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渡部建さんの出演シーンが『ガキ使特番』からカットされる日本の空気は異常だ

プレジデントオンライン / 2020年12月7日 18時15分

自身が起こした女性問題について記者会見するお笑いコンビ「アンジャッシュ」の渡部建さん=2020年12月3日、東京都新宿区 - 写真=時事通信フォト

お笑いコンビ「アンジャッシュ」の渡部建さんの謝罪会見が物議をかもしている。元テレビ朝日プロデューサーの鎮目博道氏は「芸能レポーターたちは『会見を開いていないのに番組収録に参加したとすれば順序が違う』と責めたが、おかしな理屈だ。収録が事実だとすれば、カットせずに放送したほうがいい」という——。

■異様に映った芸能レポーターたちの執拗な質問

12月3日午後7時から100分にわたって行われた「アンジャッシュ」渡部建さんの謝罪会見。賛否両論さまざまな意見が飛び交っているが、私は一番印象深かったのは「Twitterと芸能マスコミの温度の差」だったのではないかと思う。

そこから見えてきたのは、「芸能マスコミ」そして「テレビ業界」がいかに一般社会から乖離(かいり)しているかということであり、そうした業界のあり方に対する世間からの警鐘だったのではないだろうか。

通常なら批判的な意見が多く発信され、特にスキャンダルを起こした芸能人に厳しいTwitterの住民たちは、今回の会見の件については当初から渡部さんに同情的だった。それは100分間にわたる会見を見ていた一般社会の「普通の人」たちの目に、いかにあの会見における芸能レポーターたちの執拗な質問の仕方が異様に映ったかということを現していると思う。そもそも渡部さんの不倫問題が発覚してから会見が行われるまでの間は、Twitterもほぼ渡部さんに批判的な意見一色であったことを考えれば、それは明らかだ。

渡部さんの行為自体については不快に感じていたTwitter民たちも、その行為を会見の場で責め立てる芸能マスコミのやり方については、「弱い者いじめだ」「あそこまでやる必要はあるのか」「レポーターたちは何様なのか」という正義感に駆られるほど、あの会見に「これはおかしい」と感じたということで、だからこそTwitterは渡部さんに対する同情論であふれたのだ。

■翌朝は芸人キャスターからの同情論も……

しかし、芸能マスコミ側のあの会見の捉え方はTwitterの論調とは全く異なったものとなった。

「肝心の疑問には答えなかった」
「なぜ今会見をしたのか、疑問が残る」
「テレビの収録に参加したのかどうか明らかにしなかった」
「これでは業界内は納得しないだろう」
「会見する前に番組収録に参加したのなら順序がおかしいのではないか」
「このままではテレビへの復帰は難しいのではないか」

スポーツ新聞やワイドショーのVTRはどれもこうした論調だ。渡部さんに対してはネットの雰囲気より明らかに厳しいのではないだろうか。

ただし、会見翌朝のワイドショーは各局、「渡部さんに批判的なVTR」を流したが、それに対するコメンテーターの反応は渡部さんに同情的という不思議な状態になった。

ライブイベント放送でのビデオカメラ側からの視点
写真=iStock.com/coffeekai
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coffeekai

何せ各局ともほぼメインキャスターやコメンテーターとしてスタジオにいるのは、渡部さんと同じ芸人たちが多いわけだが、彼らの目にも「100分間のフルボッコ会見」は異様に映ったということなのだろう。中には会見の場にいた芸能レポーターを前に「あなたがいる前でこんなことを言うのも何だが、芸能レポーターたちはおかしかった」とはっきりレポーターたちの質問の仕方を非難するキャスターもいた。

つまり、「これでは業界内部も納得しないだろう」と報じたワイドショーつまり芸能マスコミに対し、その業界内部のまさに当事者である芸人たちがワイドショーのキャスターとして「芸能マスコミがむしろおかしい」と真っ向から批判するという、言ってみれば「内紛状態」のような事態が起こったと言えるのではないか。これはある意味、芸能人のスキャンダルに対する芸能マスコミの姿勢に辟易した芸能人たちが、「もういい加減にしてほしい」と心の叫びをついに口にしたと捉えるべきではないかと私は思う。

■芸能マスコミに大義名分は存在するのか

では芸人キャスターたちは何に対して不満の声をあげたのか。それは何かスキャンダルを起こしてしまった芸能人たちに対してテレビが復帰のために掲げる条件と、それについての芸能マスコミのあり方に対してなのではないか。

そもそも不倫などの場合には、本来であれば夫婦間および関係者の問題であり、極めてプライベートな内容で、謝罪すべきは配偶者をはじめとする家族および関係者に限られても良いはずなのに、芸能マスコミがそれを記事にして世間一般に広く暴露することによって問題が大ごとになっているという事情が前提としてある。

人にはプライバシーがあり、それは本来守られてしかるべきだ。しかし、メディアはそれが「公人に関わるもので、社会的に影響がある出来事」に関してはそのプライバシーを暴いてきた。例えば政治家のプライベートな行為が倫理に反する場合などは、もちろん国民に知らせる必要があるだろう。「そんなことをする人なら政治家に選ばなかった」ということがあるからだ。

しかし、テレビに出演するタレントのプライベートが倫理に反する場合には芸能マスコミはそれを暴く権利があるのだろうか。そんなことを言うと「いまさら何を」と言われそうだし、私自身もワイドショーの制作にも携わってきたので、むしろ芸能マスコミの側の人間であるとも言えるのだが、実はそこには政治家など明らかな公人のスキャンダルほど明確に「報道していい」と言い切れるほどの大義名分は存在しない。

■会見という社会的制裁の場がテレビ復帰の条件になる

有名人のスキャンダルだからそれなりに社会的関心事であることは間違いないから、たとえそれが違法行為ではないとしても記事にすることはなんとなく許容範囲とされている。そうやって「倫理違反」を暴かれた芸能人は、スポンサーや視聴者から信頼を失うことによってテレビに出られなくなる。

これはいわゆる「好感度」の問題だ。「そんなことをしていたのか」というので人々は怒り、あきれ、その芸能人を拒絶する。そうするとスキャンダルを起こした芸能人は一定期間自粛したり、芸能界を引退したりすることになる場合が多い。

ここまでは良いとして、難しいのは「ではどんな条件で許されるのか」ということだ。これについてはよく「このままではテレビ復帰は許されない」という言い方がされるが、では誰がどのような基準で復帰を決めているのかというと、テレビ業界の内部にいる私にもさっぱり分からない。たぶん「許される条件」などというものは初めから存在しないというのが真実だと思う。それは非常に曖昧なものなのだ。

以前私は司法記者として裁判の記事を書いていたことがあるが、よく判決の中で「社会的制裁をすでに受けている」という言葉が出てくる。量刑などが減らされるときによく使われる言葉だ。たぶんイメージとしてはこの「社会的制裁をすでに受けた状態」が、テレビ復帰を許される条件に近いのではないだろうか。

箱の中に隠れてストレスを感じている女性を指している悪魔たち
写真=iStock.com/SIphotography
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SIphotography

■すでに自粛し、謝罪してもテレビが許さないワケ

普通に考えると、「芸能人が一定期間仕事を自粛すること」はこの「社会的制裁をすでに受けた状態」になるのではないかと私は思う。「不倫をした芸能人が約半年間仕事を自粛した」というのは結構社会的制裁を受けたことになるのではないだろうか。たとえこれで仕事を再開したとしても、イメージが低下したことは間違いないわけで、これまでのようには仕事のオファーは来るはずもない。今後もかなりの苦戦が予想されるわけで、そういった意味でも社会的制裁は十分に受けているということになるのではないか。

「自粛に加えて、謝罪も必要だ」という声は当然あるだろう。倫理違反をしたのだから、「私は反省していて、もう今後は同じようなことはしない」という意思表明と謝罪があってこそテレビへの復帰が許されるべき、という考え方はうなずける。

それでは渡部さんは謝罪をしていないか、というとすでに週刊文春のインタビュー取材に答え、一定の経緯を明らかにして謝罪しているのではないだろうか。妻である佐々木希さんへの謝罪や、関係した女性へも関係者を通じてではあるが謝罪は済んでいるようだ。

関係者への謝罪も済み、雑誌という媒体で世間への経緯の説明と謝罪も済んでいる。そのうえで番組収録に臨んだのだろう。収録したのは、日本テレビの大みそか特番「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」と報じられている。収録が事実だとしても、「会見を開いていないのに番組収録に参加したとすれば順序が違う」というのはどういう理屈なのだろうか。

■芸能マスコミの勝手な理屈、エゴ

渡部さんは3日の会見で、「文春の取材に応じれば会見を開かなくても良いと思っていた。考えが甘かった」と答えているが、これは別に甘い考えではない。公の刊行物で経緯を明らかにして謝罪していれば、一定の説明責任と謝罪は果たしたというべきではないか。

「それで済むと思ったら大間違いだ」と詰め寄る芸能マスコミの理屈の方が私にはよく分からない。「週刊文春だけじゃなくて、うちの取材にも応じろよ。俺の質問にも答えろよ。じゃなきゃ許さんぞ」というならむしろそれはメディア側の勝手な理屈で、エゴなのではないか。

私は30年近くテレビ業界にいて、主に報道番組関係の仕事をしてきたが、私の考えでは記者会見は「会見する人物の主張や言葉、心境を聞く場」であって「社会的制裁を与える場」ではない。謝罪の言葉を述べてもらうことは大切だろうが、社会的制裁を与えるという目的で「人をボコボコにする私刑の場」になってはならない。Twitterが同情論であふれたのは、レポーターたちが、つまり芸能マスコミが「私刑執行人」に見えたからに他ならず、それはメディア側が大いに反省すべきことなのではないか。

マイクとレコーダーを手にした女性リポーター
写真=iStock.com/wellphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/wellphoto

しかも、記事の論理があまりに内向きなのではないか。「それでは謝罪になっていない。順序が違う」とか「業界の論理では許されない」「テレビ復帰は難しいだろう」などということは、あくまでも「自分たちの心境について」語っているにすぎず、そんなことを大声で主張すること自体が「芸能界・メディア業界というところは古い世界で、世間の常識とはかけ離れています」と自らの恥を世間様にさらしていることになりはしないだろうか。

■テレビマンの勇気が試されている

極めて情緒的な「十分に泣きを入れたか」というような基準や、「腹を切れば情けをかけてやる」というような前近代的な「渡世の世界のメンタリティ」のようなものに基づいて記者会見の場を利用するのは、絶対にやめたほうが良い。日本は法治国家だ。仕事を一定期間自粛するなど「社会的制裁をすでに受けている」といえる条件を満たせば、倫理違反なり違法行為を犯した人物も当然許されるべきだと私は思う。

そしてテレビ局も「賛否両論ある人物の出演」にもっと勇敢であるべきだ。多少の批判の声が寄せられたにしても、その人物の出演によって世間に問題提起ができて有意義だと感じたら正々堂々と起用すべきなのではないか。「炎上」「批判」という言葉を過剰に恐れて、ビビりながら無難な番組を作り続ければ、どんどん番組はつまらなくなっていく。

一部で報じられているように、日本テレビの大みそか特番『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』が渡部さんを起用し、笑いに昇華させて復帰させようとしたならば、その「テレビマン的勇気」に私は拍手喝采を送りたい。「批判されるくらいが面白い番組だ」というのはわれわれの偉大な先輩たちが築き上げてきた文化だし、実際問題として「嫌だと思う人は見ないでください」と堂々と言える勇気こそがテレビを再び面白くするのではないかと私は信じている。

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鎮目 博道(しずめ・ひろみち)
テレビプロデューサー・ライター
92年テレビ朝日入社。社会部記者として阪神大震災やオウム真理教関連の取材を手がけた後、スーパーJチャンネル、スーパーモーニング、報道ステーションなどのディレクターを経てプロデューサーに。中国・朝鮮半島取材やアメリカ同時多発テロなどを始め海外取材を多く手がける。また、ABEMAのサービス立ち上げに参画。「AbemaPrime」、「Wの悲喜劇」などの番組を企画・プロデュース。2019年8月に独立し、放送番組のみならず、多メディアで活動。上智大学文学部新聞学科非常勤講師。公共コミュニケーション学会会員として地域メディアについて学び、顔ハメパネルをライフワークとして研究、記事を執筆している。 Officialwebsite:https://shizume.themedia.jp/ Twitter:@shizumehiro

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(テレビプロデューサー・ライター 鎮目 博道)

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