「私はお金で動く女」「たるんでる私を殴って」東京五輪代表内定した元OL女子陸上選手の痛快すぎるプロ根性
プレジデントオンライン / 2020年12月16日 9時15分
■東京五輪代表内定した「元OL」女子陸上選手・新谷仁美のプロ根性
新谷仁美(積水化学)の走りは、本当に神がかっていた。
12月4日に行われた陸上長距離の日本選手権、女子10000m。3000m付近で抜け出すと、5000mを15分07秒で通過する。後半は独走して、日本記録より何と28秒も速く30分20秒44でゴールに飛び込んだのだ。一山麻緒(ワコール)を除く19人を周回遅れにする圧倒的な走りで、東京五輪代表の内定をゲットした。
新谷の自己ベストは“引退レース”となった2013年モスクワ世界選手権でマークした30分56秒70。25歳のときに打ち立てた記録だ。それを約3年半のブランクを経て復帰して、32歳で大幅に更新したことになる。2019年2月に取材したとき新谷はこう話していた。
「周囲がモスクワ世界選手権の頃と(ブランクを経て復帰した今を)比べるのは普通のことですし、自分も5年半前の自分を意識しています。25歳の自分が亡霊みたいで邪魔だなと思う。だからこそ、25歳の私を超えて、過去の自分に決着をつけたいんです」
日本選手権はゴールした直後、新谷は珍しく両手を上げて喜びを表現した。その後のインタビューでも、「コロナ禍のなかでもたくさんの人たちが応援に駆けつけてくれたことが大きな力になりました。先頭を走っていたときは、アスリートとしてパフォーマーとして、この応援に応えたいという気持ちでした。現役復帰したときに、日本記録を更新しなければ世界と戦えないと思っていた。更新できて良かったです」と笑顔を浮かべた。
■「OLより陸上のほうが手っとり早く稼げる」
新谷は包み隠すことのない“コメント”がいつも話題になる。
3年半に及ぶエクセルなど慣れないオフィスワークのOL生活を経て、プロランナーとして復帰を決めたときも、その理由をこう答えている。
「正直、もう一度走りたい、という欲はありませんでした。でもOLでお金をためるよりも陸上のほうが手っとり早く稼げると思ったんです(笑)」
新谷は報道陣に対して、リップサービスをしてくれるタイプ。その大胆な発言は注目を浴びることが多い。ときには誤解を与えることもあるかもしれないが、新谷はきれいごとではなく、本音で語っている。だからこそ、その言葉は力強く、多くの人を惹きつけているのだろう。
■「無名ルーキーがいきなり区間賞」高校時代から“パフォーマー”
筆者は新谷が高校生(岡山県の興譲館高校)のときから取材してきた。初めて直接取材したのは彼女が高校1年の全国高校女子駅伝(2003年)だ。全国的には無名のルーキーが最長区間の1区でいきなり区間賞を獲得。「あいつは誰だ」。突然の怪物登場に、駅伝関係者は大いにザワついた。
当時の新谷は走ることを楽しんでいるように見えた。自分の才能に気づき、それを必死で磨こうとしていたように思う。同時にチームメイトと“青春時代”を過ごしていたようにも感じた。そして、全国高校女子駅伝では1区で3年連続区間賞の金字塔を達成。3年時には1区で区間新を叩き出して、チームを初優勝に導いている。
![女子1万メートルで日本新記録を樹立して優勝し、東京五輪代表に決まった新谷仁美(積水化学)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/8/670/img_4815fe7ed08fd8e09034d0e2437b924f1020924.jpg)
■「たるんでいるので、私を殴って」「走るのが仕事ですから」
その後、興譲館高へ取材に行った際、驚くべきエピソードを耳にした。全国高校女子駅伝の直前、新谷が森政芳寿監督に向かって、「たるんでいるので、私を殴ってください」と訴えたというのだ。
ちなみに森政監督は当時40代後半。薄い色のサングラスをかけた丸刈りの強面教師だ。男の筆者でも絶対に言えないことを17歳の少女は口にした。当時から責任感は強かった。
高卒後は、豊田自動織機に所属して、佐倉アスリート倶楽部の小出義雄監督の指導を受けるようになる。彼女が高校卒業直後の3月下旬、千葉県・佐倉まで取材に行った。それは冷たい雨が降る日だった。コーチが運転する車に乗せてもらい、新谷の練習を後ろから追いかけた。
当時、新谷はシドニー五輪の女子マラソンで金メダルに輝いた高橋尚子に強烈な憧れを抱いており、小出監督に「私はマラソンをやりにきたんです!」と詰め寄るほどの“情熱”がほとばしっていた。
「将来は私を見て、夢や希望を持ってくださるような、笑顔が似合うマラソンランナーになりたいです」
こう話していた新谷は、当時から「走るのが仕事ですから」とも言い切っていた。
ロードで距離走を行った新谷の姿を見て、小出監督が絶賛していたのをよく覚えている。当時67歳だった名将は「将来的にはマラソンで2時間15~16分で走らせたいね」と大きな期待を寄せていたほどだ。
新谷は社会人1年目の2007年2月、記念すべき第1回の東京マラソンに出場。2時間31分01秒で制して、絶好の“マラソンデビュー”を果たす。18歳でのマラソン挑戦は非常に珍しく、驚かされた。
■名伯楽・小出監督とは何度も衝突し、「孤高のランナー」と呼ばれた
当時の新谷はトラックで戦うのではなく、「はやくマラソンで結果を残したい」「高橋尚子さんに少しでも近づきたい」という気持ちがすごく強かったように思う。
![準備運動をするアスリート](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/d/670/img_3ddd32481dca7fb50feb087a6f0cfdb2874296.jpg)
しかし、新谷はマラソンで思うような結果を残すことができなかった。2008年8月の北海道マラソンは2時間32分19秒の2位、2009年3月の名古屋国際女子マラソンは2時間30分58秒の8位。終盤での失速がトラウマになったのか、その後はトラック種目に注力することになる。
そして小出監督とは何度も衝突したという。いつしか、新谷は「孤高のランナー」と呼ばれる存在になっていた。
そのなかで2012年ロンドン五輪10000mは30分59秒19で9位。入賞(8位以内)にあと一歩のところまで迫ると、翌2013年モスクワ世界選手権10000mで自己ベストの30分56秒70で5位に食い込んだ。日本陸上界にとっては、快挙ともいえる結果だが、新谷が喜ぶことはなかった。
20代前半は笑顔を見せることなく、右足裏筋膜炎が完治しなかったこともあり、2014年1月に「引退」を発表。その後は、会社員生活を過ごすことになる。しかし、2017年夏にナイキと契約を結び、今度は「プロランナー」として再び、走り出した。
「プロランナーとしては常に結果が求められますし、私は25歳のときの自分を越えたいんです。10000mの日本記録と世界大会のメダル。これらを達成することができれば、過去の自分を超えることができるかなと思っています」
■3年半のOL生活からカムバック「私はお金で動く女です」
一時は体重が13kg増加したこともあり、カムバックの道は簡単ではなかった。トレーニング量の急増と食事制限が原因でほどなく恥骨を疲労骨折する。2018年6月にレース復帰した後は徐々に調子を取り戻すが、新谷の気持ちを満足させるところまでは至らなかった。
それでも昨秋はドーハ世界選手権10000mに出場して、日本代表に復帰する。しかし、先頭から約300m引き離される11位(31分12秒99)でレースを終えると、「メダルを取らなきゃ恥。過程なんか誰も見ていないじゃないですか」と自身に厳しいジャッジを下した。
2020年は積水化学に移籍した1月に、ハーフマラソンで1時間6分38秒の日本記録を樹立し、同じ1月の大阪国際女子マラソンでは15kmまでペースメーカーを務めた。
「私はお金で動く女です。ペースメーカーもお仕事ですよ。マラソン挑戦ですか? 仮にマラソンを走るとします。お金はこれくらいです、という状況でも10kmできつくなったら、あと30kmは地獄じゃないですか(笑)。絶対に後悔するんですよ。過去3度のマラソンはぜんぶ30km以降にだれてしまって、本当に地獄でした。その点、5000mや10000mは途中でだれても、残りの距離はさほどありません。トラックなら頑張れるんです」
新谷は茶化してこう話していたが、マラソンで叶わなかった夢をトラックで埋め合わせようとしているように感じる。だからこそ、世界大会で「メダル」を獲得しなければいけないのだ。
■来夏五輪に向けた横田真人コーチとの“メダル獲得大作戦”
今季は9月には5000mで日本歴代2位となる14分55秒83をマーク。10月18日のプリンセス駅伝と11月22日のクイーンズ駅伝では、最長3区で区間記録を1分10秒以上も更新する爆走を見せた。そして、前述したように12月4日の日本選手権10000mで驚異的な日本記録を打ち立てた。
![ランニングする女性](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/7/670/img_9794f7c4b223851d7f8a58006e1b900e1969184.jpg)
新谷の東京五輪での目標は、メダル獲得だ。
しかし、世界のトップクラスは10000mのラスト1周で400m60秒前後のスプリント勝負を演じている。一方、新谷はというとラスト1周は70秒を切るのが精一杯だ。
メダルを獲得する作戦は2つ。ラスト1周で世界の猛者と勝負できるキック力をつけるか、ラスト1周までにトップ集団を3人以内に削るか。来夏に向けて、横田真人コーチと“メダル獲得大作戦”を考えていくことになるだろう。
「結果を出すことは私がやるべきことです。過去の私には信用・信頼できる人がいなかったんですけど、いまの私には横田さんをはじめ信用・信頼できるスタッフがいます。私は本当にメンタルが弱くて、少しでも焦りがあると、どうしても自分の走りに影響してしまう。そういうところをカバーしてもらえる。強い味方ができたことが過去のロンドン五輪やモスクワ世界選手権と一番大きな違いです」
ひとりで戦ってきた新谷に信頼できる仲間ができた。それは新谷が「人」として成長した部分でもあるだろう。前男子800m日本記録保持者である横田コーチという“ブレーン”がついたことで、トレーニングや戦略の幅も広がった。重荷をおろした新谷は、メンタル的にずいぶん軽くなったという。
先月、別の選手の取材時に、たまたま新谷の練習している姿を見かけた。他のチームメイトは仲間と談笑するなどリラックスした雰囲気だったが、新谷のまわりだけは空気が違った。
ポイント練習を行うずいぶん前から、集中モードに入り、他を寄せ付けないオーラをビンビンに放っていたのだ。
そしてあえぐようなハードなメニューで自らを追い込んでいく。研ぎ澄まされた脚を見て、命を削って競技に取り組んでいるように感じた。
もちろん、本人はそんな過程を評価してほしいとも思っていない。だからこそ、筆者も新谷には東京五輪の「メダル」に手が届いてほしいと強く祈っている。
「どんな結果が出たとしても、仕事でやっている限りは満足することはないと思います」と話す新谷。そんな肝っ玉の据わったプロ根性を持つ元OLアスリートから目を離せそうもない。
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スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)
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