自民党のライバルだった社会党があっという間に消滅した根本原因
プレジデントオンライン / 2020年12月22日 9時15分
※本稿は、保阪正康『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)の一部を再編集したものです。
■大量の棄権者を出した1969年の総選挙
日本社会党は昭和44(1969)年12月の総選挙で、前回の140議席から90議席への大幅な減少によりその役割が軽減したということになる。しかも得票率も前回の27.9%から21.4%にと減っている。
この理由についてこれまでも触れてきたが、社会党支持者が積極的に支持するのをやめたから、と言っていいのではないかと思う。
どのような理由があろうとも選挙の日には投票所に出かける、というそれまでの気持ちを失ったのではないか。朝日新聞の政治記者だった石川真澄の著書『データ 戦後政治史』によるなら、社会党支持者が大量に棄権したと想定できる根拠があるという。
例えば朝日新聞は社会党の当選者を118人と推定したという。これは間違いだったことになるのだが、一般的には、「新聞が世論調査による議席数の推定を大きく間違えるのは、ほとんどの場合、棄権が大幅に増えたときである。
その原因は、棄権の増大が各党の得票をまんべんなく減らすのではなく、ある党の支持者に偏って影響を与えるためであると思われる」と書いている。
世論調査で社会党に投票すると言った人たちのかなりの部分が棄権した、ということになるのであろう。そしてもう一つ特徴があると指摘している。
■「戦後民主主義」だけでは支持を獲得できなくなった
それは、この選挙の時から「支持政党なし」が急激な上昇カーブを描いているというのである(これも朝日新聞の調査である)。社会党は1970年代を迎える時に、その役割を終える状態に置かれていたのである。
いや、戦後社会の中で、戦争終結時の戦後民主主義を口にしているだけでは、もはや訴求力を持てなくなっていたのである。
むしろ昭和20年代に左派社会党の鈴木茂三郎委員長が「青年よ、銃を持つな」と叫んだ時代の感性は、急激に薄れていたのであった。社会党は戦後25年を経て、社会主義そのものの変容に応えなければならなかったはずだ。
社会主義体制を平和勢力と言い、社会主義への道筋をめぐってプロレタリア独裁か否かで論争し、少しでも新しいビジョンが提示されると改良主義だ、社会主義の原則に外れる、といった論議を繰り返す体質がどれほど支持者に呆れ果てられていたか、自省すべきであったのだ。
支持者は、自民党の支持には抵抗があるがゆえに、棄権、あるいは支持政党なしとの姿勢に転じたといってもいいであろう。私自身、確かにこのころまで社会党に投票をしてきた。
しかし、このころから棄権に転じているので、この期の空気がよく理解できるのである。あえて社会党の不明朗さを対中関係で指摘しておく必要がある。1966年から始まった中国の文化大革命は、極めて異常な権力闘争を続けていたことは周知のことである。
■社会主義の横暴に対して、支持者を納得させられる声明を出せず
劉少奇国家主席が三角帽子を被(かぶ)せられて、紅衛兵に侮辱を受けている姿などをテレビで見てその権力闘争の凄(すさ)まじさを思い知らされた。
チェコスロバキアの「プラハの春」を戦車で抑え込むソ連軍の姿などと重ね合わせて、社会主義の絶望的な姿を私たちは知らされた。社会党がこうした現実にいかなる態度を取るか、支持者たちは注目していたのである。
しかしその答えはどうであったろうか。
支持者たちが納得できる答えを出していただろうか。確かに社会党はソ連のチェコに対する暴挙に抗議している。同時に社会主義協会などからは、ソ連の立場を理解できるというような声も公然と発せられている。
中国の文化大革命にも正面から社会主義とどう関わる問題なのか、支持者に説明はしていなかったように思う。
総選挙の昭和44年は、1月の全共闘系学生による東大安田講堂封鎖と機動隊の衝突といった事件があった。それを手始めに各セクトの衝突などの暴力行為が学園で、街頭で、繰り返された。
それに対して社会党の態度は曖昧であり、そのような暴力とは一線を画す支持者を納得させる声明はなかった。社会党は実は派閥抗争を繰り返し、独自の論理空間に埋没していたのである。
■中国共産党の戦略に利用された社会党
その中で、長年にわたって支持してきた人たちが「敵」とまでは言わないにしても、「傍観者」となったり、「観察者」に転じたのである。傍観者、あるいは観察者の側から見ると、この政党はどう映ったのであろうか。
そのことを具体的に確かめておく必要がある。
支持者が傍観者、観察者に転じたことの一つが、中国への社会党の態度にあったというべきであろう。のちにわかることだが、中国は国内で文化大革命という権力闘争を行いながら、ソ連との間で国境紛争を続けていた。
具体的にはダマンスキー島での衝突で死者も出ていた(69年3月)。これは社会主義陣営が一枚岩ではないことを示していた。中国は対外的には明らかに戦略を練り直していたのである。
つまり、最大の敵としていたアメリカ帝国主義の批判を、指導者たちは口にしなくなったのである。アメリカとの間に回路を作り、そしてソ連をけん制しようとの戦略に変えたというべきであった。
そういう国家としての戦略の中で、日本は見事に「使われた」という側面があった。どのようなことか。
つまり、日本政府との間に国交を回復する路線と、社会党とは社会主義の原則を守る路線とを使い分けるのが戦略だったように思えるのだ。
わかりやすい言い方をするならば、社会主義体制の原則を守護する面を社会党と演じて、国家的な戦略は自民党との回路を模索していくのである。
■「社会主義は幻想だ」と国民が認識しはじめた
このころは公明党の竹入義勝委員長がしばしば中国を訪問し、その露払いの役を果たしている。その竹入に、「米帝国主義は日中人民の共同の敵」などの声明を出すことを要求していない。
その意味では中国にとって、社会党は利用しやすい存在だったというべきであったろう。
社会党が文化大革命という異様な状態を正面から批判し、社会主義を志向する政党としての筋道を通したならば、まだ日本国内の支持者は傍観者や観察者にはならなかったように思われる。
これは私の個人的感想ということになるのだが、社会党という組織が結局は私たちの日常生活を託する政党たり得ないと判断されたのは、高度成長下の一定の豊かな社会の中で常に社会主義幻想に身をやつす夢想家ではないか、との共通意識が確認されたからではないだろうか。
改めてこの党の史実を検証していくと、そういう結論が引き出されるようにも思えるのだ。
こうした見解を土台に据えて、70年代の社会党の断面を見ていくことにしよう。
■中国に対して硬直した姿勢を貫いた結果、主体性を失った
とくに中国との関係を見ていくことにするが、昭和34年3月に浅沼稲次郎書記長を団長とする訪中団が北京を訪れている。この時に浅沼は、中国での何回かの演説で、「米国の帝国主義的政策は日中共同の敵である」と繰り返している。
この訪中団にはもともと左派社会党系の議員が加わっていたために、「敵」という強い言葉を後押しした節もあった。浅沼もその空気に押されたのであろう。
もっとも右派系の団員(例えば曽禰益(そね えき)など)は浅沼に強い口調で抗議している。むろんこれは中国側にとっては大歓迎であった。
人民日報にも大きく紹介されたというのである。同時に中国はこれ以後、日本の社会党の動きに強い支持を与えることになるのであった。いわゆる「60年安保闘争」時には一貫して支持を与えている。
中国にとっては極めて原則的な意味を持つ連帯のキーワードでもあったのだ。
社会党と中国の関係は、この言葉でつながることを中国は求め、逆に社会党はこの言葉からいかに脱却するかが以後の歴史にもなったのである。その後の訪中団(例えば昭和39年10月の成田知巳書記長を団長とする訪中団など)はこの言葉をめぐっての駆け引きにエネルギーを費やした。
結局、「日中人民の共同の敵」は常に確認された。「浅沼稲次郎の意思〈『日中共同の敵』発言〉を受け継ぎ、これを発展させ、引続きそのために奮闘することを決意した」(『戦後史のなかの日本社会党』原彬久)。
平和共存を容認し、そして東西冷戦の中での冷戦緩和を求める動きに賛意を示しているにもかかわらず、対中国とは共に冷戦構造での社会主義の勝利を謳うかのような状態に身を置いていたのである。
中国に対して社会党だけが硬直した姿勢を貫いているのは、まさにこの党が主体性を失っていることの証しであり、総選挙に惨敗した理由でもあった。
■激化する派閥抗争で停滞を余儀なくされる
社会主義協会や佐々木派の代議士や党員は、そういう役割を演じるのが真正な社会主義者だと言わんばかりであったのだ。あえてここで触れておくが、70年代に入ると社会主義協会はなお一層力を持ち、5万人の党員のうち2万人はこの派閥に入っていたというのである。
これらの党員が社会党大会になると乗り込んできて、自らの意に沿わない意見や見解を潰したのである。
のちに委員長から自民党、新党さきがけなどとの連立政権の首相になる村山富市は、「社会主義協会のやっていることはあくまでも派閥行動であり、向坂〈逸郎〉さんのやっていることは一つの学説の運動であって党全体の運動じゃない」(『村山富市回顧録』)と述懐している。
70年代の社会党の停滞は、まさに向坂一派の学説の運動のしからしめるところだったと言っていいであろう。
さて、社会党が中国に第5次の代表を送ったのは昭和45年10月である。
これは中国側の招待という形になるのだが、その裏話を前述の原の著書は明かしている。それによると、団長の成田知巳委員長に対して団員の構成に注文をつけたというし、この代表団の前に佐々木更三を団長とする代表団を招いて第5次の代表団との共同声明への地ならしを行った節もあったというのだ。
かなり執拗(しつよう)な裏工作だったらしい。結局この第5次の代表団は凄まじい共同声明を発表している。
■中国に使い捨てられ、国民から見放された社会党
そこには浅沼発言を相互に確認し、アメリカ帝国主義を残忍な敵呼ばわりし、その上で文化大革命を礼賛するといった内容であった。
これまでの声明の中で、これほどまでに強腰のアメリカ批判はないと思われる内容であり、社会党はいずれにしても中国にとって最も便利な政党となっていることを告白したのであった。
この声明の後間もなく、ニクソン大統領の北京訪問が明らかにされ、米中和解の方向が明確になるのだから、社会党の演じた役割は何だったのだろうか、ということになる。
私個人の意見なのだが、社会党から離れていく層はこの時に飛躍的に増えたのではないかと思う。社会党は中国にいいようにあしらわれているのが明確になったからである。
片方で凶暴な敵、もう片方で和解と、社会党が恥ずべき役割を演じた理由は結党以来の党内抗争の結果であり、自らの足元を見ないという自省の欠如の表れでもあった。
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ノンフィクション作家
1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 保阪 正康)
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