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野村克也「才能がなくても伸びる人」「伸びない人」の決定的違い

プレジデントオンライン / 2021年2月20日 11時15分

5回、3ランの山崎武司(左)を笑顔で迎える楽天の野村克也監督(右)[クリネックススタジアム宮城(現・楽天生命パーク宮城)=2009年10月17日] - 写真=時事通信フォト

名将・野村克也氏の1周忌を迎え、このたび事務所の全面協力により、その名言から厳選したベスト・オブ・ベストともいえる金言集『頭を使え、心を燃やせ』がセブン‐イレブン限定書籍として刊行された。同書より野村監督が私たちに残した「教え」を振り返る──。(第3回/全3回)

*本稿は、野村克也『頭を使え、心を燃やせ 野村克也究極語録』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■「叶わない」のではない、「叶える」のだ

よくぞ私は好きな野球を職業とすることができ、引退後も長らく関わり続けることができたものだ──。

人生を振り返り、素直にそういう思いが湧いてくる。というのは、何度も野球をあきらめざるをえないような状況に陥ったからだ。

子どものころから、将来はプロ野球選手になって貧乏から抜け出したいと考えていた。しかし、高校進学の際には母親から「義務教育を終えたら働きに出てくれ」と嘆願された。兄が大学進学をあきらめ、母親に高校進学を説得してくれたのでなんとか高校には進めたものの、今度はせっかく入った野球部がいきなり廃部になりかけた。「ろくに勉強しない生徒の集まりだ」というのが理由だった。

そこで私は、廃部の急先鋒(せんぽう)だった先生を試合に招き、野球の魅力を知ってもらおうとした。先生と接触の多い生徒会長にも立候補して、野球のすばらしさを懸命に訴えた。その結果、廃部の憂(う)き目は免かれた。

のちに、その先生が入団テストを受けられるよう、南海に紹介状を書いてくれたのだから、縁というのは不思議なものである。

■誰にでも「考える」という才能はある

南海のテストを受けたのは、レギュラーになれる可能性がもっとも高いと踏んだからだった。レギュラーのキャッチャーが30歳代だったのだ。2~3年、私が二軍で力を蓄えたころ、ちょうど引退の時期を迎えるだろうと考えたのである。

野村克也『頭を使え、心を燃やせ 野村克也究極語録』(プレジデント社)
野村克也『頭を使え、心を燃やせ 野村克也究極語録』(プレジデント社)

もう一球団、広島も正捕手が30歳を超えていたが、当時の南海は若手の育成には定評があった。それで南海を選んだのだった。

プロ入り1年目のオフに解雇されかけたが、「南海電車に飛び込みます」と泣いて訴え、クビがつながった。また、はじめてホームラン王になったとたんに打てなくなったときには、データを集め、それを駆使することで乗り越えた。必死だった。

とりたてて野球の才能があったわけではない。私以上の天性をもった選手はほかにいくらでもいた。にもかかわらず、私が半世紀以上も野球の現場にいられたのはなぜか。

徹底的に頭を使い、知恵をふりしぼったからだ。どんな困難があろうと、高い壁にぶちあたろうと、決してあきらめずにその都度徹底的に考え抜き、試行錯誤したからである。

■頭を使え、知恵をしぼれ

あなたにもきっと、好きなこと、やりたいこと、叶えたい夢があるはずだ。それなのに、それができないと嘆いている人もいると思う。

ただ、考えてみて欲しい。できない理由を「上司の理解がないから」とか「経済的に許されないから」などと、周囲や環境のせいにしていないだろうか。あるいは「どうせおれには無理だ」とチャレンジする前からあきらめていないだろうか。

そんな人に私はいいたい。

「ほんとうに自分がやりたいことであるならば、実現に少しでも近づくよう頭を使い、知恵をふりしぼれ。現状を嘆く前に、なにをすればいいのか、徹底的に考えろ」

■「窮して変じ、変じて通ず」

「窮して変じ、変じて通ず」という言葉がある。

川上哲治さんが、師と仰いだ正眼寺の梶浦(かじうら)逸外(いつがい)師にいただいたもので、「真剣にやっていれば、必ず行き詰まる。それでも一心になってやっていると、ひょいと通じるものだ。通じないのは、行き詰まる段階までいく真剣さが足りない」という意味である。

私もそう思う。人間というものは、好きなことなら、夢があるなら、いくらでもがんばることができる。そして、あきらめずにがんばり続ければ、必ず願いは叶う。叶わないのは、思考の量と努力が足りないからなのだ。

これは、私の生涯を通じてたどり着いた真理である。

■人の縁が生んだ「江夏の21球」

「結縁・尊縁・随縁」という言葉がある。中曽根康弘元総理大臣があいさつの際によく口にされていたが、「縁を結び、縁を尊び、縁に従う」という意味である。私も選手たちによくいった。

手前味噌を承知でいえば、私と出会ったことで、人生がずいぶんと変わった選手は少なくないはずだ。たとえば江夏豊。阪神から南海に移籍してきた彼に、私はリリーフ転向を勧めた。彼は最初いやがったが、「野球界に革命を起こせ」という私の一言で転向を決意。その後移籍した広島で、ストッパーとして日本一に大きく貢献した。

私と出会わなければ、「江夏の21球」という伝説は生まれなかったといっても過言ではないだろう。

■人との出会いと学びを「糧」とせよ

私がヤクルトの監督になった年に入ってきた古田敦也もそうだ。彼が球史に名を残すキャッチャーとなることができたのは、私が徹底的に英才教育を施したことが大きいと自負している。阪神で抜擢(ばってき)した矢野燿大(あきひろ)(現・阪神監督)、楽天に入団してきた嶋基宏(現・東京ヤクルトスワローズ)も、私と出会ったことでキャッチャーとして、野球選手として成長した部分は少なくないはずだ。

宮本慎也は、私が彼の守備力と野球頭脳を買い、バッティングには目をつぶって起用したから名球会に名を連ねるまでの選手となったし、侍ジャパンの監督となった稲葉篤紀は、たまたま大学時代に私が目にして、ドラフト指名候補名簿になかったにもかかわらず獲得した選手である。

39歳にして二冠王となった山﨑武司は、本人みずからが「野村監督のおかげで野球観が変わった」といってくれている。あの新庄剛志ですら、自著のなかで「野村監督の言葉で力を引き出すことができた」と述べているそうだ。

だから私に感謝しろとか、恩を返せとかいっているわけではない。彼らが私との出会い、すなわち私と結んだ縁を、尊び、従い、活かしたことが、いまの彼らをつくったといいたいのである。

ボールをバットで打つ野球選手のシルエット
写真=iStock.com/BROKENBAT
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BROKENBAT

■我以外皆師

もちろん、私自身も南海のオーナーだった川勝傳(でん)さん、監督だった鶴岡一人(かずと)さん、縁もゆかりもなかったヤクルトの監督に迎えてくれた相馬和夫社長をはじめ、さまざまな人のお世話になった。直接的あるいは間接的にさまざまな人の恩恵を受けた。それらの出会い、縁を糧(かて)として私がある。だからこそ思う。

「我以外皆師」

『宮本武蔵』で知られる作家・吉川英治氏の言葉である。説明するまでもないだろうが、「自分以外のすべての人は先生である」という意味だ。

実際、めぐりあった人すべてが私の師であった。年下であろうと関係ない。孫のような若い選手の指導を通して、こちらが教えられることは少なくなかった。

また、なかには私と反(そ)りが合わなかった人もいるし、どうしても好きになれない人もいた。けれども、その人はどうして私と合わないのか、なぜ好きになれないのかを考えて、私に非があれば反省し、直そうとしたし、「この人のようにはなりたくない」と、いわゆる反面教師とした人もいた。

どんな人であろうと、教えられるところはあるものなのだ。

だからこそ、縁を結び、縁を尊び、縁に従うことが大切なのであり、出会った人とは虚心坦懐(きょしんたんかい)、教えていただくという謙虚な気持ちで対するべきなのである。

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野村 克也(のむら・かつや)
野球評論家
1935年、京都府生まれ。54年、京都府立峰山高校卒業。南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)へテスト生として入団。MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回などの成績を残す。65年には戦後初の三冠王にも輝いた。70年、捕手兼任で監督に就任。73年のパ・リーグ優勝に導く。後にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、西武ライオンズでプレー。80年に現役引退。通算成績は、2901安打、657本塁打、1988打点、打率.277。90~98年、ヤクルトスワローズ監督、4回優勝。99~2001年、阪神タイガース監督。06~09年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。

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(野球評論家 野村 克也)

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