「1日30万円を稼ぐリンゴ売り」妻子6人を行商で養う38歳の元ジャズピアニストの半生
プレジデントオンライン / 2021年1月24日 11時15分
■コンビニの駐車場にて
「今、あの人に声かけてきますね」
そう言うと、片山玲一郎さん(38)は軽やかに歩き出した。片山さんはリンゴの行商を生業にしていて、妻と5人の子どもを養っている。
この日、僕は10時から2時間ほど、片山さんの行商に同行させてもらった。僕から質問や撮影をしながらになるので、片山さんのもとで行商歴9年のマキさんが、サポートについてくれた。
行商とはなにか? 検索してみると、「店を構えず、商品を持って売り歩くこと」(デジタル大辞泉)とある。片山さんの仕事は、まさにそのまま。軽バンに青森県大鰐町(おおわにまち)から仕入れたリンゴとリンゴジュース、リンゴの花から採れたはちみつ、片山さんの妻が手作りしたリンゴジャムとリンゴチップスの計5品を収め、路上や空きスペースに車を止めて、商品を売っている。
当然、疑問が湧いてくる。それってどれだけ稼げるの? 家族7人、ちゃんと暮らせるの?
爽やかな白いシャツにベストを着て、チェックのマフラーを巻き、細身のジーンズにブーツ。身長が高く、スラっとしていて、美容師やカフェの店長のような雰囲気の片山さんが「こんにちは!」と話しかけたのは、コンビニの駐車場で誰かを待っている様子だった、紺色の作業着を着た年配の男性。
いきなりのことに戸惑っているように見えたけど、数十秒後には軽バンのところまで来てリンゴの説明を聞き、その1分後には1キロ550円のリンゴが入った袋を受け取り、戻っていった。
僕は、あまりにスムーズにリンゴが売れる様子に目を疑ったが、これは序章に過ぎなかった。その後の2時間弱で、片山さんとマキさんのコンビは、約2万円の商品を売った。軽バンの助手席でひたすら驚く僕に、片山さんはほほ笑んだ。
「僕は普段、1日10~15万円は売ります。今日は売るぞって決めた時は、30万はいきますよ」
この記事は、行商という昔ながらの商売をしながら大家族でホッコリと暮らす人の紹介ではない。路上でリンゴを売って驚くほどの月収を稼ぎ出す、前代未聞の行商人の物語だ。
■世界的奏者の言葉
片山さんは1982年、徳島県徳島市の「飲み屋街のど真ん中」で生まれた。父親はそこでクラシック音楽を流すバーを経営していて、母親はクラシックのピアニスト。片山さんも幼い頃から店に出入りしていて、「親以外の大人の最初の記憶が、店の酔っぱらい」と笑う。
最初に学校に行かなくなったのは、小学5年生の頃。学校で自分のある行動を教師から注意された時に、なぜダメなのかと問うと、「そういう口答えするのがあかん。ダメなものはダメだ」と言われた。悪いことをしたつもりがなかった片山さんは、その日の夜、父親のバーに来ていたお客さんに、学校であったことを話した。
「ダメだという理由を説明しないのは、きっとその人もなぜダメなのかわからないんだ。その先生は、君が自由にふるまうことを恐れてるんじゃないかな。音楽でも、自由にやられると怖い時がある。だけど、もしかしたらすごくいい演奏になるかもしれないから、練習の時はできるだけ自由にやってもらうようにしている」
通訳を介してそう答えてくれたのは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の世界的に著名なフルート奏者ウォルフガング・シュルツさん(2013年没)。当時、父親のバーはクラシック好きには知られた存在で、海外の楽団も四国公演があるとよく訪れたのだ。
シュルツさんと同じように、夜のバーで出会う大人たちは、片山さんの質問に、自分の言葉で答えてくれた。それが嬉しくて、いろいろな話をするようになった。一方で、学校に行くと教師から煙たがられた。間もなく、不登校になった。修学旅行も、卒業式も出なかった。
■中学1年生で“中退”
中学生になると、気が変わってもう一度学校に通い始めたが、「これ(この勉強)って大人になってから使うんですか?」などなど教師が答えに詰まる質問を連発していると、そのうちに、ほとんどの教師から疎まれるようになった。朝、学校に行くと「今日はテストが近いから、お願いだから帰ってほしい」と頼まれたこともあった。それならと、中学1年生の1学期で学校に行くのをやめた。
小学校の時から、母親には「学校に行かんのなら、自分で仕事を見つけないといかん」と言われていたので、入ったこともない近所の美容院に行き、「すいません、働きたいんです」と頼み込んだ。「いくつなん?」と言われたので、「18です」と答えると、「うそでしょ」と笑われたので、18歳だと言い張った。そこで学校に行っていない事情を話すと、時給500円で雇ってくれた。それから週に数回、美容院に通って仕事を覚えた。
ちょうどその頃、雑誌でナイキのエアマックスシリーズが人気になり、プレミア価格で取引されていることを知った。片山さんは自分で働いて貯めた10万円と、祖母から借りた10万円でエアマックスを何足も仕入れ、一番高値になったと判断したタイミングで地元のいくつかの中学校を回り高値で売りさばいた。祖母にお金を返した後も、30万円以上が手元に残った。
■余命3カ月の少年に起きた奇跡
それからしばらく時が経ち、知り合いの紹介でコンサートスタッフとして働き始めた15歳の時。ある日突然、吐血して病院に運び込まれた。悪性リンパ腫で余命3カ月という診断だったが、片山さんには告げられず、母親は本人に直接告知するように看護師長に頼み込んだ。看護師長は病室に来て、病気の説明をした後に言った。
「あなたの命は、長くて3カ月ぐらいになると思う。目安なんだけど、あと100日ぐらいで死んでしまうと思うから、今を楽しんでね」
あまりに淡々と告げるので、片山少年も、思わず「はい、わかりました」と答えた。突然の死の宣告は悲しむというより、すべて受け入れるしかなかった。以来、看護師がみな優しくなり、父親は息子の悲運を受け入れられず、母親しか見舞いに来なくなった。
告知された後、もうすぐこの世を去る自分に残るものは「名前」しかないと考えた片山さんは、名前の由来や漢字1文字ずつの意味を知りたくなった。誰かが病院に忘れていった『広辞苑』を手に取ったのがきっかけで、看護師から漢字の成り立ちを解説した『新字源』という辞書があると聞き、母親に頼んで手に入れて、「片」「山」など名前の漢字を調べた。
『新字源』を見ているとほかの漢字にも興味がわき、漢字の勉強を始めた。余命3カ月なのに、半年後に開催される漢字検定を受けようと思い立ち、起きている時間のほとんどを漢字の調べものにあてた。その熱量は、余命僅かなことを忘れるほどだったという。
毎日、汗をかくほど漢字の勉強に熱中していたら、しばらくして耳を疑う事態が起きた。がん細胞が突然、消えてなくなったのだ。投薬治療が始まる前だったので、がん細胞がなぜ、どこに消えたのか、医師にも説明ができなかった。
「何十年も医師をやってきて、奇跡の話は聞くけど、目の当たりにしたのは初めてです。とにかく、おめでとうございます」
間もなく退院した片山少年は、自分がなぜ生き残ったのかを考えた。まるで命がなにかのふるいにかけられたような体験の後に出てきた答えは、病気を忘れるほど漢字に没頭したから、まだやりたいこと、伝えたいことがあるから、生かされた。そう実感し、それ以来、自分の本音、心の声と真剣に向き合って生きていこうと決めた。
■楽屋の雑用係に
コンサートスタッフに復帰すると、闘病のことを知っていた職場の人たちが「お前はいつ死ぬかわからんから」と、楽屋付きの雑用係につけてくれた。座布団が欲しいと言われたら走って取りに行く役割だ。本番が始まると、舞台の袖で公演を見ることができるという特権もあった。その仕事で見た光景、聞いた言葉は、今も脳裏に焼き付いている。
20年ほど前の野村萬斎さんの公演の時。狂言師の仕事は、代々受け継がれる。でも、自分が父親の店を継がなくてはならないと言われたら、絶対に嫌だ。萬斎さんがその運命をどう捉えているのかと気になった片山さんは、楽屋の廊下を歩いていた萬斎さんに尋ねた。
「宿命って、あると思いますか?」
萬斎さんは、視線を片山さんに向け、目をクワッと開いて、「御覧の通り!」と一言。片山さんは、その言葉がうわべの意味ではなく、「音」として、真実の響きを持っているように感じた。
柳ジョージさんの公演の際には、2度も公演後の打ち上げに参加することになった。2度とも、柳さんから2つ隣の席だった。柳さんは驚くほど温かく接してくれて、それが不思議だったから、率直に聞いた。
「なんで単なるバイトの僕に、そんなに優しくしてくれるんですか?」
柳さんは、笑いながら言った。
「当たり前じゃないか」
その後になんの説明もなく、その一言だけだったが、片山さんには萬斎さんの時と同じように、それが「音」として、建前ではなく本当のことを言っていると伝わった。
本当の音は、耳ではなく、胸に響く。だから、余計な説明が要らないのだと知った15歳。
■電話1本で音楽学校に入学
その頃、父親の店の客やバイト先の人たちに「なにか表現をしたほうがいいんじゃないか」と勧められて始めたのが、ピアノだった。
母親がクラシックのピアニストで、家にピアノがあったというのも理由のひとつ。楽譜の通りに弾くことには興味を持てず、テーマのなかで自由に演奏し、それが評価されるジャズピアニストに憧れた。
楽譜が読めなかった片山さんは、知り合いのジャズバーに通い、ジャズピアニストの指の動きを目で覚えて、自宅で練習した。飲み屋街のママさんも、教えてくれた。
ある日、そのママさんに言われた。
「神戸に、バークリー音楽大学と提携してる学校があって、学歴不問で入学できるんだって。そこに行ったら?」
「いやいや、お金ないですもん」
「いつもみたいに交渉したら?」
なるほど、と思った片山さんは、すぐにその学校、甲陽音楽学院(現在は甲陽音楽&ダンス専門学校)に電話をした。そこで、自分がどういう暮らしをしているか、今ジャズを教わっていて、もっとジャズについて知りたい、本気でやりたいと訴えた。
すると、どういうわけかとんとん拍子で入学が決まった。それは、片山さん自身が「本当ですか⁉」と半信半疑になる展開だった。この時、片山さんの声が「本当の音=本音」として通じたのだ。
2001年、徳島市を出て、神戸の甲陽音楽学院に入学。18歳の春だった。
■アフロが理由でリンゴ売りに
甲陽音楽学院は、中学、高校を出てから真剣に音楽を学びに来ている学生ばかりだった。2017年に所属するバンドがグラミー賞を取ったパーカッショニスト、小川慶太さんが同級生ということからも、レベルの高さがうかがえる。
小学校の時から学校になじめず、中学1年生で学校に別れを告げて働き始めた片山さんだったが、甲陽音楽学院での生活は充実していた。
「学校に行く目的があって、学校のなかに知りたいこともありましたから。小中学校にはそれがなかったんですよね。それに、なんで? と聞いたら答えてくれる人もいました(笑)」
神戸ではひとり暮らしをしていたから、生活費を稼がなくてはいけない。そこで始めたのが、リンゴ売りの行商だった。当時、帽子もかぶれないような巨大なアフロヘアをしていたため、ほかの仕事は軒並み断られ、唯一受け入れてくれたのが、行商スタイルでリンゴを売るムカイ林檎店だった。たまたま、バイト情報誌に載っていたのを見つけ、「アフロなんですけど大丈夫ですか?」と電話をしたら、「面白いやないか」と歓迎してくれたのだ。
仕事は今と変わらない。車にリンゴと関連商品を積み込み、路上で売る。最初は売り子のアシスタントで、お客さんの呼び込みをした。当時の日給は4000円で、自分が声をかけたお客さんがリンゴを買うと、1回につき100円もらえる。
13歳の頃からいろいろな仕事をしてきた片山さんは、できるか、できないか、ではなく、どうやるかを考えて、試行錯誤した。例えば、「いらっしゃい、いらっしゃい、リンゴ売ってますよ」と大きな声をあげるより、道行く人のなかのひとりに、視線を向け、目が合った時に声をかける。そうすると、立ち止まって話を聞いてくれる人も少なくなかった。
すぐに仕事に慣れた片山さんは、1日に平均で40~50人、多い時には60人を超える人にリンゴを買ってもらえるようになり、アシスタントを卒業して、独り立ちした。
ひとりでリンゴを売る場合の給料は、とてもシンプル。売り上げの4割が、売り子の収入になる。10万円売ったら、4万円もらえる計算だ。片山さんは、自分のなかで目標金額を決め、「できる限り早く売って、帰ってピアノの練習をする」という生活を送るようになった。
■ジャズピアニストとして抱いた違和感
甲陽音楽学院の同級生はみな、在学中からプロのミュージシャンとして活動するようになり、片山さんもジャズピアニストとして少しずつ稼ぐようになった。その時、生活の中心はピアノで、いつ働くかも、どれぐらい働くかも、どう売るかも自由なリンゴの行商で、生活費を補っていた。
しかし、そのうちに「自分はショーとしてピアノを弾くのは向いていないんじゃないか」と感じるようになった。例えば、ジャズバーで仕事をしている時に、お客さんに「これを弾いてよ」とリクエストされても、弾きたくない。お客さんを楽しませるというより、音そのものに対する探求心のほうが強かった。
「コンサートスタッフをやっていた時に感じた、数々の表現者の言葉や音の響きを自分なりに表現しようとしていたら、どんどん現場と合わなくなりました」
決定的だったのは、ある有名クラブで、著名なヴォーカリストと一緒にライブをした時のこと。
その日の自分のできが不満だった片山さんは、ライブ終了後に万雷の拍手を受け、お客さんに「すごくよかったです」とサインを求められた時に、思わず「え、なにがよかったんですか?」と聞き返した。
この時、湧き上がってくる強烈な違和感とともに、こう思った。
「これ、あかんな」
■「本当の音」を求めて
それでも、これだ、という音を弾きたいという想いはあったが、思うようにいかない。「やりたいけど、できない」という悔しさだけが募っていった。その時に、ふと気が付いた。
「僕にはリンゴ売りの方が、ジャズみたいにできる」
リンゴ売りは、路上で道行く人たちと言葉を交わす。その言葉の意味ではなく、「本音」が通じ合う瞬間、距離がグッと縮まり、お客さんは財布を開く。片山さんが「リンゴを買いませんか?」と声をかけたら泣き出す人もいるし、時にはリンゴの売り買いを超えた関係が生まれる。
路上という舞台で始まる、ジャムセッション。お互いをまったく知らない者同士の出会いから生まれる、素の掛け合いだからこそ、片山さんが求める「本当の音」が鳴ることがあるのだ。
例えば、僕が取材に行った日、路上で片山さんからリンゴを買ったジャージ姿の若者が、去り際、気持ちよさそうに空を見上げて呟(つぶや)いた。
「ああ、今日はいい日だな」
たまたまその呟きを聞くことができた僕は、片山さんが言いたいことが少しわかった気がした。誰に言うでもなく、胸の奥からポコッと浮かんできたような彼の言葉は、「本当の音」だろう。
■「自分の真ん中にいこう」
24歳でムカイ林檎店・大阪支店の店長につき、ジャズピアニストと二足のわらじで働いていた片山さんは、25歳の時に「リンゴ売りの方が、ジャズみたいにできる」と気づき、リンゴの行商一本に絞った。
15歳の時に九死に一生を得てから、やると決めたら、本気でやる。片山さんは、大阪支店だけで毎月1000万円、1年間に1億2000万円分のリンゴを売ることを目標に、がむしゃらに働いた。自分の周りやお客さんにも声をかけて仲間を増やし、3年目、ついに1カ月に1000万円を売り上げるようになった。
その時、大阪支店には「カリスマ」として片山さんを持ち上げるようなスタッフも増えていた。ある日、片山さんが外に出ようとすると、頼んでもいないのに靴をそろえたスタッフがいた。「そんなことは望んでない」とはっきり思った。
片山さんにとって、「行商は商売であり、表現」で、ジャズのように自由であることが行商の魅力である。表現を突き詰めて売り上げを伸ばしたことに達成感を覚えながらも、望まない上下関係に居心地の悪さを感じた時に、また、立ち止まった。
「自分の真ん中にいこう」
自分の真ん中とはなにか? ジャズピアニストに戻ること、別の表現の道に進むことも含め、深く潜行するように自問自答を繰り返していると、ある時、素直にこう思えた。
「僕の真ん中は、リンゴ売りだ」
それならリンゴ売りとして、もっと面白く生きたい。大阪の店を譲り渡し、支店がなかった東京に行って、ゼロから始めようと決めた。その時、子どもが3人いたが、なんの不安もなかった。
■ゼロからの東京進出
2011年3月、東京・三鷹支店オープン。大阪から連れてきたひとりのスタッフとふたりで売り上げゼロから始めて、3年間で再び月商1000万円、年商1億2000万円の店に近づけた。
そのタイミングでスタッフに三鷹店を任せ、2016年、また縁もゆかりもなかった世田谷区の千歳船橋に、店を開いた。世田谷支店のレギュラースタッフは13、14人と、大阪時代の半数に満たないが、こちらも今現在、月商1000万円弱までもってきた。
片山さんはムカイ林檎店の社員ではなく、リンゴ販売の委託者。フリーランスのリンゴ売りがいたとして、片山さんはムカイ林檎店と契約し、店を任されているイメージだ。その店の運営やスタッフの管理もあって週に5日はお店に出ているが、「本来なら、1カ月の間に10日働ければ暮らしていける」と語る。
「僕は行商に出るとだいたい1日10万~15万円売り上げるので、10日だと100万~150万円になります。その4割が収入。そこに店長としての給料も入るので、10日しっかり働ければ充分なんです」
片山さんのリンゴの売り方は、豪快だ。
「今日はめっちゃ売るとなったら、お客さんに言います。今日はこれだけ売りたいから、全部買ってくれませんかって。そしたら、『こんなにいらんわ』ってなりますよね。そこで、『ひと箱だけどうですか?』と聞く。すると、『まあいいよ』と言って、ひと箱買ってくれることもあります」
ひと箱には、リンゴが60個入っている。それを通りがかりの人が買って帰るのだ。
町なかにある企業のオフィスに、突撃訪問することもある。呼び鈴を鳴らし、扉を開けてもらったら「すいません、仕事中に。そこで、青森のリンゴ売ってて」と売り込むのだ。そこで、クスっと笑う人がいたらチャンス到来。
「今笑ってくれた人、みんな来てほしいんですけど」
「今、仕事中だから」
「いや、僕も今しかないんです。誰かリンゴが好きな人いませんか?」
「……佐藤さん(仮)、好きなんじゃないの?」
「じゃあ、佐藤さん、ちょっと来て!」
どんな人、どんな言葉にも対応できる、まさにジャズのような柔軟な掛け合いが片山さんの真骨頂で、多い日には30万円も売り上げる。
■「リンゴ売りにニーズはいらない」
どこで売るのかは、その日の気分。「ここの場所はよく売れる」「ここにはリピーターがたくさんいる」というマーケティングデータのようなものは、一切、気にしない。「本当の音」を聞くためには、誰も自分のことを知らない場所がいい。
ビジネスでは「ニーズ」が重視されるが、片山さんは「リンゴ売りにニーズはいらない」という。片山さんの行商を見ていると、「リンゴは好きじゃない」「ちょうど今、家にリンゴがいっぱいある」という人たちが、次々とリンゴを買って帰る。それはもはやリンゴが欲しいわけではなく、今この瞬間に初めて会った片山さんとの掛け合いに、投げ銭しているようにも見える。
こう書くと、不要なものを売りつけているように勘違いしてしまうかもしれないが、リンゴを買ったお客さんたちは、「お隣さんに分けよう」「おいしいリンゴだから、ジャムにしよう」などなど自らリンゴの行き先を口にする。「今日はいい日だな」と呟いた若者のように、最終的には、「いいものを買った」と笑顔で立ち去るのだ。
片山さんは、「リンゴの売り方があるんじゃなくて、今までどういうふうに生きてきたかが問われる」という。
「なにかの壁にぶち当たった時の突破方法ですね。僕はあの時にこうしたとか、それぞれのバックグラウンドがあるじゃないですか。一度、素になって、そこに立ち返ることができると、突然、売れ出すんですよ。逆に、自分に違和感があると、ぜんぜんお客さんを呼べません。店に残るのは、素になれた人だけですね」
今回の取材で片山さんのサポートに入ってくれたマキさんは小柄で物静かな雰囲気で、片山さんとまったく印象が異なる。「私、人見知りなんです」と語る彼女が、1日に平均10万円を売り上げると聞いて、仰天した。1日4万円、10日で40万円を稼ぐ敏腕の売り子なのだ。
■盲目のピアニストとの出会い
世田谷店にはマキさんのような精鋭がそろっており、リンゴの売り上げはもはや盤石(ばんじゃく)。月商1000万円が見えたところで、これまで通りなら、また新たな店を開くところだが、店の展開は3店舗までと決めていた。さて、どうしようかと考えていた矢先の2020年の春、新型コロナウイルスが日本でも猛威を振るい始めた。
コロナ禍で行商しづらくなったため、ムカイ林檎店でもお客さんからの注文を受けるやり方にシフトし始めた。その時に、大きな転機となる出会いがあった。
店の近所に配達に行った時のこと。玄関先でいつものように少し言葉を交わしたら、そのお客さんが語り始めた。あるピアニストのファンクラブを統括する仕事をしていること、コロナでコンサートやレッスンがすべて中止になり、そのピアニストが収入を絶たれて困窮していること。
そのピアニストは、片山さんが何度も演奏を聞きに行ったことがある全盲のピアニスト、梯(かけはし)剛之(たけし)さんだった。片山さんはほぼ無意識のうちに、「CDの在庫ないですか? あれば全部行商で売ってきますよ」と言っていた。
数日後、そのお客さんの紹介で梯さんに会って、コロナ下の苦境にあってもユーモアを失わないタフな人柄に感嘆した片山さんは、5種類のCD、45枚を無償で行商することに。世田谷店の仲間に話をすると、数名が手伝いたいと名乗りを上げてくれた。
当日は、軽バンにCDを載せて出発。CDを試聴できるようにしただけで、あとはいつもと変わらない。道行く人に「CDいりませんか?」と話しかけ、足を止めてくれた人たちに、梯さんの話をした。その日、8時間で38人のお客さんにすべてのCDを売った。後日、売り上げの11万2500円を梯さんに届けたという。
■「花 開くとき 蝶来たり」
この経験が、片山さんに次の道を拓いた。前述したように、リンゴの行商だけなら、本気でやれば月に10日働くだけで生きていける。残りの日に、自分が好きな作家やアーティストの作品を無償で行商しようとひらめいたのだ。
なぜ、無償なのか。すでにリンゴを売って十分に稼いでいるという理由とともに、片山さんが「本物」と認めた人たちの追い風になることで、その人たちに心置きなく新しい作品を生み出してほしい、その作品が見たいという想いがある。それはきっと、コンサートスタッフ時代に、舞台の袖で鳥肌が立つような芝居や演技をただ無心で見たことも影響しているだろう。
さらに、まったく異分野の自分が作品を行商することで、それが巡り巡ってどんなことが起きるのかを観察したいという想いもある。路上でリンゴを売っていると、ドラマか映画のような出来事に、時折、遭遇する。それが、リンゴ以外のものでも起きたら、どうなるのか。
作品を行商する話はすでに動き出しており、間もなく始動する。片山さんは、ジャズピアニストを辞めて、リンゴの行商で生きていくと決めた時の心境を、こう語っていた。
「リンゴ売りってアングラなんで、なにかもっとやりたいなみたいな気持ちもありました。でも、ジャズピアニストを辞めると決めた時に、俺はここ(リンゴ売り)から動かん、ここを掘っていけば、『花 開くとき 蝶来たり』(良寛の詩)のように、花が咲けば必ず蝶は来る、だから自分の花を咲かすことに集中しようと思ったんです。咲かなかったらそれまでやし、もうかまわんって」
19歳の時から19年、リンゴの行商を突き詰めてきたことで、花が咲いた。今、その花をめがけて、蝶が飛んできているように感じる。その蝶は、花粉をどこに運んでいくのだろうか。
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フリーライター
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンター。2002年、新卒で広告代理店に就職するも9カ月で退職し、03年よりフリーライターに。06年、バルセロナに移住し、サッカーのライターをしながらラテンの生活に浸る。10年に帰国後、2誌の編集部を経て再びフリーランスに。現在は稀人ハンターとして複数メディアに寄稿するほか、イベントの企画やコーディネート、ラジオ出演など幅広く活動する。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)がある。
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(フリーライター 川内 イオ)
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