私も、大手政治部の記者と話していて「○○という言い方をしてくれれば記事に書けるんだけど」と言われることがある。
あるいは、憲法改正の議論についても、「安倍総理の自衛隊明記案」「自民党改正草案」など政党として打ち出した案は項目に出されるが、議員各人の提案は、その政策的価値とは全く無関係に「党として出してないから書けない」と紙面から外される。
このことはつまり、大手政局メディアが、選挙や政党の構造とその思考回路を完全に一致させており、その枠を超えたオリジナルで価値ある発信はほとんどなされないことを示している。これほどまでに、政治メディアと政党はぴったりと表裏一体なのだ。
1970年代以降の政党衰退は、マスコミュニケーションの発達によって、政治的な争点形成機能を果たすプレーヤーが広がったこともその一因だった。このときマスメディアは、社会的な役割として、独自に市民が議論し熟考するための争点形成機能を果たしていく役割を担っていたはずだったのだ。
しかし、我が国では、むしろマスメディア自身が番記者を通じた政党の広報機関の地位に甘んじた結果、政党の衰退とともに、政治問題を政局や政党の利害を超えて提示できる機能も社会から失われたのだ。
■「ミンシュシュギ」への絶望を「力」に変える
こうしてみると、選挙と政党、そしてメディアを中心とした「政治的なるもの」たちの生態系は、ビジネスとして高度に自己完結しており、政局を「飯のタネ」として「食っていく」ためには余裕の自給率100%状態なのである。この自給率100%の生態系のことを、我々は民主主義だと思い込んでいる。これはハリボテの「ミンシュシュギ」にすぎない。
我々は国会議員やマスコミを、適切に「信頼できない」と断じているではないか。この「不信」をミンシュシュギへの無関心と絶望で費やさずに、フレッシュな民主主義のためのパワーに統合しようではないか。これがカウンター・デモクラシーだ。
「カウンター・デモクラシー」とは、フランスの政治学者ピエール・ロザンヴァロンが提唱したとされる、既存の選挙代議制民主主義への「対抗的」な民主主義のあり方である。民主主義への「不信」を適切に組織し、具体例としてデモや国民投票が挙げられることが多いが、必ずしもそれらに限られない。
■SEALDsさえも「同窓会」になってしまった
世界的に、選挙代議制民主主義に対する限界や不満が叫ばれ、そうした叫びは具体的な運動へと発展している。日本でも、集団的自衛権の行使を一部可能にした2015年の新安保法制に対しては、SEALDsを中心とした数万人規模の反対デモが行われた。
しかし、このSEALDsも含めて日本の既存の市民運動は、政党や党派性と表裏一体となった選挙密着型市民運動の側面が強い。その多くは、意識的かどうかは別として、実質的には選挙の「ためにする」市民運動であり、結果として、既存の選挙代議制民主主義を前提にした党派性政治の構図を円滑に再生産し続けるための集団と化している。
この評価は厳しすぎるのではないか、と感じるかもしれない。たしかに、SEALDsを中心とした安保法制をめぐる国会前のデモは、少なからず新しい層にリーチしたことは間違いない。何を隠そう、2015年8月30日の最大規模の国会前デモに私も生まれて初めて参加したほどだ。最初で最後のデモ経験であった。
しかし、その後、SEALDsを中心とした運動体は市民連合などの既存の政党・党派性密着型市民運動に吸収されてしまった。あれ以来、同じくらい大規模のデモはないばかりか、結局は市民運動という名の集会はすべて決まりきった人々の「同窓会」状態である。
■集団的思考停止の「永田町脳」から解決策は生まれない
中身はといえば参加者が「そうだ!」の掛け声を繰り返すことで、自分たちの考えが唯一正しいことを確認し合う集団的思考停止の空間である。対話や議論によって新たな争点に対する新たな解決策を模索するような空間とは程遠い。
日本においては、結局のところ、現行の選挙代議制民主主義への不信を現行の選挙代議制民主主義の枠組みの中で解消しようとする取り組みしか存在せず(このように、なんでもかんでも「永田町のルール」に則って考えることを、私は「永田町脳」と呼んでいる)、枠組みの外側に飛び出していくような新しいカウンター・デモクラシーは存在してこなかった。
本来カウンター・デモクラシーは、既存の代議制民主主義と敵対するものではなく相互補完的なものである。我々市民が、「選挙」という機会でしか政治に対する民意の入力ができないとすると、あまりに機会が乏しい。したがって、政治への民意の入力機会を日常的・恒常的に補うのがカウンター・デモクラシーである。
■「点」の選挙から「線」のカウンター・デモクラシーへ
選挙が「点」だとすれば、カウンター・デモクラシーは、「線」だ。既存の民主主義を放棄することはできないことを前提とした上で、既存の民主主義のより豊かな正当性の調達先として、カウンター・デモクラシーは存在すべきである。
あわせて、この「線」自体のバリエーションが増えないと、カウンター・デモクラシー自体も脆弱なものとなり、結局は既存の選挙代議制民主主義の磁場に引きずられて、吸収されてしまう。現在の特に我が国の選挙代議制民主主義がカバーしている範囲があまりに狭すぎるため、カウンター・デモクラシーが担う役割は相当広範囲にわたる。だからこそ、力まずに多様なチャレンジが可能なのだ。
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弁護士
1983年、東京生まれ。慶応義塾大学法学部卒業、中央大学法科大学院修了。2012年弁護士登録(第二東京弁護士会)。弁護士法人Next代表弁護士・東京圏雇用労働相談センター(TECC)相談員として、ベンチャー支援、一般企業法務、「働き方」等について専門的に取り扱う。共著に『2015年安保 国会の内と外で』(岩波書店、2015)、『時代の正体2』(現代思潮新社、2016)。
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(弁護士 倉持 麟太郎)
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