震災直後の「東京から避難すべきか」という質問に、人気物理学者が沈黙を貫いたワケ
プレジデントオンライン / 2021年2月26日 9時15分
※本稿は、早野龍五『「科学的」は武器になる 世界を生き抜くための思考法』(新潮社)の一部を再編集したものです。
■それは科学者の領域をはるかに超えること
2011年当時、「何を発信するか」と同じくらい大切にしていたのが、「自分が科学者として言えることはどこまでか」「どこから先は科学者がやれることの範囲を超えているのか」という一線でした。
具体的な事例をあげましょう。震災直後、ツイッターで急に増えたフォロワーから、「あなたは今、本当に東京にいますか?」という質問がいくつも寄せられた時期がありました。僕の東大教授というプロフィールを見て、“この人が東京にいる間は、私もまだ東京から避難しなくていいだろう”という判断の助けにしたかったのだろうと思うのですが、僕はそれに対して「イエス」とも「ノー」とも答えませんでした。僕は返事こそしないけれど、東京にいることが分かるようなツイートをしていましたが、当時、ツイッター上のメンションに対しては、個別に返事をするということを一切しなかったのです。
震災直後は、「アメリカ政府は福島第一原発の80キロ圏内にいる自国民へ避難を促した。80キロというと福島市も範囲に入るけれど、原発からどのくらいの距離にいれば、避難しなくてよいのか? 原発から300キロ離れた東京は本当に安全なのか?」という不安がツイッター上にかなりありました。でも僕にできることは、データを見つけてグラフや地図の形で整理し、「いまはこういう状況にある」ということを論評なしにひたすら流すことだけです。それ以外の内容には、一切対応しなかった。それは科学者の領域をはるかに超えることだからです。
■政治に関しては、一線を引くと決めていた
政治に関しても同じで、僕は最初から一線を引くと決めていました。原発の専門家ならば、専門家集団の一員として政府に科学的な立場から助言をするという仕事もあるでしょう。しかし、僕は原子力については、他の多くの物理学者と同じように、普通の人よりは知っていることもあるけれど、専門家ほど深くは知らないというレベルの科学者に過ぎません。
そうであるならば、専門家のごとく政治に関わるということは控えなければならない。仮に政治システムのなかに組み込まれれば、自由にツイッターを更新することもできなくなります。僕の発信を受け取る人たちからすれば、「政府の中に入った人」というバイアスもかかるでしょう。
僕は比較的若い頃から、文化も環境も違うところにあちこちいたので、「この国ではここまではOKだけど、日本ではNGだ」というふうに、環境や時代によって規範が変化するということを身をもって体験してきました。一定の社会的な立場も背負ってきたので、公に向かって発言する際にはどこかで自制が働いています。
それはツイッター上だけでなく、僕と世の中との付き合い方、人との付き合い方全般にも言えることです。「いまの世の中の規範ではどこに境界線があるのか」を考えながら、感覚を研ぎ澄ましておかないと、SNSでも、社会生活においても、ハイリスクになってしまいます。
■困っていることは分かっていても、依頼を断った理由
世間とずれた物差しのままツイッターでうっかり発言してしまう、それも危機の時に発信してしまうというのは、非常に良くない。答えなくていいことや、自分が答えるべきでないことには答えないという一線を守ることも大事です。もうひとつ付け加えると、ツイッターはあくまで世の中の一部であって、世の中全体ではありません。「ツイッターの中ですべてをこなそうとするのは無理だ」という割り切りも必要です。
僕は一物理学者として、政治家や官僚から質問があった際に、答えられる内容ならば答えるけれど、自分からコンタクトはとらないという姿勢を貫いていました。ただ、本当に自分にしかできないこと、やるべきことがあるときだけはやると決めていました。
例えば、東大の総長室から「ツイッターをやるな」という意向が伝えられた前後に、首相官邸の広報チームで国外メディアを担当しているスタッフから電話があり、外国の特派員相手の会見を手伝ってほしいと頼まれました。その依頼を、僕は断っています。彼らが困っていることは分かったんです。
あれだけの大事故が起こっている状況で、事態が分かっていて、専門家でない人に対しても英語で説明ができて、しかもマスコミも相手にできるような人は限られていたのでしょう。でも、人助けのつもりで一度でも手伝って、中に入ってしまったら、自分で生のデータをインプットする時間がとれなくなってしまいます。
■発信を続けられたのは「データ」を見ていたから
僕が発信をし続けられたのは、相当の時間をかけて自分自身でリサーチをしていたからです。「あのデータはどうなっている」「原子炉内の温度はどうなっている」「あそこの放射線量はどうなっている」「プルーム(放射性物質を含んだ気流)はどこを通過したのか」といったデータを、公表されているものは全部、可能な限り自分で見ていた。それから、グラフや地図にまとめたものをツイートする作業に入ります。これは科学者の仕事です。
しかし、もしも官邸に入ってしまったら、自分自身で生のデータを見る時間はとれなくなり、人から上がってくるペーパーをもとに応答するだけになってしまいます。それは科学者の仕事ではありません。
他には、同じ時期に、当時文科副大臣だった鈴木寛さんから、彼の友人である同僚経由で「東大の物理の方々の話を聞きたい、とにかく状況が知りたい」と副大臣室に呼ばれたことがありました。
■気候のシミュレーションは早い段階でできたはず
議論は「ワーストケースの場合、どんなことが想定されるでしょうか」から始まり、僕が「副大臣はSPEEDI(スピーディ:緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム。原発事故によって放出される放射性物質の量や広がりを気象や地形などから予測するシステム)のデータを見ていますか」と聞いたところ、彼は見ていませんでした。
僕は事故後にSPEEDIの存在を知り、その予測を知りたいと思っていたので、なぜデータを見ていないのでしょうか、と重ねて尋ね、もしあるのだったら早く公表したほうがいいのではないかと話をしました。
事故直後は、汚染がどこまで広がるのか、そして現に広がっているのかが分かっていないことが問題でした。SPEEDI以外でも、どこが汚染されているのか、それはいつどれだけ出たと推定されるのか、そこが汚染されているのなら理論的にどこも汚染されている可能性があるのか、ということを推定するための気候のシミュレーションは、早い段階でできたはずだったと思います。
これは気象学の専門家の領域で、その分野の専門家ならば計算できるに違いない、ということまでは科学者として分かるわけです。実際、だいぶ後になりましたが、JAEA(日本原子力研究開発機構)の方々が、最終的にソースターム(原発事故によって放出されるおそれのある放射性物質の種類や量)を推定するということをやりました。
■若いポスドク研究者とツイートでつながり、論文を発表
でも、事故直後はそうしたシミュレーションがまだなかった。そこで、「シミュレーションができないものか」とツイートしたところ、当時アメリカにいた若いポスドクの研究者とつながり、日本で公表されている地面の汚染データから、まだデータがない場所まで含めて「どの範囲でどのくらい汚染された可能性があるか」をシミュレーションしてくれたので、一緒に論文にして発表しました。
僕も共著者になったその論文は、2011年のうちにアメリカの「PNAS」(全米科学アカデミー紀要)という影響力の高い科学誌に掲載されています。この時予測した値は、のちに航空機モニタリングで実際に計測された値と比べると、原発から遠いところほど実測より高くなっていたのですが、この英語の論文を当時、韓国のメディアが読んでいて、韓国では「日本は全国的に汚染されているらしい」と報道されてしまったという後日談もありました。
このことを知ったのはだいぶ後になってからで、2019年に韓国の新聞のインタビューを受けた際に「いまは実測値が出ていて、論文の予測より低かったことが分かっているので、実測データを見てください」と、ようやく情報を正すことができました。ともあれ、まだ全国的な実測データがなかった当時、科学的な手法で計算されたシミュレーションを早い段階で出せたことには、ひとつ意味があったと思っています。
■イギリスの科学者グループが出した「最悪シナリオ」
3月の時点で、これは興味深いと思ったのは、イギリスでした。僕たちが文科省へ行って議論していたのとほぼ同じ時期に、イギリスでは首相が科学者グループに依頼を出し、シミュレーションをさせていたんです。イギリス政府首席科学顧問のジョン・ベディントン卿という教授が当時、科学者の助言グループを統括していたようです。彼らは「東京にいる英国人は避難させる必要はない」という結論を出し、それを当時のキャメロン首相に伝えています。
新聞報道で知ったことですが、彼らの見積もりは完全にワーストシナリオです。それも、僕が当時素人ながらに考えていた想定をはるかに上回るワーストシナリオで計算していました。
「福島の一つの原子炉で放射性物質の大規模な放出が起きた場合に、東京で48時間のうちに浴びる恐れがある放射線の量は2〜3ミリシーベルト程度になると見積もられた。仮に極端に悪い事態を想定し、3つの原子炉と1つの使用済み核燃料プールが壊れ、そこから出た放射性物質が首都圏に向けて風で流れ続けたとしても、15〜30ミリシーベルト程度にとどまると判断した。ほとんどありそうもない事態を想定した過大な見積もりだ」(日経新聞電子版2011年6月7日付)と報じられているように、これは僕が計算してもありえないだろうというほどの想定です。でも、過大なのが悪いかといえば、そうではない。
■危機時のコミュニケーションで大切なこと
その上で、「最悪の事態を想定しても避難は必要ない」と言っている。これは、危機時のコミュニケーションとしてはとても大切だと思いました。こういうことは、あとで交流を持つことになった科学技術コミュニケーション論の学者たちの専門領域なのですが、僕が素朴に思ったことは、「みんな危機の時には、ざっくりとでもいいので最悪想定を知りたがる」ということです。
その際に大事なのは、数字だけが一人歩きしないように、計算の方法とシミュレーションの内容を大まかに公表して、厳密でなくても「15〜30ミリシーベルト」みたいな形で幅を持たせながら、公開していくということです。
日本の場合は、情報公開も、最悪想定に基づくコミュニケーションも遅れてしまったために、さきほど紹介した地図の事例のように、たくさんの一般の人たちが自分で測ったデータが集まることによって、ある種の科学コミュニケーションが進んでいったという側面があったと思います。
■「たくさんの一般の人」が放射線量を測った意味
もうひとつ、印象的なエピソードがあります。
ある時、「車に線量計を積んで東京から国道6号線を走ると、柏を通った時に数値が高くなるんですよね」ということを言い出した人たちがいました。実際に測ってみると、やっぱり千葉県柏市は線量が高い。いわゆる「ホットスポット」(局地的に放射線量が高い地域)です。柏ではその後、民間グループが中心になって、地元の農産物の生産者や消費者が、小売業者も巻き込んで納得いくまで議論をして、どの場所でなら作物を育てていいか、どのくらいまでの放射性物質を含んだ食品なら出荷・流通して食べられるかなど、みんなで「安心」して生活するためのルールを自分たちで作る動きが生まれていきました。
これは、政府の公式なデータには載らなかった事実が、あちこちでいろんな人が測ったことによって見つかった例です。そのうちに航空機モニタリングが広い地域のデータを取るようになり、汚染の全貌を摑むにはそのデータが相当優秀だということが分かったため、個人で線量を測ることは徐々に役割を終えていきますが、初期の段階でたくさんの一般の人が測っていたことは、このように少なくない意味を持っていたと思います。
■ツイッター以上に、現場が大切
当初は、みんなが自分の家の周りの側溝や雨どいなどを一生懸命測っていました。それで「ここがこんなに汚染されている」「うちにはなんで除染が来ないんだ?」「政府の発表はやっぱり間違っている」「うちは避難すべきでしょうか」などの、ものすごくたくさんの声があった。その疑問から、コミュニケーションは生まれていきました。
僕がツイッター以上に大切だと思っているのは、現場です。柏の人々も、インターネットではなく現場でコミュニケーションを図ることで、うまく解決までの道筋をつけていきました。僕も一般市民向けの「ガイガーカウンターミーティング」に駆り出されて、「あっ、あの人の持ってきた機械で測ると高いけど、この人の使っている機械だと低く出ますね。こっちの人が買った機械はちょうど中間くらいだけど、どの機械も極端に高いとか低いということはないですね」と、実際に参加者と一緒に、それぞれの測定器を使って解説をしていきました。
そういうことをやっているうちに、だんだん詳細な汚染地図のようなものができてきて、首都圏では「外部被ばくを理由に避難しなければいけないかどうか」という話題も少しずつ収まっていきます。みんなちょっとずつ納得して、日常生活に戻る人が増えていきました。
僕はもうさすがに、これで自分の役割は終わったと思っていました。
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物理学者
1952年生まれ。東京大学名誉教授、スズキ・メソード会長、株式会社ほぼ日サイエンスフェロー。東京大学理学部物理学科、同大学院理学系研究科修了(理学博士・物理学)。スイスにある世界最大の物理学実験施設CERN(欧州合同原子核研究機関)を拠点に「反物質」の研究を行い、1998年井上学術賞、2008年仁科記念賞、2009年中日文化賞を受賞。2011年3月以降、福島第一原子力発電所事故に関してTwitterから現状分析と情報発信を行い、福島の放射線調査に大きな役割を果たした。
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(物理学者 早野 龍五)
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