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「日米通算250セーブ」以上にこだわった意外なモノ…「火の玉ストレート」藤川球児が初めて明かす真実

プレジデントオンライン / 2021年2月13日 9時15分

9回に登板し、力投する阪神の藤川球児投手(甲子園=2020年11月10日) - 写真=時事通信フォト

2020年シーズンを最後に、「火の玉ストレート」を武器にプロ野球界に鮮烈な記憶と記録を残した藤川球児氏が現役を引退。阪神でのクローザーとしての活躍、メジャーでの挫折、そして、心ない声に奮起してのNPBでの復活……。引退した今、仲間たちやファンに初めて明かす「真実」とは──。(第1回/全2回)

*本稿は、藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。

■唯一気にしていたのは「防御率」

「JFK」という継投パターンが確立した2005年以来、リリーバーとして実績を重ねてきた僕は、ありがたいことに、タイトル争いや記録においても、それなりの足跡を残すことができるようになった。

だが、個人記録を気にしたことはほとんどなかった。引退したとき、日米通算250セーブという区切りに届かなかったことを惜しんでくれたファンのみなさんには申し訳なく思うのだが、正直なところ、あまり関心はなかった。

ただ、防御率だけは気になった。

2005年からメジャーリーグに挑戦する前年までの8シーズンで、防御率が2点台だったのは、2010年の2.01だけである。それ以外のシーズンはすべて0点台か1点台で、なかでも自己最高記録となった2008年の0.67という防御率は、われながら価値が高いと思っている。

チームが優勝争いをするなかで、67イニングあまりを投げながら、自責点はわずかに5点である。シーズンを通じて、ほぼ無失点に抑えたという感覚だった。

■中日・大野雄大選手に託した記録

2年連続で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した2006年は、47回3分の2連続無失点と、38試合連続無失点を記録した。前者は阪神の球団記録で、後者は当時の日本記録だった。

藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)
藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)

いずれも、4月半ばから7月半ばまで、ほぼ3カ月間にわたる連続記録だが、その継続中、記録を意識したことはほとんどなかったし、正直なところ、その過程もあまり覚えていない。

僕の意識としては、スコアボードに0以外の数字が記録されたタイミングの問題でしかなかった。数字と数字の間に0がいくつ並ぶかということより、ひとつでも0を増やすことのほうに関心があった。

そうした記録が若い世代の選手たちの刺激になっているのだとすれば、僕は心から喜ばしく感じる。

2020年、中日の大野雄大選手が連続イニング無失点記録を伸ばして、注目された。残念ながら、45回で記録は途切れてしまったが、敵チームながら、僕に特別な関心をもって、背番号も同じ22をつけてくれただけに、大野選手に追い抜かれる日を楽しみにしていた。大野選手なら、いずれ僕の記録を更新してくれると思う。

■功名心や恐怖心が正しい状況判断の邪魔をする

リリーバーには状況を正しく理解し、すばやく判断する能力が求められる。そこに余計な要素が入ると、多くの場合、失敗する。

気をつけなければいけないのは、「自分が、自分が」という要素だ。無意識のうちに入り込みやすく、しかも気がつけば中心にどんと居座っている。

たとえば、先輩投手の最多勝がかかった試合で抑えを任されたとする。「もし、自分が打たれてしまったら……」と考える時点で、すでに自分がその状況における主役になってしまっていることに気づかなければならない。

自分が主人公になると、功名心や恐怖心といった余計なものが、正しい状況判断を阻む。打者との勝負に全神経を集中することができなくなって、望ましい結果につながらないことが多い。

例外があるとすれば、先発投手だけだろう。先発投手は、試合をリードする立場にある。主人公という意識が唯一、許される役割かもしれない。

■僕の記録は自分を捨て続けた履歴

リリーバーとしてマウンドに向かうとき、僕はいつも自分がコマのひとつでしかないと意識していた。

僕は、その場面を抑えるという役割を与えられただけの部品にすぎない。その目的のほかに考えるべきことはないし、考えてはいけない。余計なことを考えると、自分が前に出しゃばってくる。そうなると、自分のもつ弱さや欲に足元をすくわれかねない。

僕が個人記録にあまり関心がないのは、そういう意識でマウンドに上がり続けたからでもあると思う。

記録とは、結果である。一つひとつのプレーから自分という不純物を取り除かなければ、プロの世界で結果を残すことはできない。その積み重ねが記録なのだとしたら、僕の記録は自分を捨て続けた履歴といってもよかった。

■打たれてもいい、負けさえしなければ

長くリリーバーという役割を務めていると、当然、救援に失敗することもある。僕の感覚でいうと、相手と斬り合って、自分が斬られてしまうケースである。

そういうとき、僕はつくづく投手とは因果な商売だと思った。たとえ自分が斬られてしまっても、その後も試合は続くのである。

しかも、もちろん試合放棄などできないし、マウンド上の投手は監督が審判に交代を告げないかぎり、マウンドから降りることは許されない。試合を終わらせたければ、斬られても立ち上がり、再び刀を手に取って斬り合いを挑み、相手を倒さなければならないのである。

僕がマウンドに上がるときは、「斬られさえしなければいい」という感覚だった。「負けなければいい」ということである。

マウンドに転がっている野球ボール
写真=iStock.com/CHUYN
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/CHUYN

■理想とする展開は「無形」

たとえば、2点をリードした9回裏、ツーアウトながら一、二塁に走者がいて、相手打線の3番打者を打席に迎えるとする。

もし、僕が3番打者を苦手にしていて、4番打者であっても抑える自信があれば、あえて四球を与えることに躊躇(ちゅうちょ)はない。

僕がマウンドに上がるときは、いつも満塁の場面まで想定していた。いくら出塁を許しても、ホームベースさえ踏ませなければいい。リリーバーの仕事とは、打たれないように抑えることではなく、負けないことなのである。

意外に思われるかもしれないが、僕はどういう局面においても三者三振に抑えることを理想と考えていたわけではなかった。

僕の野球観に理想とする展開があるとすれば、それはおそらく「無形」である。めざすべきはリスクが少しでも低い展開であって、それはそのときどきの状況によって異なる。必ずしも、三振を奪いにいくことだけが最上の策ではない。

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藤川 球児(ふじかわ・きゅうじ)
元プロ野球選手
1980年7月21日生まれ。高知県高知市出身の元プロ野球選手。高知商業高校から98年ドラフト1位で阪神タイガースに入団。2005年、「JFK」の一角として80試合に登板してリーグ優勝に貢献。06年シーズン途中からクローザーに定着。以降、絶対的守護神として活躍。07年には日本記録となる46セーブをマーク。13年にメジャーリーグ、シカゴ・カブスへ移籍もケガのため、オフにはトミー・ジョン手術を受けた。15年はテキサス・レンジャーズで故障からの復帰を果たすも、5月にメジャー40人枠を外れ自由契約となり、四国IL高知へ。16年に阪神に復帰。17年は52試合に登板し、ベテラン中継ぎとして投手陣を取りまとめる。20年シーズン終了時点におけるセ・リーグシーズン最多セーブ記録保持者(46セーブ)であり、現役最多セーブ記録保持者(243セーブ)として、同年シーズンかぎりで現役を引退。

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(元プロ野球選手 藤川 球児)

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