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野村克也に「監督、捕手、4番打者」という"ひとり3役"を決意させた一言

プレジデントオンライン / 2021年1月13日 9時15分

試合前、レジェンドホークスセレモニーで花束を贈呈された元南海の野村克也氏(左)と門田博光氏=2013年8月31日、福岡ヤフオクドーム(現在の「福岡PayPayドーム」) - 写真=時事通信フォト

人の心を動かす方法がある。2020年2月に亡くなった野球評論家の野村克也氏は「理だけで人は動かない。情にもとづく理、理にもとづく情があってはじめて、チームも人間関係も円滑に機能させることができる」という――。

※本稿は、野村克也・著『野村の結論』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■基本姿勢は「原理原則」

「常に原理原則を見据える」というのが、わたしの監督としての基本理念だ。

原理原則とは、一語で言えば「理」である。ものごとの筋道や法則のことであり、もっとわかりやすく言えば、「あたりまえのこと」と言い換えてもいい。

このことをしっかりわきまえていれば、どんな事態にも冷静に対処できる。事物、事象、仕組み、構造など、世の中に存在するものすべてに理があり、根拠がある。だから理にかなわないことはしないし、どんなときでも理を以ってして戦う。それが、わたしの野球観だ。

野球というスポーツの勝敗の行方を握るのは、7~8割が投手である。投手が相手打線を0点に抑えられれば、100パーセント負けない。逆に、味方打線が10点取っても、100パーセント勝てるとは限らない。だから、理にかなった野球をするなら、投手を中心としたチームづくりをするのが正しいという結論になる。

野球に限らず、どんな仕事でも、ここはどうしたらいいのかと判断に悩んだり、迷ったりすることがあるだろう。迷ったときは、やはり原理原則に照らして判断するのが、もっとも理にかなった方法だと思う。そうしていれば、仮に間違ったとしても、その結果を受け入れることができるのではないだろうか。

奇策を弄して目先を変えるほうがいいと言う人もいるが、それでは根本的な解決にはならない。判断に困ったとき、迷ったときこそ、原理原則に立ち返るべきなのだ。

■「情」がなければ「理」も生きない

わたしが原理原則にこだわるのは、理に情が絡んできたときの判断基準を明確にしておきたいと思うからである。迷ったときには原理原則に立ち返って判断するのが、いちばん理にかなったことだという気がする。

どうしても人間には情が絡む。夏目漱石の『草枕』の冒頭に「情に棹させば流される」との一節があるが、情がここぞというときの判断を狂わせることもあるのだ。

わたしは情よりも理の人間だと思われているようだが、情によってどれほど失敗してきたかわからない。コーチには、情のかけ方が下手だと指摘されたこともある。

マウンドにグローブとボール
写真=iStock.com/Candice Estep
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Candice Estep

たしかに、マウンドに立っている投手を勝たせたくて、交代が手遅れになったことが何度もあった。そんな経験を数多く積んだことで、勝負において情に流されることの怖さを思い知らされたというのもある。だからこそ、原理原則が大事なのであり、そこにこだわる。

かといって、すべて理詰めでいいというものでもない。原理原則の根底には、情がなければならないと思う。組織や人間関係において人を動かすには、情をくすぐったほうがいいのか、理にもとづいたほうがいいのかを問われることがあるが、どちらも必要だと答えるしかない。

理だけで人は動かない。情にもとづく理、理にもとづく情があってはじめて、チームも人間関係も円滑に機能させることができるのだ。

■「叱る」と「褒める」は同じこと

わたしは、「叱る」と「褒める」は結果的に同じことだと思っている。それは、どちらも根っこに愛情があるからだ。

目の前にいる選手に成長してもらいたい、一流になってもらいたいという思いがあるから叱るし、褒める。「叱る」と「褒める」は正反対の行為ではあるが、その裏側にある思いは同じなのである。

気をつけなければならないのは、指導者が自分の立場や感情を優先することだ。

そこに、愛情は一切ない。自己の感情が先行すると、「叱る」は「怒る」になる。「褒める」は「おだてる」になる。本当の愛情は、厳しいだけでも、優しいだけでもないのである。

人を教え導くには、愛情がなければならない。愛情なくして信頼関係は生まれないし、信頼がなければ思いが相手に届くこともなく、組織そのものが成り立つこともない。

誰もが生まれながらに持っている理性や知性を尊重し、努力することの大切さに気づかせ、自分から学ぶようにさせること。それが、わたしの考える教育方針である。技術について一から手取り足取り教えるのは、けっして愛情ではない。

「情」を以って「知」を引き出し、「意」へと導く──。

その流れができてこそ、師弟、あるいは上司と部下、先輩と後輩、教える側と教えられる側の理想的な関係が築かれていくのである。

■人を育てる原点

わたしが選手としてベテランと言われるようになったころである。

キャッチャーマスク越しに、「ストライクさえ投げれば、後はオレがなんとかするからな」と、若い投手たちによく言っていた。これは、捕手というポジションとしての自信の表れであり、「なんとしてでも、この投手を勝たせてあげたい」という親心のようなものでもあった。

こういった捕手の思いは、若い投手には特に伝わる。

自分のエゴや欲から離れた、「本当にこの人間を育てたい、伸ばしたい」という気持ちは、人を育てることの原点だ。素質を見抜き、適性を判断することも大切だが、その前に、この気持ちがなければ人を育てることはできない。

なかなか結果の出ていない投手の大半は、自信を喪失している。しかし、「後はオレがなんとかする」という言葉をかけると、捕手を信用し自信を持ってミット目がけて投げることができる。

こういった信頼関係が生まれると、それが成長するための大きな力に変わる。指導する側とされる側の関係も同じことだろう。

本当にその選手のことを思い、なんとか才能を開花させてやりたいと思いながら指導すれば、選手も指導者を信じて厳しい練習にもついてきてくれるのである。

■最後にものをいうのは「情」である

1969年オフ、わたしは、当時の南海の川勝傳オーナーから選手兼監督を要請された。

監督、捕手、4番打者のひとり3役はさすがに重荷で、「監督を引き受けたら、選手としては終わるだろう」との気持ちが強かった。

まだ35歳という選手としても勝負できる年齢であったことに加えて、前年度最下位に沈んだチーム状況だ。よろこんで監督を引き受ける状況とは言い難かった。

それでも、火中の栗を拾うことにしたのは、川勝オーナーのこの言葉が理由だった。

「君しかいない」

野村克也・著『野村の結論』(プレジデント社)
野村克也・著『野村の結論』(プレジデント社)

わたしは、この言葉に論理的な裏づけがなかったにもかかわらず、ひとりの男としてオーナーの信頼を受け止め、「自分がチームを引っ張っていってやる」と発奮した。まさに、魔法の言葉である。

わたしは、「理を以って戦う」ことを信条にしている。だから、「考える力」「感じる力」を養い、知力を総動員して戦いに挑むことを是とする。その過程において、選手たちの成長する要素が詰まっているとも考えている。

ただし、いくら理論や数値を積み上げたところで、最後にものをいうのは「情」であることも、理解している。

「意気に感じる」ことこそ、人を奮い立たせる最高のエネルギーになることは、勝負の世界に身を置く者なら誰もが理解しておくべきことだ。

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野村 克也(のむら・かつや)
野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、京都府立峰山高校卒業。南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)へテスト生として入団。MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回などの成績を残す。65年には戦後初の三冠王にも輝いた。70年、捕手兼任で監督に就任。73年のパ・リーグ優勝に導く。後にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、西武ライオンズでプレー。80年に現役引退。通算成績は、2901安打、657本塁打、1988打点、打率.277。90~98年、ヤクルトスワローズ監督、4回優勝。99~2001年、阪神タイガース監督。06~09年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。

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(野球評論家 野村 克也)

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