「日本のマンガ文化を守れ」死ぬまで原画を集め続けた81歳マンガ家の遺志
プレジデントオンライン / 2021年3月1日 11時15分
■マンガ家・矢口高雄が憂いた「原画」の行く末
私の手元には『釣りキチ三平』生みの親で、昨年11月にすい臓がんにより81歳で死去したマンガ家の矢口高雄氏から送られた絵ハガキが何枚かある。
矢口氏はスマホもパソコンも使わないアナログ人間で、イラストを印刷した何種類かの絵ハガキにメッセージを書いてよく送ってくれた。最後のメッセージは、「三平くん」が渓流で魚を釣り上げるイラストの余白にギッシリ書き込まれていた。
私は全国紙の秋田支局長として2016年に当地に赴任、秋田出身の矢口氏に関心を持ち、評伝の取材を重ねていた。メッセージは「無事に刊行できますことを、首を長くして待っています」と締めくくられていた。
図らずも作業は遅れ評伝『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』(世界文化社)の刊行は逝去直後の昨年12月となってしまう。生前に間に合わなかったことは悔やんでも悔やみきれない。今ごろ天国で、苦笑しながら本書を読んでくれているだろうか。
■ゴルゴ13、YAWARA!、釣りキチ三平……原画を所蔵する美術館
矢口氏が本書で最も伝えたかったのは、晩年に力を入れていた郷里の横手市増田まんが美術館(秋田県)における、マンガの原画保存をめぐる活動だったと私は思う。
もとは矢口氏が故郷の旧増田町に働きかけて1995年に設立された美術館で、その後の大規模改装により2019年5月にリニューアルオープンした。
原画保存とその利活用を担う国内唯一の美術館となり、2020年には文化庁が相談窓口に指定。同年末までに矢口氏の全作品4万2千点のほか、約180人のマンガ家の約40万点の原画を収蔵した。
万単位を預けた「大規模収蔵作家」にはさいとう・たかを氏(『ゴルゴ13』)、浦沢直樹氏(『YAWARA!』『20世紀少年』)、東村アキコ氏(『海月姫』)、能條純一氏(『月下の棋士』)、小島剛夕氏(『子連れ狼』)、風刺マンガのやくみつる氏、秋田県出身の倉田よしみ氏(『味いちもんめ』)、高橋よしひろ氏(『銀牙―流れ星銀―』)など10人が名を連ねている。
矢口氏は秋田県出身の倉田氏、高橋氏、そしてきくち正太氏(『おせん』)とともに私費を投じてまんが美術館の運営財団を設立し、企画運営を指揮していた。原画保存は、紙が酸化しないよう、中性紙で厳重にくるむ現物保存と、専用機器によるデジタルデータへの取り込みとの2本立てで文化庁の支援を得ている。館内でその様子や、原画の実物を見ることができる。
原画は最大70万点の収蔵が可能で、湿度と温度を保った、銀行の金庫のようなアーカイブルームがある。「売店では三平くんのシャツやグッズが凄く売れているらしい」と生前の矢口氏は顔をほころばせていた。
■きっかけは愛娘の死
原画は、いまはデジタルによる作画が増えているが、矢口氏を始めとするベテラン作家はアシスタントを使い手作業で描いてきた。ヒット作があるほど量は膨大だ。
収蔵場所がなくて扱いに困り、捨てたりファンに安く譲ったりというケースが散見されていた。次第に「クールジャパン」としてマンガの文化的地位が上がるにつれ、オークションでマニアに高値で取引されるケースが出てくる。
2018年5月には手塚治虫の『鉄腕アトム』の原画が、パリで約27万ユーロ(約3500万円)で落札された。取引対象となれば、相続税が課せられる可能性もある。青年誌に長期連載を持つマンガ家は「量が多いので万が一、相続税がかかったら天文学的な数字になり、家族に迷惑がかかる」と嘆く。美術館などに寄贈すれば課税対象から外れるため、まんが美術館への寄贈を「真剣に検討中」という。
矢口氏が原画保存に取り組んだきっかけは、長女の由美さんの死だった。著作権と原画の管理を委ねようしていた由美さんが2012年、長い闘病の末に死去、相次いで自分に病気も見つかって気力と体力を失い、筆を折ってしまう。アトリエをたたみ、東京・自由が丘の自宅で隠遁生活を送るうち、原画の将来を、江戸時代のマンガで、海外に散逸した浮世絵の運命と重ね合わせるようになる。
「僕が死んだら、原画を引き継いでくれる親族がいない。苦労してマンガ家になり、心血を注いだ原画が散逸しかねない状況にある。信頼できる施設に預けられれば安心だ。増田まんが美術館にはその拠点になってもらいたい」
2015年に『釣りキチ三平』など自身の原画、約4万2千点を増田まんが美術館に寄贈。美術館では文化庁の支援を得て現物とデジタルと両面での保存活動を始めた。並行して美術館のリニューアルを企画し、他のマンガ家に寄贈を働きかけていく。
増田まんが美術館に自分の名前を冠さなかったのは、他のマンガ家の作品も収蔵する本格的な美術館にしたかったから。「僕の名前をつけちゃったら、僕が死んだら誰も来てくれなくなるから」と笑っていたが、本当の理由は違うところにあった。
■東村アキコをすし屋で口説く
原画収蔵の「手足」として動いたのは、横手市職員だった大石卓・現増田まんが美術館館長だ。矢口氏にとっては秘書かつ実の息子のような存在で、この10年ほどは矢口氏の紹介で東京のマンガ界に足場を築き、各方面に食い込んで原画を譲り受けてきた。
「僕は先生の『終活』のお手伝いをしているようなもの」と話していた大石氏は昨年11月、矢口氏の様態が急変した際にたまたま東京に出張中で、病院で最期を看取り、密葬の手伝い、全てが済んでからの報道発表などを取り仕切ってもいる。
東村アキコ氏が原画を預けることを決めたのは、大石氏の仲介だった。東村氏は『東京タラレバ娘』など、等身大の女性の本音を描いた作品が、たびたびテレビドラマや映画になっている人気マンガ家。自然の風景を描く際には常に『釣りキチ三平』を側に置いて参考にしてきた矢口ファンでもあった。矢口氏の自宅近くのすし屋に呼ばれ、寄贈を説得される。
「矢口先生は私にとって『歴史上の人物』で、ぜひお会いしたかった。自分の原画は自宅の押し入れに突っ込んだままだったので、先生に『美術館で預かってやる』といわれて『お願いします』と言ったら後日、大石さんがトラックで、うちまでやって来て運んでいきました。これでうちが火事になっても大丈夫」
矢口氏が生前、悔やんでいたのは『ルパン三世』で知られるモンキー・パンチ氏の原画の寄贈を一括して受けられなかったことだ。
パンチ氏は双葉社(東京)の名編集者、清水文人氏に見いだされ、1967年創刊の週刊漫画アクションでの連載で人気に火が付いた。矢口氏もその後、清水氏に見出され、同誌で『釣りバカたち』という、『釣りキチ三平』の前哨戦となる作品を1970年代初頭に連載している。
まんが美術館にはパンチ氏の原画の一部が収蔵されているが、矢口氏はまとめて預かる「大規模収蔵作家」としてパンチ氏を考えていたようだ。2019年4月にパンチ氏が亡くなった際には「まとめて預けてもらうよう頼んでおくんだった」と悔やんでいた。
■都会人になりきれなかった反骨精神
矢口氏がまんが美術館設立や原画保存に取り組んだのには、貧しい農家の長男に生まれ、苦労してマンガ家になり成功した人生が密接にかかわっている。1939年、奥羽山脈の麓にある横手市増田町狙半内で生まれ、子どもの頃から釣りに興じ、手塚治虫に憧れてマンガ家を志す。
成績優秀で、アルバイトをしながら高校に進学し、地方銀行に就職し妻子も得る。だがマンガ家の夢断ちがたく30歳で脱サラして上京。「遅咲きのマンガ家」として、自分の生きる道を農村を描くことに定め、週刊少年マガジンに連載した『釣りキチ三平』(1973~83年)が大ヒットする。
『マタギ』(1975)『おらが村』(1973)など人と自然のつながりを描き続けた作品群は近年、復刻され版を重ねるなど再評価も進んでいた。いずれも現代につながる普遍性とメッセージ性を持つことが魅力であろう。
素顔の矢口氏は、成功したマンガ家として尊敬を集めながら、どこか都会人になり切れない部分があった。東京の高級住宅街に50年近くも住みながら、都会や裕福な人々に対する複雑な思いを抱いていた。時として世の中を憂い、反骨精神を持ち、正義感あるリベラルな性分が損をしているのではないかと嘆く。その一つが「なぜ紫綬褒章をもらえないのか」だった。
ちばてつや氏、竹宮恵子氏、水島新司氏、弘兼憲史氏など多くのマンガ家が受章している中、矢口氏が入っていない方がおかしいのでは、と思わせる。「かつてリベラル系の媒体に連載をしたからではないか」と本気で悩んでいた。受章できなかった理由は定かではないが、自治体などから候補者としての推薦が出ていなかったことが一因のようだ。
出身の横手市は、居住先の東京都世田谷区が対応していると考えていたようで「大変申し訳なかった」と関係者は話していた。
■「国立メディア芸術総合センター」構想の復活を
私は矢口氏の取材を断続的に5年に渡り行った。東京の自宅に通い、時には秋田を訪れた矢口氏を追い、晩年に体調を崩してからは電話など、取材は延べ30回に渡る。ほとんどが2時間超の長丁場で、しつこい取材にも関わらず、矢口氏はいつも嫌な顔をせず応対してくれた。時には秋田直送のネマガリタケなど郷土料理をご馳走になりながら。
没後、遺族から聞いたのは、私が亡くなった長女の由美さんと同い年であり、何らかの重なる部分があったからではないか、ということだった。
矢口氏はよく「国立マンガアーカイブのようなものができるなら、増田まんが美術館がその分館になりたい」と話していた。かつて政府内で検討されながら、「国営マンガ喫茶」と批判されて2009年、旧民主党政権でお蔵入りした「国立メディア芸術総合センター」構想を指している。
廃案から10年あまり、いまの私に出来ることは、矢口氏の遺志でもあるこの構想が復活するよう、本書をきっかけに世論を醸成することだと思っている。
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ジャーナリスト
元全国紙経済記者。早稲田大学大学院文学研究科演劇専攻中退。米コロンビア大学大学院客員研究員、放送大学非常勤講師(メディア論)、秋田テレビ(フジテレビ系)コメンテーターなどを歴任。著書に『出世と肩書』(新潮新書)『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』(世界文化社)
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(ジャーナリスト 藤澤 志穂子)
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