「明らかにブレーキが利いていない」だから"文春砲"の張本人は3カ月の休養を命じられた
プレジデントオンライン / 2020年12月26日 11時15分
「2016ユーキャン新語・流行語大賞」に選ばれた受賞者ら。中央が「神ってる」の広島カープ鈴木誠也選手、その左隣が「ゲス不倫」の週刊文春編集部。=2016年12月1日、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト
※本稿は、柳澤健『2016年の週刊文春』(光文社)の序章「編集長への処分」を再編集したものです。
■編集長の仕事とは、億のカネを使って大バクチを打つこと
「はい、校了しました。お疲れさま」
新谷(しんたに)学(まなぶ)編集長が、最後まで待機していた記者と担当デスクに声をかけた。
『週刊文春』二〇一五年一〇月一五日号の編集作業が完了したのだ。
校了とは、ゲラと呼ばれる校正刷りが編集部の手を離れて印刷所に回ることを意味する。
記者が書いた原稿に、担当デスクが手を入れてゲラにする。ゲラを校閲部に回し、文字の間違いや事実関係の誤りがないかをチェックする。訴訟沙汰になりそうな記事は、法務部を通じて顧問弁護士に確認してもらう。
すべてのチェックが終わったゲラを最終的に編集長が確認し、校了の判断をする。
株式会社文藝春秋が発行する『週刊文春』の発行部数は約六七万部(二〇一五年下半期。日本ABC協会調べ)。一般誌ではトップの数字である。
一八〇ページ前後の雑誌を七〇万部近く印刷するから、校了は数回に分かれる。発売日は木曜日で、最終校了は火曜日の夜八時から九時の間。直後から、凸版印刷は夜を徹して印刷と製本を行う。水曜日昼前に編集部に見本が届く頃には、すでに雑誌を満載した何台ものトラックが印刷所を出発している。
このようなプロセスを経て、書店やコンビニエンスストア、駅の売店での全国一斉発売(北海道と九州は金曜日)が初めて可能となるのだ。
週刊誌には巨額の経費がかかる。紙代、印刷代、デザイン費、輸送費、取次(雑誌・書籍の問屋にあたる)や書店への支払い、宣伝広告費、原稿料、編集部および校閲部、営業部、広告部など社員の人件費、取材経費、交通費、残業時の食事代まで、すべてひっくるめて一号あたり約一億円といわれる。
『週刊文春』編集長の仕事とは、毎週毎週、億のカネを使って大バクチを打つことなのだ。
(中略)
■社内で「編集長」と呼ばれることは決してない
社員持株会社である文藝春秋には、新潮社の佐藤一族や講談社の野間一族、小学館の相賀一族のようなオーナーはいない。
二〇一五年当時の社長は松井清人(きよんど)だが、新入社員さえ「社長」とは呼ばず、「松井さん」と呼ぶ。同様に、新谷学が社内で「編集長」と呼ばれることも決してない。トップから新入社員に至るまで、誰もが自分の会社だと思っているから、夜遅くまでワイワイガヤガヤやっている。一年三六五日、学園祭をやっているようなノリが文春にはある。
新谷学は、そんな明るい空気を胸いっぱいに吸い込んで育った。
■履歴書の「よく読む雑誌」に“週間文春”と書いて呆れられた
一九六四年九月一日群馬生まれの八王子育ち。早稲田大学政経学部卒。中学、高校では野球部、大学ではヨット部に所属していたからだろう、浅黒い肌と引きしまった身体は、書斎派の多い文春の中では異色だ。
入社は一九八九(平成元)年四月。百倍以上の倍率を見事に突破したが、履歴書の「よく読む雑誌」の欄に“週間文春”と書いて面接官から呆れられた。
最初に配属された『スポーツ・グラフィック ナンバー』編集部の冷蔵庫には大量のビールが入っていて、午後五時を過ぎれば飲みながら仕事をしても構わないという不文律があったから驚いた。
二年後に私が『ナンバー』に異動してきた頃、新谷はすでに編集部でやりたい放題だった。「四歳下の後輩に負けたら生きていけないからがんばろう」と思ったことを覚えている。
『週刊文春』に新谷が配属されたのは三〇歳と遅かったが、すぐに右トップ(その週でもっとも重要な記事)の書き手をまかされ、二年も経たないうちにエース記者となった。
中心メンバーとして創刊準備から関わったビジュアル雑誌『Title』ではわずか一年で異動を命じられるという挫折を経験したが、三六歳で復帰した『週刊文春』ではデスクとなり、凄腕の特派記者たちを率いて暴れ回った。
(中略)
■「週刊誌受難の時代」に最前線で戦うということ
『週刊文春』が総合週刊誌の発行部数トップに立ったのはこの頃、二〇〇四年のことだ。
少し前から、報道される側の人権がより重く、報道の自由がより軽く扱われるようになり、メディアが敗訴した場合には、以前では考えられないほど高額の賠償金の支払いが命じられた。
(中略)
手間とヒマとカネをかけてようやく手に入れたスクープの代償が高額の賠償金では割に合わない。『週刊ポスト』と『週刊現代』は訴訟リスクを避け、スクープを狙う戦場から撤退していった。
一九九〇年代に一世を風靡したヘアヌードもすでに飽きられていたから、両誌の発行部数は急落した。読者は正直だ。
一方、女性読者に配慮してヘアヌードを掲載せず、訴訟を恐れずにスクープを狙い続けた『週刊文春』の部数は踏みとどまった。花田編集長時代のような七〇万部を超える部数ではすでになかったが、他誌の急落によってトップに立ったのだ。
新谷デスクは、週刊誌受難の時代に最前線で戦っていた。
■「これ以上飲んだら、父ちゃん死んじゃうよ!」
文春社員が“本誌”と呼ぶ月刊『文藝春秋』に異動すると政治担当となり、安倍晋三からは、総理(第一次)になる直前、在職中、辞職直後と計三回も手記をとっている。
ずっと雑誌の世界で生きてきたから、単行本を作る出版部への異動を命じられた時にはショックを受けたが、売り上げや重版率がすぐに数字で出てくる個人プレーの面白さに気づいて俄然やる気を出し、一年に一六冊も本を作った。
出町譲『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(八万部)や白澤卓二『100歳までボケない101の方法』(三五万部)は大いに話題を呼び、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』を書いた鈴木智彦や『父・金正日と私 金正男独占告白』を書いた五味洋治は外国特派員協会に呼ばれ講演を行った。本は作るだけでは売れないと、新聞やテレビや雑誌の知人に頼み、著者と一緒にプロモーションに精を出した。担当した文春新書が合計一〇〇万部以上を売り上げたから、印刷する理想社が大いに喜んで祝宴を開いてくれた。
仕事も遊びも徹底的にやるから、酒の失敗は枚挙に遑がない。
酔っ払って階段から転がり落ちて頭蓋底骨折と髄液漏で死にかけたことも、転んで足を骨折して全治六カ月の診断を受け、一二本のボルトで骨を固定したこともある。
二〇〇九年夏、湘南の海で友人とバーベキューをして急性アルコール中毒になった時には、七歳の息子に「これ以上飲んだら、父ちゃん死んじゃうよ!」と泣かれて、以後酒はきっぱりと断った。
■以前ならば当然完売したはずのスクープでも完売しない
仕事でも遊びでも嵐を呼ぶ男が『週刊文春』の編集長に就任したのは二〇一二年四月のこと。
休みは一日もない。校了と会議の合間を見つけては各分野のキーマンに会いに出かけ、編集長自ら情報収集に励む。
特集記事のタイトルには、編集部員六〇名弱、いや文藝春秋三五〇名の社員たちの生活がかかっているから、編集長は一日中、時には夜を徹して必死に考え続ける。週刊誌の編集長は命を削る仕事、とは経験者の言葉だ。
新谷が編集長に就任した直後の『週刊文春』は、〈小沢一郎 妻からの「離縁状」〉(二〇一二年六月二一日号)と〈巨人原監督が元暴力団員に一億円払っていた!〉(同年六月二八日号)の大スクープのお蔭で二号続けて完売(実売八〇%超)を記録した。
だがその頃、スマートフォンの普及と紙媒体の衰退は急速に進んでいた。通勤電車で新聞や雑誌を広げる乗客は激減し、中学生までもがスマホの画面をフリックしてLINEの返信に精を出していた。
大きな話題を呼び、以前ならば当然完売したであろうASKA(チャゲ&飛鳥)の覚醒剤疑惑独占告白(二〇一三年一〇月一七日号)も、〈全聾(ぜんろう)の作曲家 佐村河内守(さむらごうちまもる)はペテン師だった!〉(二〇一四年二月一三日号)も、清原和博の薬物疑惑報道(二〇一四年三月一三日号)も完売には至らなかった。
(中略)
■もしかしたら、自分は更迭されるのではないか?
事件が起こったのは、二〇一五年一〇月五日月曜日夜のことだった。
祝日の関係で一〇月一五日号は通常より一日早い水曜日発売となり、通常火曜日の最終校了は月曜日に繰り上がっていた。
「はい、校了しました。お疲れさま」
新谷学編集長が、最後まで待機していた記者と担当デスクに声をかけた。
その直後、編集局長の鈴木洋嗣が新谷に向かって言った。
「新谷くん、松井さんが待っているから、社長室に行って下さい」
校了直後で疲労困憊している編集長を、社長が待ち構えているというのだ。いい話であるはずがない。
胸騒ぎがした。
最近は部数も苦戦している。もしかしたら、自分は更迭されるのではないか?
文藝春秋本館四階にある社長室には、応接室と会議室を兼ねた部屋が隣接されている。広いテーブルの角の椅子に座った新谷の前に、松井清人社長が先週号の『週刊文春』のグラビアページを開いて置いた。
■男女の性交を陰部まで克明に描いた「春画」
「新谷、これをどう思うんだ?」
「はあ、春画ですね」
細川護熙元首相が理事長をつとめる美術館「永青文庫」(東京・文京区)が開催した「SHUNGA 春画展」が大きな話題を集めていた。ちょうど文春新書から車浮代『春画入門』が発売されることもあって、新谷は春画展を大きく扱うことにした。
細川護熙と車浮代から談話をとり、作家の高橋克彦と永井義男、国際日本文化研究センター特任助教の石上阿希が、春画の観賞術や江戸時代の人々が春画をどのように見ていたかを解説した。林真理子には連載エッセイの中で春画展を取り上げてもらい、まんが家の伊藤理佐にも探訪ルポを描いてもらった。
カラーグラビアでも大きく扱った。二匹の蛸が女陰と口を吸う葛飾北斎の「喜能会之故真通(きのえのこまつ)」と、男女の性交を陰部まで克明に描いた歌川国貞の「艶紫娯拾余帖(えんしごじゅうよじょう)」である。
セクション班とグラビア班を横断した充実した企画に仕上がった、と新谷は満足していた。
だが、松井社長の見解は大きく異なっていた。
■『週刊文春』は家に持って帰れる雑誌じゃないといけない
「読物は何の問題もない。よくできています。ただ、春画をカラーグラビアで掲載し、しかも局部をトリミングして拡大するのは、『週刊文春』のやるべきことではないと思った。一九九〇年代前後、花田紀凱(かずよし)編集長時代の『週刊文春』は黄金時代を迎え、一九五九年の創刊以来、初めて『週刊新潮』を抜いた。快挙でした。でも、発行部数で総合週刊誌トップになった時期は短かった。どれほどスクープを連発し、柔軟で素晴らしい目次を作っても、『週刊ポスト』や『週刊現代』のヘアヌードや袋とじにはどうしても勝てなかったんです。
もちろん営業からは『ウチもヘアヌードをやりましょう!』と何度も言われたけど、花田さんは頑として受け入れなかった。理由は三つありました。ひとつは、女性読者を大切にしたから。ふたつめは、上質なクライアント(広告主)が逃げてしまうから。三つめは、一流の作家やコラムニストが書いてくれなくなるから。これは、花田さんからずっと教えられてきたことです。
『週刊文春』創刊二〇〇〇号(一九九八年十月一五日号)の編集長は僕だった。新聞広告は一面を使わせてくれたんだけど、甲賀瑞穂さんにヌードになってもらって、胸から腰のところまでをボードで隠して、目次の上に『ノーヘアヌード』というキャッチコピーをつけた。『週刊文春』はヘアヌードはやらない、と改めて宣言したんです。
僕は新谷に、『週刊文春』は家に持って帰れる雑誌じゃないといけない。春画のグラビアはふさわしくないと言いました」(松井清人)
■「お前、ちょっと休め。三カ月くらいだ」
新谷は訝しんだ。
春画をトリミングして性交シーンをアップにしたことは、確かに少々品がなかったかもしれない。だが、春画は大英博物館でも展覧会が開かれ、九万人の観客を集めた芸術作品だ。永青(えいせい)文庫の春画展にも、女性客が大挙して訪れている。ヘアヌード写真とは根本的に異なるものだ。
『週刊文春』の伝統は尊重するし、社長の意見も理解できる。だが、さほど重大な問題とも思えない。もしかしたら春画はただの口実で、何か裏があるのではないか?
新谷がそう考えていた時に、松井が突然言った。
「お前、ちょっと休め。三カ月くらいだ」
新谷は驚愕した。編集長の更迭はよくある話だが、三カ月間の休養など聞いたことがない。
冗談ではない。必死に戦っている部下を残して、自分ひとりが厳しい戦場を去るなどあり得ない。『週刊文春』はいま、厳しい状況下にある。『週刊文春デジタル』もまだ軌道に乗っていない。船が沈没するのであれば、船長はマストに身体を縛りつけ、船と一緒に海の藻屑と消えるに決まっている。
少々古風なところのある編集長は、社長に必死に訴えかけた。
「松井さん、ちょっと待って下さい。いまは部数的にはきついけど、かなり楽しみな、いい手応えのあるネタを仕込んでいるところなんです。ぜひ俺にそれをやらせて下さい」
■「三カ月間の休養を命じられた、迷惑をかけて申し訳ない」
だが、松井社長が自分の考えを改めることはなかった。
「春画ばかりでなく、最近のいくつかの記事には、明らかにブレーキが利いていなかった。部数が落ちて新谷は焦っている。このまま機関車みたいに突っ走っていくと危ない。純粋にそう感じたんです。新谷は極めて優秀な編集長。これからも長く続けてほしい。だからこそ、ここで休ませた方がいいと思った。新谷には一度頭をからっぽにしてくれ、焦ることは何もないんだからと言いました。それが俺の、嘘偽りのない気持ちです」
明日から三カ月間は会社に出なくていい。編集長不在の間は、常務取締役の木俣正剛と編集局長の鈴木洋嗣が代行する。
新谷は、社長の指示に従うほかなかった。
部屋の外で待っていた元編集長のふたりに最低限の引き継ぎを行い、デスクたちには「三カ月間の休養を命じられた、迷惑をかけて申し訳ない」とメールで伝えた。彼らも突然の休養処分の理由がのみ込めないようだった。すべての編集部員に、直接休養処分の経緯を説明して謝罪したかったが、明日から会社に出るなと命じられた以上は不可能だ。
■社内に相談できる人間はほとんどいなかった
これから自分はどうすればいいのだろう?
誰かに話を聞いてほしかった。
少しでもヒントをもらいたかった。
だが、社内に相談できる人間はほとんどいなかった。
では、社外にいるのか?
週刊誌編集長の孤独を知る人間が。
周囲から批判され、処分を受けて苦しんだ経験を持つ人間が。
そんな人間を、新谷はひとりしか知らなかった。
新谷学は、花田紀凱に電話を入れた。
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ノンフィクションライター
1960年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、空調機メーカーを経て株式会社文藝春秋に入社。花田紀凱編集長体制の『週刊文春』や設楽敦生編集長体制の『スポーツ・グラフィック ナンバー』編集部などに在籍し、2003年に独立。2007年刊行のデビュー作『1976年のアントニオ猪木』は高い評価を得た。主な著書に『1985年のクラッシュ・ギャルズ』『日本レスリングの物語』『1964年のジャイアント馬場』『1984年のUWF』『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』がある。
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(ノンフィクションライター 柳澤 健)
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