「見えない。そんだけ。」全盲の息子を育てる広告マンがこのコピーにたどり着くまで
プレジデントオンライン / 2021年3月3日 9時15分
※本稿は、澤田智洋『マイノリティデザイン 弱さを生かせる社会をつくろう』(ライツ社)の一部を再編集したものです。
■生後3カ月の息子の目に異変が
それは、まったく想定していなかったことでした。
2013年1月、僕ら夫婦に第一子が誕生しました。元気な男の子です。でも、3カ月ほど経った頃、彼の目が充血してきました。妻は「念のためお医者さんに診てもらおう」と、近くの眼科へ息子を連れていきました。
すると、眼科の先生は深刻そうな顔で、こう告げたと言うんです。
「異常があるんですが、ここでは手に負えません。改めて大きな病院で診てもらってください」。その日、仕事を中断して、家に飛んで帰りました。息子の様子はいつもと変わりません。でも、風景は一変してしまいました。
恐るおそる「目 充血」「目 障害」と検索してみると、今まで自分がまったく知らなかった目の病気の世界が広がっていました。眼球摘出をするような事例も出てきて、ショッキングな検索結果に頭がクラクラしました。昨日まで、ごく普通の生活だったのに、これからいったい息子はどうなるんだろう? 翌日、都内でもっとも大きい小児病院へ連れていくと、病名が明らかになりました。
■終わった、と思った
息子の左目は「網膜異形成」、右目は「網膜ひだ」という先天性の障害。緑内障と白内障も併発していました。つまり、息子の目は見えないことがわかったんです。
緑内障と白内障が進行すると、めまいや吐き気といった症状が出る可能性があるため、手術をすることになりました。生後半年にも満たない体で5月に一度、7月にもう一度。
命に別状はないものの、目が見えるようになることはないであろうという現実を、受け入れざるを得ませんでした。
終わった、と思いました。
その日から、仕事が手につかなくなりました。
当時、担当していたのは僕が得意とする「ちょっと笑える」仕事。ユーモアを考えるのが大好きだったし、得意だったから、僕はそんな、(誤解を恐れずに言えば)くだらないことばかり考えて、それを仕事にしていたわけです。でも……まったくギャグが思いつかない。全然コピーが書けない。企画が浮かばない。
たとえばチョコのCM。チョコが大好きな千代子(ちよこ)という女の子が主人公で。チョコを食べすぎて学校に遅れてしまい「千代子、レイト(遅れる)」とダジャレで誤魔化してその場をしのいで……いやダメだ、全然おもしろくない。
頭の中はすべて絶望に占められ、僕はもはやそれまでと同じように仕事をすることができなくなりました。
■意識していなかった「障害者」を考えるように
そこから、希望探しの旅が始まりました。
息子の病気が判明して、これまでまったく意識していなかった「障害者」という存在に、ピントが合ってきました。
そういえば、知り合いの日本人家族にも知的障害のお兄ちゃんがいたなとか。今まで自分のことで精一杯だったから、そういった人に目を向ける余裕がなかった。小4のときに塾のテキストで、「耳の聞こえない女の子が雪が本当に『しんしん』と音を立てると思っている」という物語を読んだときに、「豊かな世界だなあ」と子どもながらに感じた記憶とか。
会社と家を行き帰りしながら、車イスに乗った人や白杖(はくじょう)を突いて歩く人に目が向くようになりました。けれども僕自身、彼らと直接話したことはありません。幸せなんだろうか。見えない子ってどうやって育てたらいいんだろう。なにを仕事にするんだろうか。
わらにもすがるように、妻とともに息子のケアをしながら、たくさん本を読みました。
■仕事は? 夢は? 200人に会いに行く
「障害者 幸せ」「障害者 福祉」「視覚障害 育て方」「視覚障害 仕事」なんて思いついた言葉を片っ端から検索して、30冊ほどかき集めて、読み漁りました。すると、情報が古かったり具体的ではなかったり、「これって今ならスマホでできるじゃん」みたいなこともたくさん書いてありました。もう、家で悩んでいてもしょうがない。そこで、「障害当事者に会いにいってみよう」と思い立ったんです。
まずは知人にひとり、軽度の精神障害のある方がいたので、その人に時間をとってもらうことにしました。
「どんなふうに育ったんですか?」「どうして今の仕事を始めたんですか?」「夢はなんですか?」──。そんなことを単刀直入に聞きました。そしてみっちり1時間、話を聞いた後、こう尋ねました。「ほかに素敵な方、いませんか?」。
障害当事者に会って、話を聞いて、その場で連絡をとってもらって、また次の人に会いに行って。障害のある当事者だけではなく、その家族、雇用している経営者。
合わせて、3カ月でおよそ200人に会いにいきました。
■ペリエを飲もうとしたらポン酢だった
僕は、どんどん未知の世界にのめり込んでいきました。意外だったのが、会う人会う人から「おもしろい」エピソードが出てくるんです。
たとえば、ある視覚障害者の話。「パリ市民みたいに、テラスでペリエ(炭酸水)でも飲もうかと思って、カッコつけて飲んでいたんです。でも味に違和感があって。そしたら妻が一言『なんでポン酢飲んでるの?』って」。ボトルの形状が似ていたんですね。
はたまた、義足をつけている方の話。
「自転車に乗っていたら、車とぶつかりそうになって転んだんです。幸いケガはなかったんだけど、義足がポーンと外れちゃって。そうしたら車の運転手さんが『ぎゃー! 足が取れた!』って驚いて。『や、大丈夫っすよ』ってその場で足をキュッとつけるとまた『ぎゃー!』」。
とにかく、これまでまったく聞いたことのなかった話がどんどん飛び出してきます。
そして、「おもしろい」だけではありませんでした。彼らの暮らしや生き方そのものが、発見に満ちている。困難の乗り越え方、自分との付き合い方、人生の捉え方、幸せや豊かさの定義。それぞれの考え方が、本当に勉強になりました。
どうしてこれまで関わってこなかったんだろう? 悔しさすら込み上げてきたほど、目の前には「新大陸」が無限に広がっていました。
からっぽになっていた僕は、ゴクゴクと水を飲み干すように、新しい発見や驚きで満たされていきました。それはまさに、「アンラーン(Unlearn)」学びなおしの機会だったのかもしれません。
■障害から生まれる逆転劇もある
アンラーンを続ける日々の中で迷子になっていたその先に、光を照らしてくれる話を聞きました。「片手で使えるライター」と「曲がるストロー」は、「障害のある人と共に発明された」という話です。
どれも諸説はあるようなんですが、ライターは「マッチで火をおこすには両手が必要だから、片腕の人でも火をおこせるようにしよう」というアイデアから、今の形になった。曲がるストローは、「寝たきりの人が手を使わずに、自力で飲み物を飲めるようにするため」に。最近ではiPhoneやセブン銀行のATMもそうだった、という話も知りました。
息子に障害があると知ったとき、絶望的な気持ちになりました。それは、「障害がある=かわいそう」という擦りこみが、僕の中にあったからです。けれども、「待てよ」と、心の中でつぶやきました。「片腕しかない。マッチの火を起こせない。絶体絶命だ。でも、気づいたら仲間が現れて、ライターという超発明が生まれた。なんて鮮やかな逆転劇なんだ!!!」って。
この話を知って、一気に視界がひらけました。
できないことは無理に克服しなくていい。社会のほうを変えればいい。
自分の仕事に活路を見出した気がしました。障害当事者を含めた、いわゆる「マイノリティ」の方が持つ課題や価値に、もしかしたら自分の「広告的なやり方」で光を当てられるかもしれない、と。
■大会ポスターに刻んだコピーは…
その矢先に、日本ブラインドサッカー協会(アイマスクを装着して行う「視覚障害者サッカー」)の松崎英吾さんとの出会いがありました。プロボノ(ボランティア)として、広報やマーケティングを手伝ってもらえないか、と依頼されたのです。2014年。ちょうどその年の11月に、4年に一度のブラインドサッカー世界選手権、初の日本開催が決まっていたからです。
そして、僕はひとつのコピーを書きました。
「見えない。そんだけ。」
いつも広告を考えるときのように、普段どおりの構えで提案したコピーでした。なのに、反応がいつもとまったく違った。
「このコピーやばい!」「超カッコいい!」……なんだかもう、こっちが照れてしまうくらいの褒められようです。これまでいくつも広告コピーを考えてきましたが、これほど感謝されたことはありませんでした。
コピーの入ったポスターが公開されると、著名な方たちにもどんどんシェアされました。世界選手権は見事、開幕戦が完売。パラスポーツとしては異例の動員となりました。
これは、日本ブラインドサッカー協会が長年積み上げてきた実績が効いた結果です。でも、僕のコピーも、ほんのちょっとその一助にはなった。
松崎さんはこの成果について、ウェブメディアでこう答えていました。
「開幕戦のチケットが完売したのは2~3日前とギリギリ。お客さんが全然入らない悪夢にうなされたり、集客のプレッシャーに随分苦しめられました。けれども、障害者スポーツでも、有料でも、これだけ人が集まるんだということを証明したかった。これほど多くの人たちが訪れる場と雰囲気を実現できたことは、僕たちにとっても、とても大きな成果だったと感じています」
なにより、この仕事を通じて、松崎さんに喜んでもらえたのが本当にうれしかったんです。
■息子を哀れむのではなく、必要としてくれた
だれかに息子のことを話すと、たいていの人にこんな反応をされました。
「聞いてはいけないことを聞いてしまった」とハッとしたり、気まずそうな顔をしたり、場合によっては泣いてしまう人もいたり。
けれども松崎さんだけは、ニヤリと笑った。「未来のブラインドサッカー選手候補が見つかった」って。息子を哀れむのではなく、必要としてくれる人がいる。そう実感した、初めての出来事でした。
心からこの人の力になりたいと思いました。クライアントとしてではなく、ひとりの人として。この人のために自分の持てる力を発揮したいと思えたんです。
業界の外へ一歩出てみると、これまでなに気なくやってきたことが価値あるものとして受け入れてもらえた。知らなかった。広告をつくる力ってどこまで社会に貢献できるんだろう? わからなくなりかけていたのに、こんなに喜んでもらえるんだ、と。
それまで動かしてきた経済規模とはもちろん何桁も違うし、ほんの小さな循環だけど、確かな手応えがあった。
ブラインドサッカーとの関わりをきっかけに、僕はもう一度、コピーライターという職業の可能性を信じることができました。
■「あれ? 広告の仕事とまったく一緒じゃないか」
それ以降、障害当事者のみなさんとの対話は、回を重ねるごとに時間が足りなくなってきました。というのも、僕が話を聞くだけでは終わらずに、相手から「ちょっといいですか?」「実はこんなことに困っていて」と相談されるようになったからです。
「それっておもしろいですよ!」「もっとこうしたらどうですか?」……僕はデジャヴに陥りました。「あれ? これって、広告の仕事とまったく一緒じゃないか」
クライアントから相談が来て、アイデアを練って、提案して、具現化するためにいろんな人の力を借りる。広告と同じです。
けれども、自分が持つスキルを、アイデアを、大切な人のために使った「やりがい」が、全然違った。
言ってしまえば、これまでの仕事は「もともと強いものをより強くする」仕事でした。たとえるなら、「レアル・マドリード(銀河系軍団)をコンサルしている」みたいな。
でも、クリエイターの仕事って、本当はもっともっともっともっともっともっと活躍領域が広いのではないでしょうか。
■100を101にするより、1を50にするおもしろさ
コピーライターとして、CMプランナーとして、さまざまな企業のお手伝いをしてきました。そのほとんどがいわゆる大企業です。
お金をたくさん使えるところは、やはり強い。2000年代前半、スペインのサッカーチーム「レアル・マドリード」は、莫大な資金力で銀河系軍団と呼ばれるほどの選手を集めて、UEFAチャンピオンズリーグを制しました。大企業の広告宣伝を手伝うことは、いわばそんな強豪チームをさらにバキバキに強くするようなもの。
それは極端に言うと、「100を101にする」みたいな仕事でした。
けれどもマイノリティの世界へ目を向ければ、まだまだ世の中に知られていないことが山ほどありました。
1とか5の状態のものがむき出しのままたくさん転がっていて、だれかの目に留まることを、息をひそめて待っている。クリエイターがそこに光を当てれば、50か70くらいには持っていけるかもしれない。
そして、そんなまだ見ぬマイノリティは、きっと福祉以外にも、この世界にたくさん隠れている。
■人生のコンセプトを考えてみた
こうして僕は、自分の働き方を再定義することにしました。
「見えない。そんだけ。」も、実は息子のために書いたコピーでもあります。息子のこれからの人生を考えたとき、「見えない。そんだけ。」と言い切りたかった。目が見えなくても、他者と豊かにコミュニケーションする視覚障害者の一面を、多くの人に知ってもらいたかった。息子を、息子の人生を高らかに肯定したいという強い気持ちがあった。だからこそ、結果的に多くの人に届いたのかもしれません。
同じように、今、さまざまな理由で「障害」とされているものの中から価値を見出したい。いや、それだけではなく、すべての人の中にある「弱さ」「苦手」「できないこと」といったマイノリティ性から社会を良くすることができたなら。「思いもよらなかったいい未来」が待っているんじゃないか。
「マイノリティデザイン」──マイノリティを起点に、世界をより良い場所にする。それを、自分の人生のコンセプトにしてみようと決めたのです。
そして、息子の障害と多くの友人たちの障害、という運命の課題との出会いを通じて、いよいよ僕は決めました。「『広告』をつくるのをやめよう」と。
■自分の力を注ぐ場所を「間違えていた」だけだった
気づかせてもらったことがあります。
仕事にむなしさを感じてしまっていたのは、自分に無力感を覚えていたのは、もしかしたら自分の力を注ぐ場所を間違えていたからなのかもしれない、と。
僕の頭の片隅には、ずっと「あきらめ」という言葉がありました。
「広告はいったい何をしてきたんだろう?」「父親がCMをつくったところで、視覚障害のある息子は見れないじゃん」。でも、福祉の世界に自分の考えた言葉やアイデアがジワジワと染みこんでいくのを見て、思いました。
「まだまだできることってあったんだ」。
そもそもコピーライターというのは、どんな対象であっても、新発見あるいは再発見をし、それをあの手この手で言葉にして、ひとりでも多くの人に伝えるのが仕事です。さまざまな角度から物事を捉えて、いちばん輝くところに光を当てる。そんなことばかりを最高な日も最低な日も、20代からずっと繰り返してきました。
地道な日々の積み重ねが、まだまだ未開拓の福祉の世界で生きると知った。
息子が生まれて、すべてがリセットされてしまった気がしていました。でも、それは間違いでした。広告会社で培ったスキルや経験は、しっかりとセーブされたままだったんです。くすぶっていた日々にも、ちゃんと意味はあったのでした。
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コピーライター、世界ゆるスポーツ協会代表理事
1981年生まれ。言葉とスポーツと福祉が専門。幼少期をパリ、シカゴ、ロンドンで過ごした後、17歳で帰国。2004年、広告代理店入社。アミューズメントメディア総合学院、映画「ダークナイト・ライジング」、高知県などのコピーを手掛ける。2015年にだれもが楽しめる新しいスポーツを開発する「世界ゆるスポーツ協会」を設立。これまで80以上の新しいスポーツを開発し、10万人以上が体験。また、一般社団法人障害攻略課理事として、ひとりを起点に服を開発する「041 FASHION」、ボディシェアリングロボット「NIN_NIN」など、福祉領域におけるビジネスを推進。著書に『ガチガチの世界をゆるめる』(百万年書房)、『マイノリティデザイン』(ライツ社)がある。
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(コピーライター、世界ゆるスポーツ協会代表理事 澤田 智洋)
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