1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

渋沢栄一じゃない「旧1万円札の顔」の哲学こそコロナ禍では必要だ

プレジデントオンライン / 2021年3月2日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hanasaki

「1万円札の顔」は2024年に現在の福澤諭吉(1835~1901)から「日本近代資本主義の父」といわれる渋沢栄一(1840~1931)に代わる。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は、「社会が疑心暗鬼になって差別が生まれるなどの歪みが生じているコロナ禍では、1984年まで流通した旧1万円札の聖徳太子(574~622)が打ち立てた理念や哲学こそ再評価されるべき」という――。

■福澤でも、渋沢でもない「旧1万円札の顔」がいま再評価されるワケ

コロナ禍に見舞われなければ今ごろ、ある歴史的な偉人を讃えるイベントが、各地で盛大に行われていたに違いない。

その偉人とは飛鳥時代の政治家であり思想家である、聖徳太子(厩戸王)だ。聖徳太子は574(敏達天皇3)年に、用明天皇の第二皇子として生まれた。622(推古天皇30)年2月22日に49歳で亡くなっている。つまり、今年は聖徳太子の没後1400年忌(満1400年目)にあたる節目なのだ。

ちなみに聖徳太子の名は、死後に贈られた諡(おくりな)だ。本名は厩戸(うまやと)であるが、本稿では便宜上、聖徳太子と表記したい。

40代以上の世代にとって聖徳太子といえば、1984(昭和59)年まで流通した1万円札を想起するのではないだろうか。太子は、今日の日本の原型をつくったといっても過言ではない偉人中の偉人だ。また、仏教を日本に根付かせ、宗教の枠組みをも大きく変えている。太子は日本仏教界共通の功績者なのである。

そのため、太子が建立したと伝えられる法隆寺や四天王寺などでは今年、没後1400回忌法要が実施される予定だ。

■「世田谷区太子堂」ほか、全国各地の地名には「太子町」が多い

聖徳太子は僧侶ではなかったが、各地の寺院では如来像や宗祖像などとともに、太子像を祀るケースも少なくない。そうした寺院では、太子の1400年忌は、とても大事な仏教行事になる。

しかし、いまいち盛り上がりに欠けているのは、コロナ感染症の流行が背景にある。本当は、奈良や全国の寺内町、地域の商工会や商店街などあちこちで「太子祭」が実施されてもよかった。

太子と地域との結びつきでいえば、各地の地名によく表れている。「太子町」などの地名は飛鳥に近い、大阪府や兵庫県など関西地方に多い。

東京都内でも、三軒茶屋の近くに世田谷区太子堂という地名がある。

太子堂の起源は16世紀末に遡る。奈良の僧賢恵(けんけい)がこの地を訪れ、投宿した際に夢に聖徳太子が出てきた。そこで賢恵は太子堂を建立し、太子像を祀った。この寺は圓泉寺という真言宗寺院として現存している。圓泉寺では2020年秋に実施された太子祭は、規模を大幅に縮小。先日2月2日実施予定だった「聖徳太子節分会」は中止に。2021年10月の「太子祭」の開催も、今のところ不透明だという。

■歴史のおさらい「聖徳太子」は何をした人だったか

ここで少し、聖徳太子の生涯について振り返ってみよう。太子は、大陸から仏教をもたらした欽明天皇の孫にあたる。宗教だけではなく、政治、外交、文化等幅広い分野において多くのイノベーションを起こした。

6世紀末、仏教の受容を巡って蘇我氏と物部氏が激しく対立。最終決戦を前にして、蘇我氏側の太子は「この戦いに勝利したあかつきには、四天王を安置する寺院を建立し、この世のすべての人々を救済する」と誓願を立てる。

そして、四天王像を彫り上げると兜に取り付け、勇猛果敢に戦った。その結果、蘇我氏は勝利。その誓いを果たすために太子が建立したのが大阪の四天王寺だ。

当時、日本の宗教としては、古来の神道があった。太子は、神道における最高祭主である皇族の出身。その立場にありながら、未知の宗教である仏教に魅かれ、「篤く敬え」と命じたのだから、仰天である。以来、日本は神道と仏教が共存共栄する関係性ができていく。太子は、仏教をも日本風にアレンジしたのだ。

先述のように全国には太子ゆかりの寺院は多い。私は各地の名刹に足を運んでいるが、しばしば「聖徳太子創建の寺」に出くわす。多くが伝説の粋を出ないが、四天王寺や世界最古の木造建造物である法隆寺、京都最古の広隆寺、兵庫県加古川の名刹で「西の四天王寺」ともいわれる鶴林寺などは、太子創建の信憑性の高い寺院である。

■「和をもって貴しとなし」…太子制定の「十七条憲法」は現在でも使える

「日本仏教の祖」となった太子は中世、追慕の対象となり、「太子信仰(太子講)」という信仰形態ができる。太子は特に大工や石工ら職人らの守護神として祀られ、ものづくり文化に大きく貢献していく。

たとえば、富山県の井波地区(南砺市)は彫刻の町で知られる。大阪・岸和田のだんじりも井波職人の手によるものだ。井波では古くから太子像を祀り、信仰する風土が残っている。市内には数百にも及ぶ太子像が存在しているという。井波のシンボルである瑞泉寺には壮麗な太子堂があり、井波彫刻の技がふんだんに盛り込まれている。

富山県井波の瑞泉寺太子堂
撮影=鵜飼秀徳
富山県井波の瑞泉寺太子堂 - 撮影=鵜飼秀徳

鶴林寺のお膝元、加古川では豊臣秀吉による播州攻めの復興過程で大勢の大工が入った。その大工道具を作るために金物業や刃物業などが盛んになり、今でもこの地に根づいている。その紐帯となり続けたのが、職業講である太子講だった。

聖徳太子創建の鶴林寺。右の小堂は聖徳太子を祀った太子堂
撮影=鵜飼秀徳
聖徳太子創建の鶴林寺。右の小堂は聖徳太子を祀った太子堂 - 撮影=鵜飼秀徳

井波や加古川のものづくり文化は、市民の太子への思慕がつくりあげたものといえるだろう。

太子は政治・行政の仕組みを構築した人物でもある。「冠位十二階の制度」を定めたことはよく知られている。それまでの世襲ではなく、身分に関係なく能力に応じて位を与えるなど、当時の既得権益にも鋭くメスを入れている。このところ、菅首相の長男と官僚との接待問題が問題になっているが、聖徳太子が今に生きていたならば大いに嘆いていることだろう。

また、「和をもって貴しとなし」で始まる太子制定の「十七条憲法」は、わが国最初の成文法だ。これは法律というより「心構え」を記したもの。第9条には「信は是れ義の本(もと)なり――」とある。これを訳せば、「何事にも信頼が大事だ。何事も誠実に取り組めば成功する。だが、真心を失えばすべてが失敗に終わる」となる。

第10条には「心に怒りを抱いたり、あからさまに嫌な顔をしたりすることはやめよ。相手が怒ったら、反論せず、素直に非を認めることも大事だ」。第17条には「物事は独断専行ではダメ。皆で話し合いをすることによって、道理に叶った結論を得ることができる」、などとある。

十七条憲法に記された心構えは、現代社会でもそっくりそのまま使える内容だ。

■太子が打ち立てた理念や哲学こそが、再評価されるべきだ

太子は日本最初の「外交官」でもある。太子は遣隋使の小野妹子を派遣し、隋の皇帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とする国書を渡し、国交を結ぼうと考えた。隋の皇帝は、「日没する処の天子とは、無礼なり」と激怒したが、妹子の粘り強い説得によって日本と隋との交流が始まり、後に遣唐使として引き継がれている。

聖徳太子の存在がなければ、日本の姿は別のものになっていたに違いない。

コロナ禍が続く。社会が疑心暗鬼になって、差別が生まれるなどの歪みが生じている。太子がらみの行事は中止が相次ぐが、いまだからこそ、太子が打ち立てた理念や哲学こそが、再評価されるべきだと思う。

----------

鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『仏教抹殺』(文春新書)など多数。近著に『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)。佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事。

----------

(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください