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「経済か、人命か」コロナの話題が必ず社会を分断させる3つの理由

プレジデントオンライン / 2021年2月2日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/chameleonseye

なぜ新型コロナウイルスの話題には賛否両論が巻き起こるのか。評論家の真鍋厚氏は「『賛否両論』の深層には、3つの対立軸が潜んでいると考えられる」という——。

■マスク着用一つとってみても、いくつもの分断が起こっている

1月16日の大学入学共通テストで「鼻出しマスク」をした受験生の成績が無効になったことが、SNS上で話題を集めました。この受験生はテスト終了後、トイレに約4時間閉じこもり、建造物不退去容疑で逮捕されています。

1月20日には、昨年9月に旅客機内でマスク着用を拒否するなどの騒動を起こした男性が、威力業務妨害などの疑いで逮捕されました。事件から4カ月後のタイミングであったことからさまざまな臆測が飛び交っています。

「ウレタンマスク警察」「不織布マスク警察」といわれる動きも目立ちます。テレビなどでウレタンマスクの感染防止効果が不織布マスクより低いと報じられたことから、自主的にマスクの種類を取り締まる人たちがいるのです。実際、病院や店舗などで「ウレタンマスクお断り」という場所もあるようです。

このように「マスク着用」だけでも、日本社会には深刻な分断が起きています。こうした分断の深層には、以下の3つの対立軸が潜んでいることが推測されます。

・コロナ否認とコロナフォビア(恐怖症)
・経済優先派と人命優先派
・ニューノーマルと反ニューノーマル

順に見ていきましょう。

■さほど致死率が高くないウイルスこそ容易に感染爆発を起こす

まずコロナ否認とコロナフォビア(恐怖症)です。

「コロナはただの風邪」に過ぎず、マスコミと政治が危機をあおっている茶番劇であり、普段通りの生活をすれば良いと考え、マスク着用は不要で、リスクの高い健康弱者への配慮は軽視して構わないと主張する人々と、依然として「コロナは恐ろしい感染症」であるとの認識を持ち、ステイホームを基本としながら、感染症対策に従わない行為全般に強い嫌悪を覚え、感染することへの恐怖から法的規制すら主張する人々の対立です。

そもそも、このように人々を分断に追い込む新たな病原体によるパンデミックの危険性は、2018年にジョンズ・ホプキンス大学の報告書で予見されていました(“The Characteristics of Pandemic Pathogens”)。無症状者や風邪と似た症状が多い特性があり、さほど致死率が高くないものにこそ人々は油断し、容易に感染爆発を起こして健康弱者の死と重症化を招くと警鐘を鳴らしていました。

■多面性があるはずのコロナの一面だけを見ている

ウイルス側の視点から言い換えれば、宿主であるヒトが一枚岩にならずそれぞれの自己の立場を正当化して、社会的な合意が取りづらい状況こそが自らが生き残るための活路となります。そして、このヒトの心理を見透かした“戦略的なデザイン”は功を奏しました。

ウイルス
写真=iStock.com/loops7
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/loops7

恐るべきことにコロナ否認もコロナフォビアも、コロナという多面性があるキマイラ的な存在(キマイラとは、頭はライオン、胴はヤギ、尾はヘビという姿をした架空の怪物)の一面に立脚しており、「着眼点によって現実が変化すること」に鈍感という点で共通しています。否認のエビデンスも、恐怖のエビデンスも事欠かないからです。

つまり、その解釈の固定化――否認または恐怖――によって何かを意識する過程をすっ飛ばして重要なものを切り捨てたり、特定の国や人種や階層などへの無関心が促される懸念があり、世界全体から俯瞰(ふかん)して眺めた場合に、最も回避すべき愚策を後押ししているかもしれないのです。

■国家のでたらめなリスク管理が経済優先派と人命優先派の溝を深める

次に、経済優先派と人命優先派です。

欧米諸国に比べて相対的に少ない日本における死亡者や重症者の割合などを踏まえ、感染症対策をしっかりと実施した上で、医療キャパシティーを拡充しながら経済を回すことを求める人々と、高齢者だけでなく基礎疾患を持つ者のリスクを重視し、国が資金面での各種支援を担保して、強制力のあるロックダウン(外出制限)などを行い、人の流れを止めることを求める人々の対立です。

ただし、ここでは「国家が正常に機能していない」という事実に注意しなければならないでしょう。

現在のように、1回目の緊急事態宣言から半年以上経過しているにもかかわらず、医療キャパシティーを拡充するための取り組みが本格化されておらず、また資金面での各種支援も中途半端のままというどっちつかずの態度を決め込んでいるようでは、経済優先派も人命優先派も「国家の機能不全を織り込み済みで議論」しなければならず、それこそ「コロナ死」VS.「コロナ経済死」のような極論へと矮小(わいしょう)化されてしまいます。

要は、経済優先派と人命優先派の不毛な対立の基底にあるのは、国家がやれることを何もやっていない、失策を認めず改善もしないという悪夢のループなのです。それらの副産物を直視することなく、選択肢が限られたゲームの盤面を前に、双方があら探しに血眼になる批判の応酬に突き進みがちになるのです。

しかも、根幹にあるのは、コロナ否認とコロナフォビアと同じく、それぞれの死生観、価値観の先鋭化ですので、対立が解消される余地はほぼありません。国家のでたらめなリスク管理によって生じた災厄の数々が、経済優先派と人命優先派の対立をより苛烈にする触媒となるのです。

■表面上の装いをイデオロギーと結び付ける傾向が一部で加速

最後がニューノーマルと反ニューノーマルです。

ニューノーマルの生活様式に特に疑問を持たずに適応している、あるいは自分の主義や信条とは別に世間の目や他者への気遣いから迎合する人々と、まったく迎合しない人々との対立です。仮に「コロナはただの風邪」と思っていても周囲に迷惑を掛けないよう、取りあえずニューノーマルに従っている人は多いはずです。

しかし、頑としてニューノーマルを拒否する、さらにはアンチの正しさを力説する人々も少なからずいます。反ニューノーマルは、コロナ否認と重なっている場合が多く、また経済優先派とも親和性があります。一方で、「ウレタンマスク警察」「不織布マスク警察」のようなニューノーマル過激派は、コロナフォビアを多少なりとも含んでおり、人命優先派に近い傾向があります。とはいえ、必ずしも分かりやすく色分けができるものではありません。

しかし、この表面上の装いをイデオロギーと結び付ける傾向が一部で加速しているのも事実です。マスクをしない人=「コロナはただの風邪」と考え、健康弱者への思いやりがなく、適者生存的な立ち位置にいる非常識な人々とのレッテルが貼られ、個々の事情はほとんど考慮されることなく、白眼視されるケースが生じていることがそれを表しています。

■すべてはコロナの初期対応に失敗したツケ

他方、マスクをしている人=政府とメディアが作り出した茶番劇にだまされ、いまだその「コロナは恐ろしい」という洗脳から抜け出せておらず、同調圧力の担い手となっている人々とのレッテルが貼られ、前者と同様、勝手に思想的なものと重ねて、排除したり、揶揄(やゆ)する者が少なからずいるのです。あたかもマスクの有無がどの部族に属しているかを示す装飾具の役割を果たしてしまうわけです。

バカバカしい話に聞こえるかもしれませんが、これまで述べてきた対立軸と複雑に絡み合っていることを考えると、一時の感情では済まない問題を含んでいることが理解できるのではないでしょうか。

まとめます。①コロナのキマイラ的特性による危機意識の分裂化、②国家の機能不全に根差した経済か人命かの二択化、③ニューノーマルの生活様式のイデオロギー化。この3つが目下進行しており、これらが社会を分断させる主な対立軸として機能しているということなのです。

処方箋は、身もふたもないかもしれませんが、コロナの収束にかかっています。つまり、すべてはコロナの初期対応に失敗したツケによって、わたしたちは不安と不満でエゴをむき出しにする人々を日々目撃しているのです。

いずれにしても、わたしたちは今後も、経済学者のジャック・アタリが提唱した健康や文化、住宅、食糧、農業などの命に関わる分野を重視する「命の経済」とはあまりに程遠い、趣味の悪い冗談のような光景と付き合わざるを得ないのです。

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真鍋 厚(まなべ・あつし)
評論家、著述家
1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。

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(評論家、著述家 真鍋 厚)

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