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「芸をして必死にエサをねだるが…」戦時中の動物園で起きた史上最悪の出来事

プレジデントオンライン / 2021年2月3日 9時15分

図版1:兵装に身をつつんだリタとロイド(大阪市天王寺動物園、1985年、32ページ) - 出所=『動物園・その歴史と冒険』

戦時中の1943年、空襲の恐れがあることから、東京都は上野動物園に「1カ月以内に猛獣処分をしろ」と命令した。そのとき動物園史上もっともおぞましい殺害劇が展開された。関西大学文学部の溝井裕一教授が解説する――。

※本稿は、溝井裕一『動物園・その歴史と冒険』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■前線で捕獲したヒョウの名は「八紘」

日本の動物園の戦争へのかかわりかたは、一様ではなかった。動物園が戦争の恩恵を受けたり、プロパガンダに貢献したりしたことは、上野動物園の事例からもわかる。古くは日清戦争(1894~95)のとき、旅順で「分捕った」フタコブラクダ3頭以下、戦利品動物や軍功動物(戦いに貢献したとされる動物)が展示され、入園者の急増をみている。日露戦争やシベリア出兵(1918~22)のさいにも、軍の派遣先から生きものが送られてきた。

その後、日中戦争(1937~45)がはじまり、さらに第2次大戦に参加すると、戦利品動物や軍功動物の数も増えた。とくに有名なのは盧溝橋(ろこうきょう)事件(盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した事件)のさい、弾薬を運ぶのに貢献したというロバの「一文字」と「盧溝橋」である。また、日本軍が進出した中国南部からは、オオトカゲ、チョウコウワニ、テナガザルが宮内庁や海軍省をつうじて届けられている。

日本軍が英領シンガポールを占領すると、南方軍を介してジョホールのスルタンからニルガイ(ウシの仲間)、ヒクイドリ、シマウマなどが贈られた。中支派遣軍第6884部隊の兵士・成岡正久が、前線で捕獲し、かわいがっていたヒョウを寄贈したエピソードも有名だ。このヒョウは「八紘(はっこう)」と名づけられている。さらに日本海軍がコモド島でコモドオオトカゲを捕獲して宮内庁に贈り、これが上野動物園に到着している。そのおかげで、1940~42年のあいだ、入園者は毎年300万人を上まわっている。

ちなみに、コモドオオトカゲと日本軍については奇妙なうわさがあった。捕らえたコモドオオトカゲを、連合軍の前線のうしろに放つ計画があったというのである。一種の生物兵器ということになるが、その計画の真偽は明らかではない。

■チンパンジーに軍装させて戦意高揚

日本の動物園はまた、イベントをつうじて戦意高揚に貢献した。たとえば京都市動物園は、第1次大戦が勃発すると軍艦「摂津」「薩摩」や水雷艇、汽船の模型を池の上で走らせることで、海軍の宣伝に協力している。天王寺動物園では、第2次大戦中チンパンジーの「ロイド」という名は(米英人みたいで)ケシカランとクレームがついて「勝太」(勝った)という微妙な名前にかえられ、リタといっしょに軍装したり、防毒マスクをつけて防空演習に参加したりした(図版1)。もちろん上野動物園も、軍犬の実演や軍用動物慰霊祭などをいとなんでいる(図版2)。

人を背中に乗せ神具の前でひざまずくゾウ
出所=『動物園・その歴史と冒険』
図版2:軍用動物の慰霊祭に参加したワンリー(秋山正美『動物園の昭和史 おじさん、なぜライオンを殺したの 戦火に葬られた動物たち』データハウス、1995年、125ページ) - 出所=『動物園・その歴史と冒険』

■殺処分にもプロパガンダ的な性質があった

そもそも、日本の動物園で実施された動物の殺処分でさえ、プロパガンダ的な性質があった。動物たちの悲劇的な最期をみせつけることで、国民に覚悟を求めるのである。京都市動物園は、「空爆のため、オリの破壊による猛獣類の脱出を恐れた当局が、命令によって彼等を処分させたというのが表向きの理由だが[……]市民が馴れ親しんだ動物を処分することへの鉾(ほこ)先を、敵国にたいする憎しみに置きかえて倍加させ、戦闘意欲、勤労意欲の高揚をはかる意図が背景に隠されていたともされている」と書いている(Itoh 2010,Lutz 1991,恩賜上野動物園 1982、京都市 1984、大阪市天王寺動物園 1985)。

■1943年、1カ月以内の「猛獣処分」が命じられた

溝井裕一『動物園・その歴史と冒険』(中公新書ラクレ)
溝井裕一『動物園・その歴史と冒険』(中公新書ラクレ)

くわしくとりあげるべきは、やはり『かわいそうなぞう』の舞台となった上野動物園の事例だろう。対米英戦争に突入する直前のこと、軍に入った古賀忠道にかわって、園長代理をしていた福田三郎は、東部軍司令部獣医部に要請されて「動物園非常処置要綱」を出した。

これは、万が一東京が空襲にさらされるようになったら、動物をどう処分するかを書いたものだ。クマ、ヒョウ、ライオン、ゾウ、ヘビなど「危険動物」とされた個体は、爆撃の被害が近くにおよんだときにはじめて、毒殺ないし銃殺することとしていた。なお、一部動物を間引きしたり、草食動物を殺してエサにすることなどは、すでにおこなわれていた。

事態が急展開したのは、1943年に、戦争遂行を目的として東京市が東京都となり、大達茂雄が長官になってからである。大達は動物園関係者をよびだして、1カ月以内に「猛獣処分」するよう命令した。しかも、市民に不安を与えるからというので、音の出る銃殺は除外された。

■職員たちは、みるみるやつれていった

そうすると、すみやかに殺すことは不可能で、動物園史上もっともおぞましい殺害劇が展開された。生きものたちは、毒(ヒョウの「八紘」もこの犠牲になった)、槍、包丁、ロープ、ハンマーによって殺されていったのだ。自分たちを信頼しきっている動物に手をかけた職員たちは、みるみるやつれていったという。

古い木板の上に四角い囲みのように置かれた縄
写真=iStock.com/ronstik
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ronstik

ゾウのジョン、ワンリー、トンキーは、毒入りのエサを食べることを拒否するので、結局「絶食」という、これまた悲惨な殺害方法がとられた。なおジョンは、凶暴であったために長官命令のある前から絶食状態に置かれており、最初に死んだ。ワンリーとトンキーも時間の問題であったが、おぼえた芸をして必死にエサをねだり、飼育員も苦しくてつい食べものを与えてしまう。

やがて9月2日に、上野動物園での殺処分が報じられ、大達長官も参列して4日に慰霊祭がおこなわれた。ところが、2頭のゾウは隠された場所でまだ生きていた。生きたまま葬式をあげられてしまったのである。慰霊祭ののち、ワンリーとトンキーはそれぞれ息を引きとった。

■上野動物園内には、死んだ人々の体が積みあげられた

この件が、子どもをはじめ国民にショックを与えたのは明らかであった。動物園に送られてきた手紙には、悲しみを訴える内容のものもあれば、こんな事態をもたらした米英を討つ決意を新たにしたとつづられたものもあった。

動物園の生きものの運命は、人間の運命でもある。やがて1945年3月10日に東京大空襲があり、園内には死んだ人びとの体が積みあげられたという(上野動物園 1982)。

上野での殺処分が皮切りとなって、日本と日本が支配下に置いていた地域(韓国、台湾、満州)でも飼育動物の殺害がはじまった。1939年から40年にかけて、協力を目的とする、19の施設(うち動物園は16。ソウル、台北のものも含まれる)からなる日本動物園水族館協会が結成されたが、政治学者マユミ・イトーによると、これに属していたほとんどすべての動物園において殺処分がおこなわれている。41年に同協会にくわわった満州の新京動植物園も同様だ。

■殺された動物の数は、少なくとも170頭

殺された動物の数は、資料や公式記録からわかるかぎりでは、国内だけで少なくとも170頭。だが、おそらくは200頭を超えている。また意図的に殺されなくても、飢えや寒さで死んだものもいたから――動物を100%近く失ったところもある――戦時中に命を落とした生きものの数はこれをはるかに上まわる。

天王寺動物園のばあい、上野動物園でしたことの再現となった。同園ではすでに栄養失調や石炭不足による寒さでゾウ2頭とキリン1頭を失っていた。そこへ上野での殺処分の報を受けて、大阪市長らが会議を開き、殺処分を決めてしまう。やはり銃は使用せず、毒殺や絞殺がおこなわれた。京都市動物園では、1944年に軍の命令でクマ、ライオン、トラ、ヒョウ14頭が銃殺・絞殺・毒殺で命を落としている。ただしヒョウ1頭とシマハイエナ1頭は、香川の栗林動物園に売られていった。

大きなヒグマ
写真=iStock.com/Denisapro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Denisapro

■殺害命令に抵抗したスタッフたちがいた

殺処分のプロセスは動物園によってさまざまであり、関係者全員がすなおにしたがったわけでもない。たとえば熊本動物園(水前寺動物園、1929年開園)では、軍の命令で1944年1月以降に「危険動物」が殺された(できるだけ苦しめないために電気ショックをもちいている)が、園長をはじめスタッフらは、ニシキヘビやカバ、そしてゾウの「エリー」は「危険動物ではない」といって殺そうとしなかった。

もっともニシキヘビは燃料不足からくる寒さで、カバは栄養失調で死亡。エリーは1945年まで生きのびたものの、動物園の建物を使っていた軍が、彼女を労働に使用したいといってきた。園長が、慣れない人間がゾウを使うのは危ないと答えると、軍はゾウを殺して食肉にすることを決めてしまう。結局、エリーは電流の流れるプールに導きいれられることになったが、異常な空気を感じとって抵抗した。そのため、電気ワイヤつきのジャガイモを口に入れて殺害したという。

スタッフが殺害命令に抵抗した例は、神戸市立諏訪山動物園(1928年開園)にも認められる。同園でも殺処分はおこなわれたが、李王家から贈られたオオヤマネコを隠して飼育を続けたのだ(惜しくも終戦前に死亡した)。

■戦争を生き抜いた、東山動物園のゾウ

また東山動物園の北王英一園長も、動物を殺さないよう最後まで粘っていたが、1944年12月13日の名古屋空襲のさい、内務省の命令を受けた警官と猟友会のメンバーにライオンたちの殺処分を迫られ、とうとう許してしまう。さらにクマがこれに続いた。だが秋山正美の『動物園の昭和史』によると、このあと北王の態度はがらりとかわった。残っていたゾウ「エルド」と「マカニー」の殺害を迫られても、頑として首をタテにふらなかったのである。そして、動物園に駐屯していた陸軍がゾウ舎に積みあげていたマイロ(キビの一種)を盗み、ゾウを養った。マイロをわざわざ盗めるようなかたちで置いたのは、三井高孟(たかおさ)獣医大尉のはからいという。このおかげで、ゾウたちは戦争を生きぬくことができた(Itoh 2010,秋山 1995、京都市 1984、神戸市立王子動物園 2001、大阪市天王寺動物園 1985)。

オリの中に向けて銃をかまえる男たち
出所=『動物園・その歴史と冒険』
図版3:東山動物園で殺処分の訓練をする猟友会メンバー。同園もライオンなどの殺処分はまぬがれなかった(秋山、1995年、246ページ) - 出所=『動物園・その歴史と冒険』

【参考文献】
大阪市天王寺動物園編『大阪市天王寺動物園70年史』大阪書籍、1985年。
秋山正美『動物園の昭和史 おじさん、なぜライオンを殺したの 戦火に葬られた動物たち』データハウス、1995年。
Itoh, Mayumi. Japanese Wartime Zoo Policy: The Silent Victims of World War II.New York: Palgrave Macmillan, 2010.
Lutz, Dick and J. Marie Lutz. Komodo: The Living Dragon. Salem: Dimi Press,1991.
恩賜上野動物園編『上野動物園百年史』第一法規出版、1982年。
京都市、京都市動物園編『京都市動物園80年のあゆみ』上林紙業、1984年。
神戸市立王子動物園編『諏訪子と歩んだ50年―王子動物園開園50周年記念誌』森山印刷、2001年、同資料編、文尚堂、2001年。

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溝井 裕一(みぞい・ゆういち)
関西大学文学部教授
1979年兵庫県生まれ。関西大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はひとと動物の関係史、西洋文化史、ドイツ民間伝承研究。『水族館の文化史――ひと・動物・モノがおりなす魔術的な世界』(2018年)で第40回サントリー学芸賞〈社会・風俗部門〉を受賞。他の著書に『ファウスト伝説――悪魔と魔法の西洋文化史』(09年)、『動物園の文化史――ひとと動物の5000年』(14年)、『グリムと民間伝承――東西民話研究の地平』(編著、13年)、『想起する帝国――ナチス・ドイツ「記憶」の文化史』(共編著、16年)などがある。

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(関西大学文学部教授 溝井 裕一)

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