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「アメリカ超え」を狙う中国を食い止めるため、いま日本がやるべきこと

プレジデントオンライン / 2021年1月7日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nastco

トランプからバイデンに政権交代しても、米中対立の打開は難しそうだ。「新冷戦」は避けられないのか。東洋学園大学の櫻田淳教授は「こうした国際政治情勢を前にして、振り返られるに値するのは、ジョージ・F・ケナン(歴史学者)の思考である」と指摘する――。

■「第2次冷戦」の流れが定着する中で

ドナルド・J・トランプ(米国大統領)の執政4年の歳月が浮かび上がらせたのは、マイケル・R・ペンス(米国副大統領)の「2018年10月、ハドソン研究所演説」やマイケル・R・ポンペオ(米国国務長官)の「2020年7月、ニクソン記念館演説」に象徴されるように、米中両国の確執の様相が鮮烈になった風景である。そして、この米中両国の確執は、日豪加印各国や西欧諸国に拡散することによって、第2次冷戦としての流れを定着させている。

こうした国際政治情勢を前にして、振り返られるに値するのは、ジョージ・F・ケナン(歴史学者)の思考である。ケナンは、第2次世界大戦後、第1次冷戦初期の米国の対ソ連「堰(せ)き止め(containment)」政策の立案を主導した人物として知られているけれども、国務省退官後にはプリンストン大学を拠点にして歴史研究を手掛け、数々の評論を通じて「米国の20世紀」を凝視し続けた。

ケナンを扱った評伝の一つには、「文明は消滅するかもしれないが、良心は消滅しない。ケナンの著作を将来読む読者は、そのとき残っているアメリカにおいて、良心の宝庫になるであろう」という記述がある。「西方世界」、すなわち日米豪加各国や西欧諸国の「自由、民主主義、法の支配、寛容、開放性を旨とする『文明』」が揺らぎ、それとは異質な「文明」の上に成った権威主義的「中国型統治モデル」が擡頭(たいとう)するかに映る現今なればこそ、「米国の良心」と呼ばれたケナンの言葉に触れる意義はある。

■「英知を秘めた相談相手」としての日本

就中(なかんずく)、ケナンは、1970年代後半に著した『危険な雲』(秋山康男訳、朝日イブニングニュース社、1979年)書中、日本の位置について次のような記述を残している。

米国にとって日米関係とは双方が国際問題でそれぞれ思慮深くかつ役に立つよう振る舞う能力を持っているか否かを試す独特な尺度となっている……。もし、これに成功できないようなら、われわれがどこへ行っても事態は思わしく進まないだろう。日本が戦後そうであり続けたように、今後も極東における米国の地歩の要石であり続けねばならないのは、こうした理由によるのだ。要といっても、受動的ではなく能動的に発言する要石であり――しばしば優れた英知を秘めた相談相手となり、われわれが時には導きを、時としては指導性さえを求めて対すべき要石であり続けねばならないのだ。

そして、この記述に示されたケナンの対日期待に反映されたのは、日米両国には戦争という不幸な時代を経たが故に「一種の親密さが生じた」という認識であった。それは、半世紀前、「太平洋という海洋をはさんで相(あい)対峙(たいじ)した二大海軍国が、心から手を握るために、支払わなければならなかった巨大な代償」として戦争の意味を評した永井陽之助(政治学者)の認識と明らかに重なり合っている。

筆者は、1970年代後半にケナンが提示した「受動的でなく能動的に発言する要石」という日本像に、甚大な影響を受けてきた。筆者は、日本が米国に「導き(guidance)」も「指導性(leadership)」も示すという姿勢にこそ、対米関係で大事なものがあると得心したのである。

■日本の対外姿勢における「受動性」の呪縛

しかしながら、日本の実際の対外姿勢は、近年に至るまで、ケナンの期待とは裏腹な「受動性」に彩られてきた。五百旗頭(いおきべ)眞(まこと)(政治学者)が小泉純一郎内閣の業績と評した「対米関係の高次元化」にしても、それは、2001年の「セプテンバー・イレヴン」から2003年のイラク戦争開戦に至る過程で、小泉純一郎(当時、内閣総理大臣)がジョージ・W・ブッシュ(当時、米国大統領)の立場に一貫して明確な支持を与えたという事情に因(よ)る。

五百旗頭が「類例のない政治家」と評した小泉でさえ、「対テロ戦争」に乗り出そうとしたブッシュ政権下の米国を前にして、米国が受け容れる言葉や構想を「導き」や「指導性」として発したわけではない。日本の対外姿勢における「受動性」の呪縛は殊(こと)の外(ほか)、強かったという評価になる。

■「日本属国論」のたぐいが見落としていること

しかも、日本の論壇では、政治的スペクトラムの左右を問わず、こうした日本の対外姿勢における「受動性」が自ら克服すべきものではく、戦争の敗北や占領の歳月を経て米国から押し付けられたものであるという趣旨の言説が、永らく一定の影響力を伴って繰り返し披露されてきた。そうした言説は大凡(おおよそ)、「米国の属国としての日本」という自画像の上で、日本の対外姿勢における「受動性」や「桎梏(しっこく)」から脱するには、先(ま)ず米国の政治上、思想上の影響力を排除しなければならないという論理を展開する。それは、ケナンが言及した戦後日米関係における「一種の親密さ」の意義を全く顧慮していないのである。

レーガン米大統領来日
写真=AP/アフロ
中曽根康弘首相(当時、以下同。右端)が別荘として所有していた日の出山荘に招かれ、茶を楽しむロナルド・レーガン米大統領(左から2人目)=1983年11月11日 - 写真=AP/アフロ

筆者が観る限りは、ケナンの期待に沿って日本が動いたのは実質上、中曽根康弘内閣と安倍晋三内閣の2度であったように思われる。中曾根康弘にせよ安倍晋三(前内閣総理大臣)にせよ、ナショナリスト色の鮮明な政治家として語られたけれども、彼らにおける対米関係上の成功とは、彼らのナショナリズム志向がケナンの言葉にある「能動性」の要請に合致したことに因(よ)る。中曽根や安倍がそれぞれ演出した「ロン・ヤス」関係や「安倍・トランプ」関係は、日本の「能動性」の所産であったのである。

■菅政権に問われること

そして、安倍が対米関係に示した「導き」や「指導性」の具体例こそ、FOIP(自由で開かれたインド・太平洋)構想であり、QUADと通称されるQSD(日米豪印4カ国戦略対話)の枠組みであったという評価になるのであろう。しかも、2015年に安倍が成就させた安全保障法制策定は、そうした対米関係上の「導き」や「指導性」の裏付けとなるものであった。加えて、2016年に安倍がバラク・H・オバマとともに実現した「広島・真珠湾の和解」は、ケナンが指摘した「戦争を経た日米両国の『親密さ』」を確認する契機ともなった。

故に、「安倍政治の継承」を掲げて登場した菅義偉(内閣総理大臣)に問われるのは、対米関係の運営や対外政策全般の展開に際して、「受動的ではなく能動的に発言する要石」という自画像の上で、「導き」や「指導性」を提示する姿勢を続けることができるかということである。現下の第2次冷戦の下、日本は、中国とは地勢的に隣接し歴史的には千数百年を超す交流の時間を持つともに、近代以降は2度も干戈(かんか)を交えたという意味においては、「西方世界」でも唯一の国家である。日本が提示する「導き」や「指導性」の姿勢は、既に対米関係だけではなく広く「西方世界」全体の結束に貢献するものとして位置付けられるであろう。

■ケナンが指摘したアメリカの対中幻想

そして、日本が提示する「導き」や「指導性」の姿勢は、具体的には、「中国に対する距離の取り方」に係る知見や経験に表れる。ケナンが『危険な雲』書中に残した次の記述は、そうした「中国に対する距離の取り方」が特に米国では永らく適切に把握されてこなかった事情を示唆する。

私は、もっと緻密で高度に政治的な関係を中国と持ちたいと夢みている人びとがいることを知っている。彼らの夢は――ふしぎなことに、数十年前と変わらぬ古風な夢だが――中国人が極東問題だけではなく、世界政治でも米国の偉大な友人、パートナーであるとしている。こうした人びとは、米国が遅滞なくこの夢の実現に行動するのを望んでいる。このような見解の根拠を私は理解できない。中国は世界情勢のうえで、地理的にも歴史的にも米国とはまったく異なった立場を占めている。

米中国交樹立の僅(わず)かに数年前の時点でケナンが示した対中認識は、マイケル・R・ポンペオが前に触れた「ニクソン記念館演説」にて、リチャード・M・ニクソン以来の米国歴代政権の対中関与政策を失敗と総括した事情を踏まえるとき、その正しさが今や証明されたと評価できよう。

■日本の対中経験の蓄積を共有せよ

もっとも、「地理上や歴史上、中国が国際情勢の中で占める立場は米国とは異なる」というケナンの認識は、米国に永らく残った対中幻想を一喝(いっかつ)する意義を持ったかもしれないけれども、日本の視点からすれば、それ自体が何の変哲もない自明のものであるという評価になる。

故に、少なくとも明治以降、「中国の異質性」への認識の上で積み重ねてきた日本の知見や経験は、米国を含む「西方世界」諸国の対中認識に際して参照されるべく、多彩に紹介される必要があろう。ケナンが披露した「お互いの相違点はそのままに、多くを求めず」という対中姿勢を裏付ける思考を「西方世界」諸国全体で共有することが今後、大事になっていくのであろう。

■アメリカの「弱さ」と「限界」

ケナンは、『ローマ帝国衰亡史』を著したエドワード・ギボンに擬(なぞら)えて、「われわれの時代のギボン」と称された。確かに、ケナンが「現代の『ローマ帝国』」としての米国の「弱さ」と「限界」に向けた眼差(まなざ)しは、ギボンを髣髴(ほうふつ)させるものがあった。ケナンは、そうした「弱さ」と「限界」に留意すればこそ、米国が軍事を含めて野放図な対外関与に走る事態には警戒を示した。朝鮮戦争時の米国の軍事介入もまた、ケナンの認識では、共産主義の火の粉を日本に及ぼさないための政策対応であったのである。

現下、ポンペオの「ニクソン記念館演説」に示されるように、米国は、中国共産党体制への対決姿勢を露(あら)わにしている。とはいえ、ケナンの思考に倣えば、こうした対決姿勢は、中国共産党体制の「窒息」を狙うものに結び付くべきではないのであろう。米国が手掛けられるのは、日本を含む他の「西方世界」諸国ともに、自由、民主主義、法の支配、寛容、開放性を旨とする「西方世界」の文明上の「美風」を、徹底して護持することに他ならない。

■第2次冷戦下に日本に問われること

これには、権威主義的「中国型統治モデル」が拡がっていく素地を消していくことも、当然のように含まれよう。そして、第2次冷戦下に日本に問われることの本質は、こうしたことを自らの政策対応として能動的に披露できるかということなのであろう。

もっとも、特に2010年代以降、自由、寛容、開放性を含む「西方世界」の価値意識は、移民流入や経済格差拡大に伴う社会緊張を前にして、明らかに逆風に曝(さら)されてきた。現下の新型コロナウイルス・パンデミックは、その逆風を激烈なものにしている。

しかし、それにもかかわらず、日本を含む「西方世界」諸国には、その文明上の「美風」を護(まも)る構えが求められている。ケナンが「良心」だけではなく「堅忍不抜の意志を伴った信念」の人物として語られたことの意味は、誠に示唆的である。

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櫻田 淳(さくらだ・じゅん)
国際政治学者、東洋学園大学教授
1965年生まれ。北海道大学法学部卒、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。衆議院議員政策担当秘書などを経て現職。専門は国際政治学、安全保障。著書に『「常識」としての保守主義』(新潮新書)『漢書に学ぶ「正しい戦争」』(朝日新書)『「弱者救済」の幻影―福祉に構造改革を』(春秋社)など多数。

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(国際政治学者、東洋学園大学教授 櫻田 淳)

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