日本より小さい島国のイギリスが「世界帝国」になれた世界史の新常識
プレジデントオンライン / 2021年2月4日 11時15分
※本稿は、茂木誠『世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■大陸国家とつかず離れずの距離感
ドイツやフランスとともにヨーロッパの主要国でありながら、大陸国家とはつかず離れずの距離を取りつつ、独自の国家戦略を貫いてきた国があります。
それが、大陸から微妙に離れた位置にある島国、イギリスです。
島国であることの利点は、国境を接する国がないため、他国から攻め込まれにくいことです。ヨーロッパ大陸で戦争が絶えなかった時代を通して、他国から攻め込まれたことがほとんどないイギリスでは、独自の民族文化が発展しました。イギリスが世界中に植民地をつくり、「世界の工場」として君臨できたのは、大陸からの脅威に晒(さら)されず、余計なことにエネルギーを使わずに済んだからです。
ヨーロッパの紛争に巻き込まれることなく、大陸国家と適度な距離を保ちながら、いかにうまくつき合っていくのか。ヨーロッパに深入りしない、介入しない、攻め込まない。これが、昔も今もイギリスの最大の関心事なのです。
■アメリカの「モンロー主義」の原型にも
そうした理由から、イギリスは1967年に発足した欧州共同体(EC)の創立メンバーに加わりませんでした。
19世紀のアメリカの外交姿勢は、ヨーロッパ諸国には干渉しない立場の「モンロー主義」を打ち出していましたが、モンロー主義の原型はイギリスにあったのです。日本もイギリス同様、典型的な島国です。イギリスの大陸国家とのつき合い方から日本人が学べることは少なくありません。
■大陸ヨーロッパの分断を図ることが基本戦略
島国イギリスの基本的な国家戦略は、大陸から攻め込まれないために、ヨーロッパ大陸の統一を阻止することでした。特定の国が力を持ち始めると、イギリスはその敵対勢力と手を組んで巨大帝国をたたいてきました。常にヨーロッパの国々をいがみ合わせ、ヨーロッパの分断を図ることがイギリスの戦略だったのです。
16世紀の大航海時代、スペインがアメリカを手に入れて世界最強国家になると、イギリスはスペインに敵対する国々と手を組み、スペインの無敵艦隊を撃滅しました。17世紀に入って、フランスのブルボン王朝(ルイ14世)が勢力を強めると、周辺の国々と同盟を結びフランスと戦いました(スペイン継承戦争)。
19世紀、ナポレオン率いるフランスがヨーロッパ全土を占領すると、フランスを封じ込めるために対仏同盟を組みました。20世紀の2度の世界大戦では、今度はドイツを封じ込めるべく他の欧州諸国と手を組むのです。
これらの戦いにおいて、イギリスはすべて勝利を収めています。しかし、戦勝国になっても、大陸の領土を求めませんでした。あくまでヨーロッパ分断を狙い、出る杭(くい)を打つだけです。大陸に深入りしない姿勢は徹底しています。
そうした背景から、イギリスは欧州統合につながる動きを警戒していました。
■植民地の喪失がもたらした1973年のEC加盟
そのイギリスが、ECに加盟したのは1973年のことです。ヨーロッパに深入りしない主義のイギリスが方針を転換したのは、なぜでしょうか。
背景には、植民地の相次ぐ独立がありました。イギリスは寒冷で土地がやせているため、農業には向きません。国土も日本の約3分の2しかなく、資源にも乏しい。「関東以北しかない日本」、それがイギリスです。そのような国がどうやって発展してきたかといえば、貿易です。世界各地に植民地をつくり、それらの地域との自由貿易によって、ヨーロッパに頼らず生きてきました。
ところが、第2次世界大戦で疲弊したイギリスは、植民地の独立運動に直面しました。オーストラリアやニュージーランドなどの旧植民地とは、イギリス連邦を形成してゆるやかなつながりを保ったものの、経済的な結びつきは次第に弱まっていきます。
1970年代に入ると、オーストラリアの貿易相手国として日本やアメリカが台頭し、イギリスを抜きます。昔のような植民地貿易で稼ぐスタイルが立ち行かなくなったイギリスは、ECに新たな市場を見いだすしかなかったのです。
■ポンド体制は維持したままの加盟
イギリスはもろ手を挙げてEC加盟を歓迎されたわけではありません。「これまで散々好き勝手に振る舞ってきたのに、困ったから助けてくれとはどういうことだ」とフランスのド・ゴール大統領が憤慨して、イギリスの加盟を阻止したのです。
フランスは農業国であり、イギリス連邦諸国からの安い農産物の流入も警戒していました。イギリスが晴れてECに加盟して統一市場を手に入れたのは、ド・ゴール大統領が引退した後の1973年のことです。
![1972年1月22日、ベルギー・ブリュッセルのエグモント宮殿で、ECの共同市場条約に調印するエドワード・ヒース英首相(当時、前列中央)。この翌年、イギリスのECへの加盟が実現した。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/f/670/img_ffcea7661f6d5932714d48f86699ed16604759.jpg)
EC加盟後も、イギリスは独自路線を貫きました。一つには、自国通貨ポンドを手放しませんでした。19世紀、まだアメリカが世界の覇権を握る前に世界の基軸通貨だったポンドを維持し、統一通貨ユーロを導入しないことを加入の条件として認めさせたのです。
イギリスがユーロ導入にメリットを感じなかったことも、ポンドを押し通した理由です。製造業で儲(もう)けたいドイツとは違い、イギリスは金融業で稼ぐ国です。つまり、海外の資源やビジネスに投資して利益を得ているのです。海外へ投資する場合、強い通貨のほうがより多くの資産に投資できるので有利です。安いユーロに参加してもメリットはなく、むしろ強いポンドを維持したほうが好都合です。
■イギリスにとっては「いいとこ取り」
通貨だけではありません。移民の受け入れも拒みました。イギリスは域内の人の往来を自由にするシェンゲン協定を結んでいないため、移民は自由に国境を超えてイギリスに入ることができません。また物理的にも、ドーバー海峡を難民が渡るのは困難です。ただし、これにはイギリス側の事情もありました。過去に旧植民地の国々から大勢の移民がやってきたため、すでに受け入れのキャパを超えていたのです。
こうしてみると、イギリスにとってEC加盟は悪い話ではなかったことがわかります。通貨は手放しません、移民も受け入れません、市場だけ開放してください─―このような“いいとこ取り”が認められたのは、ECにとっても加盟国が増え、市場が広がるのはウエルカムだったからです。
また、当時は移民問題もそれほど深刻ではなく、むしろ人手は不足していて、安価な労働力として移民が必要でした。
■国民が支持した「ゆりかごから墓場まで」路線
第2次世界大戦後のイギリスは、保守党と労働党の二大政党です。日本の政党で言えば、保守党は自民党に相当し、労働党は日本社会党(現・社会民主党)に相当する政党です。東西冷戦の時代を通して、保守党は北大西洋条約機構(NATO)加盟などアメリカとの同盟関係を重視したのに対し、労働党はソヴィエト連邦との関係改善、主要産業の国営化など社会主義政策を推進してきました。
![茂木誠『世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」』(PHP研究所)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/8/200/img_c8e2fbf7c3ec1ab994b606fc930c39b6275245.jpg)
ここからは第2次大戦後のイギリス政治における思想の変遷を見ていきます。
ソ連が東側陣営の盟主として力を持っていた時代は、イギリス労働党にも勢いがありました。1945年に労働党のアトリー政権が誕生すると、社会保障制度や基幹産業の国有化などの社会主義的政策を推し進めていきます。労働党が目指したのは、「大きな政府」による福祉国家の建設です。
労働党政権は、石炭、鉄鋼、電気、ガス、鉄道、運輸、自動車など主要産業を次々と国有化すると同時に、全国民が加入する国民保険を整備して、誰でも無料で医療サービスが受けられるようにしました。「ゆりかごから墓場まで」という言葉を聞いたことがあるでしょう。これは、当時の労働党が掲げた社会福祉政策のスローガンです。「重税を課す代わりに、生まれてから死ぬまでの生活はしっかり保障しますよ」という労働党の政策は、国民に支持されました。
■社会主義路線の結果「英国病」に
ところが、1960年代になると、イギリスの社会主義路線に暗雲が立ち込めます。膨大な社会保障費用が財政を圧迫し、かつ産業の国有化が国際競争力を低下させ、深刻な経済の停滞をもたらしたのです。福祉に慣れた人々は勤労意欲を失い、力を持ち過ぎた労働組合が年中ストライキを起こし、ゴミの回収など生活サービスが提供されない事態が続いていました。これがいわゆる「英国病」と呼ばれるものです。
実は英国病にあえいでいたこの間も、労働党と保守党による政権交代が数年ごとに起きていて、大きな政府で平等を志向する労働党と、小さな政府で自由を求める保守党の間で政策が揺れ動き、どっちつかずの状態が続いていました。
保守党政権がEC加盟に向けて動き出したのも、この頃です。一度はフランスのド・ゴール大統領に加盟を拒否されたものの、自由貿易に活路を見いだしたいヒース政権が再び交渉に臨み、EC加盟を果たしました。
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駿台予備学校・N予備校世界史講師
歴史系YouTuber、著述家。YouTube「もぎせかチャンネル」では時事問題について世界史の観点から発信中。近著に『「米中激突」の地政学』(ワック)ほか、『パンデミックの世界史(仮)』(KADOKAWA)を2020年秋刊行予定。
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(駿台予備学校・N予備校世界史講師 茂木 誠)
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