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「渋沢栄一はなぜ1人で500社も起業できたのか」ビビる大木が解説する

プレジデントオンライン / 2020年12月25日 9時15分

渋沢栄一像(埼玉県深谷市・深谷駅前=2019年07月) - 写真=時事通信フォト

2021年2月にスタートするNHKの大河ドラマ「青天を衝け」は、実業家・渋沢栄一の生涯をたどる物語だ。「日本資本主義の父」といわれる渋沢は、なぜ1人で500社もの会社を立ち上げることができたのか。歴史好きとして知られるお笑い芸人のビビる大木さんが解説する――。

※本稿は、ビビる大木・著『ビビる大木、渋沢栄一を語る 僕が学んだ「45の教え」』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■信念は「良い運は、良い人のご縁から」

渋沢栄一さんは「偶然というご縁」を大切にする人だったと言います。「良い運は良い人とのご縁から生じる」が彼の信念だったそうです。

渋沢さんは、江戸時代末期の1840(天保11)年に、現在の埼玉県深谷市に生まれました。生家は畑作や養蚕、藍問屋業などを手掛けていた農商家でした。幼い頃から勉強好きで、7歳で『論語』を読んだそうです。

渋沢さんの人生を野太いものにしたのは、一つは農民として生まれたこと。もう一つはかなり恵まれた教育環境でした。渋沢さんの中で、当時の幕藩体制や身分制度、世の中の矛盾に「なぜ?」と強烈な疑問が育まれた理由は、そこにありました。

■「退く」ことの大切さを知っていた

ただ、渋沢さんは勉強ばかりしていたわけではありません。剣道で心身を鍛え、14歳の頃にはすでに藍葉商として大人顔負けの目利きになっていました。この頃に、渋沢さんは商売の感覚を身につけたのです。世の中を知る中で、彼の疑問や不満は、次第に怒りへと変わっていきます。

ビビる大木さん
ビビる大木さん(撮影=大沢尚芳)

渋沢さんの人生を俯瞰(ふかん)すると、僕には彼が強運の持ち主に見えます。彼は激動の時代にあって改革を進めながら、実に91歳という長い生涯を得たからです。渋沢さんは、「引く」「退く」ことの大切さを知っていたように思います。

「押し」過ぎは自滅のもとです。実は渋沢さんは幕末の頃に、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという倒幕計画を立てましたが、結局、実行しませんでした。彼は直前に、「引いた」のでした。

強運と「退く」ことの大切さを知っていた渋沢さんは明治維新後、明治新政府の官僚になりますが、ほどなく辞して、日本経済の隆盛のために次々と会社を興していくのです。

■三菱創業者・岩崎弥太郎との大きな違い

明治から大正にかけて活躍した実業家である渋沢さんは、その生涯において500社を数える企業の設立や運営などに関わったと言われています。まさに、「日本資本主義の父」と言えます。

それでは、なぜ、渋沢さんは500社も創業することができたのでしょうか。僕はいろいろと関連書籍を読みながら、その理由を自分なりに探しました。そこで得た結論は、「渋沢さんは独り占めしない。独占しない」というのが、理由ではないかと思いました。

渋沢さんが活躍した時代は、その一方で、僕でも名前は聞いたことがある「三菱」や「三井」といった「財閥」が急速に成長してきた時期でもありました。

三菱を創業した岩崎弥太郎と渋沢さんには、手腕に大きな違いがありました。財閥系の実業家たちはほとんど会社の株式を公開せず、財閥という閉じられたネットワークの中で株を持ち合っていました。そして、実際の経営は、「専門経営者」たちに任せて、一族の一人が経営のトップに君臨するという、とても閉鎖的な経営をしていました。

■500社を育てた「開放的な経営」

一方、渋沢さんはどのようにしていたかというと、関わった企業は多くが株式会社の形態を取り、少額でも広く民間から出資を募り、大きな会社をつくっていきました。そして、これらの企業を渋沢一族で固めず、自分のカラーを濃くしませんでした。一貫して開放的な経営を続けていたのです。

CEOのデスク
写真=iStock.com/naotake
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/naotake

生涯500社もの企業に関わることができたのは、自分が経営の主導権をすべて握ろうとしなかったからでした。渋沢さんは、経営の指揮を信頼できる人間にどんどん任せていきました。たとえば、浅野セメント(現・太平洋セメント)の経営で知られる浅野総一郎もまた、その一人です。こうしたビジネスパートナーたちが、渋沢さんの多忙な活動を支えていたのでした。

ですから、渋沢さんには、優秀で有能な人材がどんどん必要になってきますし、そんな人間たちがどんどん集まってくるのでした。しかも、自分のカラーを強く出さず、開放的な経営が可能となるための人的ネットワークをつくって広げていったのです。こうした人的ネットワークをつくれたのも、渋沢さんのすごさの一つだと思います。

■すべては「公益の追求」のため

また、渋沢さんは公益の追求者でした。「日本全体を良くしたい」という公益を達成するために、次々と企業の創業に関わったのです。

現在のように経済成長が頭打ちとなる状況では、自社の利益だけを見ている経営者ばかりです。しかし、渋沢さんは、むしろ他の企業と協力して、日本の経済そのものを良くしていきたいという発想でした。

渋沢さんは時間の余裕ができると地方に出向き、さまざまな企業の設立に携わっています。各地の鉄道会社を支援し、立ち上げに関わり、その他にも港湾、ガス、電気といったインフラに関連する企業にも多く関わりました。こうした渋沢さんの姿勢は、公益の追求そのものだと思います。

■今でいう名プロデューサーだった

明治から大正にかけての時期は、閉鎖的な経営で力を蓄えていった財閥も、一方で渋沢さんに代表される非財閥の開かれた経営をするグループも、ともに発展しました。そういう意味で、渋沢さんは、名プロデューサーだったと言えるでしょう。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』というアメリカ映画がありますが、みなさん勝手にスピルバーグが監督だとイメージしていると思います。しかし、スピルバーグは製作総指揮というプロデューサーでした。監督はロバート・ゼメキスで、彼は後に『フォレスト・ガンプ/一期一会』でアカデミー作品賞・監督賞を受賞。スピルバーグは目利きだったのです。渋沢さんも同様だと思います。適材適所を見抜く力を持っていた渋沢さん、相手の力量を見抜く力、眼力があったということです。

■経営を離れ、「民間外交」に乗り出す

1909(明治42)年、69歳になった渋沢さんは、多くの企業や団体の役員を辞任します。辞任はしますが、その活動が衰えることはありませんでした。世界情勢の動向を気にかけ、特に民間外交では老骨に鞭を打って働きました。

すでに1902(明治35)年、渋沢さんは初の民間経済視察団の団長として渡米し、ルーズベルト大統領と会見していました。その後、1909(明治42)年にタフト大統領、1915(大正4)年にウイルソン大統領、1921(大正10)年にハーディング大統領に会見しています。当時のアメリカのメディアでは、「日本のGrand Old Man(長老)」と呼ばれ、親しまれていました。

第一次世界大戦後、アメリカで日本移民排斥運動などが起こり、日米関係が悪化していることに渋沢さんは危機感を覚えます。1927(昭和2)年には日本国際児童親善会を設立し、日本の人形とアメリカの青い目の人形の交換をするなどの親善活動を行い、民間外交の草の根運動にも尽くしました。

青空にはためく星条旗と日章旗
写真=iStock.com/btgbtg
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/btgbtg

欧米とだけでなく、渋沢さんはアジアとの民間外交にも力を入れました。1903(明治36)年、彼は生涯の友・大隈重信とともに、インドとの友好促進のため、日印協会を創設しています。1914(大正3)年には日中の経済界の提携を目指して、中国を訪問しました。「アジアとの協調なくして日本の繁栄はない」という大きな流れを見通していたのです。

■歴史上の人物には2つのタイプがいる

長く豊かな人生を送った渋沢さんが永眠したのは、1931(昭和6)年、91歳のときでした。

渋沢さんは、実業家の顔だけではなく、社会活動家の顔、民間外交を推進する顔など複数の顔をお持ちでした。その姿は、ある意味で、映画監督の顔、ニュース番組コメンテーターの顔を持つビートたけしさんや、サブカルの顔、教養を語る顔を持つタモリさんを見ているようです。

ビビる大木・著『ビビる大木、渋沢栄一を語る 僕が学んだ「45の教え」』(プレジデント社)
ビビる大木・著『ビビる大木、渋沢栄一を語る 僕が学んだ「45の教え」』(プレジデント社)

幕末好きな僕にとって、幕末の志士たち、あるいは僕が尊敬する吉田松陰先生、ジョン万次郎さんを知ることで幅が出てきたように、渋沢さんに関心を持つことで、「50代、60代、70代になっても、この仕事を続けていくためのヒントをもらえた」と思うようになりました。

ジョン万次郎さんや渋沢栄一さんの生き様を知ることで、歴史には二つのタイプの人間が存在することを痛感しました。それは、幕末の志士たちのように、切った張ったの命のやり取りをしながら歴史を前に進める人間、「刹那に生きる人間」というのでしょうか。

そういう人間と、そうした男臭い、生臭い生き様はありませんが、着実に明日を構築することができる人間、「明日を創造する人間」です。この両者の交差点によって歴史は動いていくと、僕は実感しています。

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ビビる 大木(びびる・おおき)
芸人
1974年9月29日生まれ。埼玉県春日部市出身。1995年、渡辺プロダクションに所属し、コンビ「ビビる」を結成。2002年にコンビ解散、以後ピン芸人としてマルチに活躍中。 現在、テレビ東京「追跡LIVE! SPORTSウォッチャー」、テレビ東京「家、ついて行ってイイですか?」、中京テレビ「前略、大とくさん」でMCを務める。 趣味は幕末史跡めぐり。ジョン万次郎資料館名誉館長、春日部親善大使、埼玉応援団、萩ふるさと大使、高知県観光特使など、さまざまな観光・親善大使を務める。 主な著書に、『覚えておきたい幕末・維新の100人+1』本間康司、ビビる大木著(清水書院)、『知る見るビビる』ビビる大木著(角川マガジンズ)などがある。

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(芸人 ビビる 大木)

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