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「息子はトイレに"とうさんしね"と書いた」暴力夫と離婚して自己破産した40代女性の半生

プレジデントオンライン / 2021年2月19日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coehm

池脇あやのさん(40代・仮名)は、生活保護を受けながら二人の子どもを育てるシングルマザーだ。元夫の暴力に耐えかねて離婚したが、その後一度だけ体の関係になり妊娠、同じ相手と再婚した。それでもうまくいかず、再び離婚したという。ノンフィクション作家の西牟田靖氏がその半生を聞いた――。

※本稿は、西牟田靖『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■持病を抱えながら女手一つで2人の子どもを育てる

「不安神経症にパニック障害、うつにぜんそく、加えてバセドー病。いろいろ併発してて、朝昼晩と毎日すごい量の薬飲んでる。でも飲まへんと生活できひん。元気なときはトラックの運転手やってたんやけどな」

池脇あやのさんは3度目の離婚の後、住み始めた2DK風呂付きの木造平屋のダイニングでそう話した。

昭和の匂いが濃厚に残る大阪府K市。高度成長期に建てられた木造モルタル2階建ての住宅が迷路のように密集している。生活保護率が全国平均の約3倍。庶民的で、そして人情深い。そんなK市で生まれ育ち、結婚し、子を産み、育ててきた池脇さん。生活保護を受けながら、彼女はどうやって二人の子どもを育ててきたのか。

■23歳で結婚したが、子どもができず…

――結婚する前の生活を教えてください。

中学校を卒業した後、ビデオの組み立てラインの仕事をやってた。その工場では自分が一番若いから、みんなに気を遣わなあかんし、どんどん忙しい部署に回されるしで、精神的にしんどくなってしまった。しまいにはベルトコンベアが揺れて見えだした。さらには神経がいかれて電車にも乗れんようになった。自律神経失調症っていうのになったんや。

うち、O(伝説のシンガーソングライター)のファンやねんけど、音楽の機材運ぶトラックってあるやろ。「そのうち、あれを運転してみたい」って思ってな、トラックの運転手になったんや。20歳ぐらいのころやな。体の調子悪いから親には心配されたけど、結果オーライ。運転の仕事をする分には人付き合いはせんでええから、精神的な負担が少なくて、自分に向いてたんやわ。

最初は2トン車に乗って、コンビニの制服とかのリネンを運んでた。その後は先輩からいただいたデコトラで、鮮魚を市場へ運ぶようになった。電飾ギラギラの紫色のあんどんがついてる4トン車で、ビュンビュン走り回ってたんや。トラック野郎みたいやろ? いやあ、あのころ、ほんま楽しかったわ。

――結婚したのはいつですか?

23歳のとき。相手は2歳年下の同僚の運転手で、Aという人。AもOのファンやし、結婚中はずっと仲が良かった。でもな、子どもが出来へんかったんやわ。妊娠せえへんかったんやわ。

うちが30歳のころ、Aは「ちょっと実家に行ってくるわ」って言って、淀川の反対側にある実家に行って、そのままこっちに帰ってけえへんかった。今考えたら、たぶん女ができたんやと思うわ。

■再婚して妊娠したが、会社の借金が発覚

――お子さんができたのは、次の結婚ですか?

そう。離婚して1年ぐらいしてから、居酒屋でよく顔を見かけてたBと再婚した。二つ年下のとび職。うち、子ども産むのあきらめてたんやけど、Bと同棲し始めて2~3カ月で妊娠したんやわ。

Bの父親がとび専門の会社の社長で社員寮とか持ってて、経済的に問題なさそうやった。ところがその会社、借金だらけやってん。額にすると300万円ぐらい。そんなこと妊娠してからわかってもなあ。遅すぎやで。

借金の理由? 仕事を安く請け負って、その分が回収できんかったのか、Bがパチンコやスロットにハマりすぎたのか、理由ははっきりわからん。そやけど結局は借金への心配よりも、妊娠したことのほうがうれしかったしな、なんとかなるやろうって思って腹をくくって、結婚してん。と同時にローンで3階建ての家買(こ)うて、その後に息子を産んだんやわ。

――出産後の暮らしはどうでしたか?

息子を保育園へ送り迎えしながら、生命保険の外交員として働いてた。夕方、仕事を終えると買い物をして、夕食の支度をして。そんなんで毎日ヘトヘトや。それでもBがねぎらってくれたらやる気が出るんやけど、実際は逆やった。

たとえば、うちが仕事で帰宅が遅れて夕食の準備ができなかったとするやん。そんなんでBが帰ってきたときなんか、気持ちが顔に出るねん。途端にムスッとして、「なんでご飯できてへんのや!」って威圧感のある声で、毎回言われたで。

■息子の夜泣きに「黙らせろ」と吐き捨てた

――Bさんは、家事や子育てには協力的ではなかった?

全然。おむつ替えとかミルク、お風呂に寝かし付けとか、子育てはほとんどうちがやってた。関わらへんというBの方針は徹底してて。うちが40度の熱出したときも完全にノータッチ。「明日の午前中、病院行く間だけでも、この子見てて」って必死に言うたんやけど「仕事あるから無理」って。木で鼻をくくったような感じで片付けられた。そういうの、ほかにもあって、夜泣きしたときなんか、「やかましいんじゃボケ。明日朝から仕事やねんから黙らせろ」って吐き捨てて、布団にもぐり込むんやで。

――「黙らせろ」とか、すごいこと言いますね。

そやろ。毎日、そんなふうに言われたら、ホンマ心も体もおかしくなるで。そのうち、体が条件反射を起こすようになった。夕方、Bが帰ってきただけで、気分がドヨンと落ちたり、過呼吸とか、脈がいきなり140くらいまで速くなって目まいがしたり。あとは、冷や汗がばっと出たりもしたな。加えてバセドー病っていう目が飛び出たりする病気にもなったしな。

――そんな中で育てられたお子さんは、大丈夫だったんですか?

Bの叱り方が変やったわ。Bは“おいた”をした3歳の息子を正座させて、やったらあかん理由も言わんで「なんでしたんや。なんでしたんや。なんでしたんや」って、ずっと言い続けたり、息子を持ち上げて「わかってんのか!」みたいな感じで揺さぶったり。それ見て、この人ちょっと違うかもって思った。

■命に関わる出来事が立て続けに起こり、「この人とはもう無理」と確信

――三面記事になりそうな、虐待につながりかねない話ですね。経済的には、どうだったんですか?

ずっと、きつかった。息子が保育園の年長さんになるくらいのときか。どうにも生活が回らないようになってしもうた。それこそ一番ひどいときは、米以外の食費を月1万円で回さなあかんぐらいお金がなくて。なんとか食べていくのがやっとこさで、自分の病院も行かれへんかった。

*池脇さんへの心理的な圧迫、長男への間違った“しつけ”、そして困窮。それでも彼女はやりくりのため通院を我慢。その結果、バセドー病が悪化してしまった。

池脇さんは次第に離婚を考え始めるようになる。命に関わるような出来事が立て続けに起こり、「この人、違うかも」という思いが、「この人とは、もう無理」という確信に変わっていったのだ。

――警察や救急のお世話になったりしなかったんですか?

夜中に息子が自分で勝手に冷蔵庫を開け、約100錠もの薬を飲んでしもうた。息子用のアレルギーやアトピーの薬。夜中、うちがウトウトしてたら息子に起こされて。そしたら息子、「お母さんゲポしてん、○くんゲポしてん」って言うんや。うちはそれで慌てて、「大変や! 病院連れていかな」って思って、必死にBを叩き起こしたんです。でもBは眠そうな顔で「水飲ましとけ」って、ひと言言うだけ。「この子がどないかなったら、どないすんの⁉」ってうちが抗議したら、「それぐらいで死なへんやろ。ワシ仕事あるんや。寝るで」とか言うんやで。うち、さすがにカチンときてな、「そしたらうちが連れて行くわ」って言うて、うちが一人で夜間救急に連れて行きました。

■夫からの「殺害予告」で離婚を決意

――別れようと決意したのは?

電化製品を投げつけられたときやね。

――……どういうことですか?

うち、心の病の影響もあって、全然寝られへんねん。3階の寝室から2階のリビングに下りてきて、Oのライブ映像とか韓流ドラマのDVDを観ながら寝るようになったんや。そのことにBが不満を持ってたみたいで、あるとき階段下りてきて暴れたんやわ。不満が爆発したんやろうな。

――暴れたって、どんなふうにですか?

ちょうど、韓流ドラマのDVDを観ながらウトウトしてるときやった。Bが2階のリビングに下りてきたんや。「こんなビデオずっと観てるから、寝られへんのとちゃうんか⁉」って怒鳴りながら、テレビとDVDプレイヤーのコード引っこ抜いて、バンバンどついたり、蹴ったりした後、部屋の端っこのカウンターキッチンの陰にいた息子に向かって、テレビやらDVDプレイヤーやらを投げつけたんです。隠れてたから、息子には何もけがはなかったけど、これにはさすがにうちもぶち切れて言ったった。「物に当たるんやったら、うち殴れ!」って。するとBは「おまえらに手出すときは、殺すときや!」って言いよったんやで。

*機器が長男に当たっていたら、大けがをしていたかもしれない。しかも、“殺害予告”までされたのだ。この一件で、池脇さんの気持ちは完全に離れてしまった。とはいえ、すぐに離婚することはできなかった。

「出て行くお金はないし、あてもない。実家は実家で父親が怖い人やから、帰ったらうちがしんどい。それで実家にも戻れず、家庭内別居してたんやわ」

彼女がいったいどのくらい家庭内別居していたのか分からない。ただ一つ言えるのはどこに行っても八方塞がりで、行くところがなくじっと暴力を耐えるしかなかったということだ。

■自己破産と離婚成立

――その後、どうやって関係を清算したのですか?

結婚して以来住んでた3階建ての自宅の売却に、めどがついたから。住宅ローンが滞ってきてたんやけど、それで競売にかけられて、なんとか買い手がついたんや。不動産屋が買ってくれてんけど、お願いして、引っ越し資金だけは残るようにしてもらった。

――それで、晴れて離婚が成立したんですか?

うち、Bの父親の会社の連帯保証人になっててな、会社の負債を折半する形で、自己破産してしまったんやわ。病気がたくさんあって働けへんし、それでも息子は守らなあかんやろ? それで地元の市議とか市役所の福祉課に相談しに行ったりして、障害者手帳をもらって。最後は、生活保護を受けることになった。

――Bさんは離婚することに対して、どんな態度を示していたんですか?

最後の最後まで、関係清算に難色を示してました。「なんでおれが一人でおらなあかんねん」って文句言って。でも、うちはうちで「もう精神的にも身体的にも一緒は無理やから。とりあえず離れさして」って言って、家と引っ越しの日取りを決めて引っ越しました。協議離婚です。特に取り決めとかはしてません。

*離婚したのは、長男が保育園の年長のときだった。「殺す」と言われてから1年がたっていた。

離婚届と印鑑
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

■離婚した夫との間に二人目の子を妊娠

離婚して夫との関係が終わり、池脇さんがまったく新しい人生を歩むのかというと、そうはならなかった。その後、思いもよらない因果な成り行きをみせることになる。

――離婚後は、どんな生活をしていましたか?

離婚してすぐ、初期の子宮頸(けい)がんがわかってん。そのうちがんに変わる細胞があるってことで、レーザーで焼いたりして治療した。そのとき思ったのは、うちがおらんようになったら、この子どうするねんやろうってこと。

――息子さんとは、どんなことを話してたんですか? 父親であるBさんと面会はしていた?

「父さんのところに行きたい」って言うねん。だから、月に1回ぐらいのペースで会わせてた。養育費はもらってへん。自己破産させられるぐらいやからな、Bはそれどころやないって感じやったやろ。誕生日とかクリスマスのときは何か贈ってもらってたけど、それだけやな。それでたまにBに会うと、ちょっと改心してる感じ。新しく相手見つけるにしても、うちの心の病気のこととか、息子のアトピーとか、最初から説明せなあかんやろ? でも、Bはその必要がない。だから楽やな、って思ったりするようになった。

――面会をするうちに、池脇さんやBさん、息子さんの関係が変化してきた?

そうやねん。3年ぐらい月イチで面会してたら、Bの息子への接し方が変わってきた。優しくなったというか。そんなふうに見えた。うちはうちで、息子のことをいつまで面倒見られるか不安やったしな。そんなんで、「やっぱり、このまま一人っていうのはなあ」って思ったりしてるときに、たまたまそういう関係になってしまって。肉体関係にな。変な話、その1回で妊娠してしまいました。40過ぎて。

■「賭け」だと思って再婚を決意したが…

――それは……。なんというか、運命的というか。

Bに「どないしよう」って相談したら、「産んでくれ」って即答。うちかて一人では不安やから、「じゃあ、もう1回やり直してみる?」って言いました。Bは離婚したがってなかったんで、当然、賛成。そんなんで、Bと再婚することにしたんです。これはもう、一種の賭けやな。今度こそ、Bと一緒にやり直せるかどうかの。うちは生活保護を切って、もう1回、籍を入れたんです。とにかく、それでやり直した。

――Bさんは、改心してくれましたか?

いやいや。変な癖がついてた。うちと別れた後、一人の寂しさを埋めるためにインターネットゲームにはまっててん。いわゆる『モンハン』(モンスターハンター)っていうやつ。それにドハマリしてて。ご飯食べる・寝る以外、家のど真ん中で、ずっとモンハンやってんねん。息子が話しかけても、「やかましい。今忙しいんじゃ」って言って、ずっとやってました。仕事ちゃうから、忙しいもクソもあるかって感じなんやけどね。

■息子がトイレの壁に小さく書いた「とうさんしね」の文字

――ゲーム中毒ですか。かなわないですね。

そのうち、Bは1週間以上、とびの仕事がないのもざらとか、めっちゃ暇になって。生まれてきた娘のミルク代やおむつ代に困るようになったんやわ。かといって、うちは体の調子とか子育てとかで働かれへんからな。「ほかにバイトしてくれへんか」って、お願いしたんや。そしたら「おれは職長やから、電話かかってきたときに、すぐに仕事に出れるようにしとかな話にならん。だから、おれはほかのバイトはでけへん」って返事されたんやわ。

――言い訳めいてますね。

ミルク代も払えるか払えへんかギリギリの状態になったとき、息子がトイレの壁に書いた、文字を見つけたんです。すごい小さい字で「とうさんしね」って。それ見てうちは「この人と一緒におったらあかん、もう無理」って思って、決断を迫ることにしました。

――“決断”というのは、離婚かバイト?

そうです。「このままやと生活できひん。バイトしてくれる? また別れるか? どっち選ぶん?」って迫りました。Bが「わかった。じゃあバイトするわ」って言ってくれるかなと思って言うてん。でも言われたんは、「出て行く」っていう言葉やったわ。それから1カ月ぐらいで出て行きよった。そのとき息子は小学生、娘は1歳前やった。離婚してなかったら、もっと我慢せんとあかんかった。だから別れるっていう選択しかなかったんやわ。

■今も月1回は会っているが、養育費はもらっていない

――その後のBさんとの関係は?

養育費は今もくれてへんし、2度目、二人連れて別れるとき、そもそも期待してへん。それでもBとは、今も月1回は会ってる。子どもらに会いたいってことで。うちに対しては、「子どもらに気持ちが残ってるし、復縁したい」って言ってくれるんやけど、うちはそんな気一切ない。だって、2回目の離婚のときに、家を出て行く方を選んだやろっていう話やん。3回目は、さすがにないで。

――お子さんたちに対して思ってることは、何かありますか?

西牟田靖『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)
西牟田靖『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)

普段、父親なしで育ててるから、そのことは二人に悪かったなって思ってる。ある程度の年齢になったら、自分で考えて、会いたいかどうか選べるやん。だから、会うかどうかは任せる。会いたくなかったら、会わなくてええんちゃうかな。

今はなんとか福祉のお世話になりながら暮らしてるけど、ゆくゆくは、また仕事したい。仕事する姿を子どもらに見せたい。いつまでも福祉に頼るっていうのも、気が引けるしな。

――これまでのことを振り返って、今の生活をどう思いますか? 池脇さんにとって、お子さんたちはどんな存在ですか?

二人の子どもがいてなかったら、病気でもっと自分が崩れてたかもな。この子らが成人するまでは、なんとか元気でおらなあかんやろ。子どもらがおるから、頑張らなあかんって思うしな。結局は、子どもらがおるからこそ、今が一番、幸せやわ。

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西牟田 靖(にしむた・やすし)
ノンフィクション作家・フリーライター
1970年、大阪府生まれ。神戸学院大学法学部卒。離婚を経験し、わが子と離れて暮らす当事者となって以来、子どもに会えない親、DVや虚偽DVなど、家族をテーマにした記事を雑誌やウェブメディアに執筆。著書に『 僕の見た「大日本帝国」』、『誰も国境を知らない』『本で床は抜けるのか』など多数。18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)を2017年に出版。

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(ノンフィクション作家・フリーライター 西牟田 靖)

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