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「実の母を施設に入れるなんて」認知症の母を全力介護する娘に向けられた兄嫁と隣近所の悪意

プレジデントオンライン / 2021年3月5日 9時0分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Chris_Tefme

離婚して実家に戻った女性を待ち受けていたのは認知症の母。献身的に介護するが、兄嫁や隣近所から陰口を叩かれ、帯状疱疹や顔面麻痺の症状が。母親はパーキンソン病も発症したが最期を何とか見届けた。しかしその後、自らも指定難病に罹患し、現在は「再婚した夫と穏やかに過ごし、人に迷惑をかけないように最期を迎えたい」と語る——(後編/全2回)。
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、未婚者や、配偶者と離婚や死別した人、また兄弟姉妹がいても介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■認知症の母を全力介護も、兄嫁や隣近所の人から陰口を叩かれて……

18年前に夫と離婚し、実家で認知症の母親と暮らし始めた白石玲子さん(仮名・当時48歳・現在66歳)には3歳上に兄が1人いる。

離婚した翌年のことだ。

白石さんが母親(当時74歳)の訪問介護やデイサービスの利用を決めたことを兄に報告すると、「母さんのことで俺を煩わすことはやめてほしい」と言い放った。

白石さんは、驚きと共に怒りが湧き上がる。

「じゃあこれからは私1人で決めるから、それでいいんやね? 後から文句を言うことはないね?」

と言うと、兄は面倒くさそうに頷いた。ところが兄嫁は、車で2時間ほどかかる中、時々やって来ては、母親に対して白石さんの悪口を吹き込んだ。

「(玲子さんは)よく知らない犬の散歩仲間の言いなりになってヘルパーさんを入れた」
「何で娘なのに(パート仕事をして)親の介護に専念しないのか」

すると母親は、「兄嫁が正しい」と言うようになってしまった。白石さんの心労は、それだけではなかった。

白石さんの実家は、昔ながらの閉鎖的なムラ社会の土地柄。人の出入りがほとんどなく、隣近所のことは筒抜けだ。白石さんが離婚して戻ってきたことからパートを始めたこと、母親がデイサービスに行っていることや、ヘルパーが来ていることなど、噂話のネタにされていることは白石さんも承知の上だったが、誰も手を差し延べてくれないばかりか、「何で娘なのに(ヘルパー頼りで)自分で介護をしないのか」ということを噂していた。

それでも白石さんは、週に2回、母親がデイサービスに行ってくれることで、とても救われ、母親も楽しんでいる様子だった。

だが、近所の人から噂されていることを知った母親は、「お腹が痛い」などと理由をつけて、「行きたくない」と拒否し始める。近所の人たちには、「デイに行かないと娘に怒られるから、仕方なしに行っている」と言い始めた。

「当時の私は、常に奥歯を噛み締めていて、身内や古い知り合いはあれこれ言うけれど、犬の散歩友だちとパート仲間だけは私の味方……そう思ってやっとの思いで生きていました」

■救いは犬の散歩仲間だが、母はパーキンソン病も発症

白石さんがパートの日は、散歩仲間のBさんが愛犬の「げんき」の散歩を代わってくれた。ある日、げんきの散歩を終えたBさんが白石さんの家へ行くと、玄関に母親が立ちすくみ、「ちょうど良かったBさん。動かれへんのよ」と助けを求めた。

ヘルパーの資格を持つBさんは、「お母さん、パーキンソン病と違う? ちゃんと病院で診てもらったほうがいいよ」と白石さんに助言。ヘルパーの1人もパーキンソン病を疑っていた。

ちょうどその頃、白石さんの精神状態を心配していたケアマネージャーは、「痩せすぎ(体重35キロ台)を理由に、お母さんを一時入院させてはどうか?」と提案。ケアマネージャーとヘルパーに背中を押され、2週間ほど入院させることが決まった。

2004年7月。母親は入院したが、「病院食が口に合わない」と言ってあまり食事を摂らず、さらに痩せていく。加えて、その病院の医師は一向にパーキンソン病の検査をしてくれない。「パーキンソン病なら適切な治療を受けて、早く母親を楽にしてあげたい」と思っていた白石さんは訝しがった。

しびれを切らした白石さんは、パーキンソン病の判定ができる市民病院への転院を希望。

2004年8月。母親は市民病院へ転院し、検査の結果、パーキンソン病の判定がおりた。

白石さんは必要書類を揃えて保健所に行き、指定難病認定の手続きをした。

■周囲からの陰湿なイジメで帯状疱疹から顔面麻痺に

認知症(要介護2)とパーキンソン病を発症した当時74歳の母親は、誰かの支えなくしては歩けなくなっていた。

白石さんは、もはや在宅で母親を介護する自信がなく、家へ帰りたがる母親をなだめるしかなかった。

しかし、家から近い市民病院に入院していると、すぐに近所の噂になった。白石さんが朝、母親の見舞いに行かないと、夕方にはそのことが近所中に知れ渡っている。白石さんは、近所の人に会うのが苦痛で仕方がなかった。

ひどく疲れて落ち込んでいる女性
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

そんなとき白石さんは発熱と頭痛に見舞われ、市民病院の外来を受診。薬を出されるが一向に良くならず、だんだん左耳が痛くなってきた。再度受診すると、看護師に耳鼻科を勧められる。言われるままに耳鼻科へ行くと、「帯状疱疹だね。耳のふちにいっぱいできてるわ。顔面麻痺が起こるで」と言われ、ステロイドの点滴をするため、入院を勧められる。

しかし白石さんは、「母が入院しているし、犬がいるので入院はできません」と断る。医師は「自分も入院しないといかん病気なんやで。お母さんは入院してるんやったら安心やし、犬はどうにでもなるやろ」と言うが、白石さんは頑な。仕方がないので医師は、通院で対応してくれた。

顔の左半分に麻痺が出始めた白石さんは、味噌汁やスープなどの液体を飲もうとすると、口の左端からダラダラとこぼしてしまう。困った白石さんは、ストローを使って口の右端で吸い、固形の食べものも、口の右側で少しずつ食べていると、涙が溢れた。

■「もうこんなところに住みたくない」心の底から思った

翌日、点滴のために病院へ行くと、看護師が「しんどいやろ? 月曜日は入院の準備をしておいで。ね?」と優しく声をかけてくれた。白石さんは入院することを決意し、顔の麻痺を隠すためにマスクをして母親の病院へ行った。

母親に1週間入院することを話すと、「あんたが入院したら私はどうなるの!」と大声をあげた。思わず白石さんはマスクを取り、「私、こんな顔になってるんやで!」と言うと、母親は白石さんを指差し、「何や、その顔は!」と大笑い。

白石さんはパジャマや下着を1週間分置いて、母親の病室を出た。

入院を終え、母親の病院を訪れると、母親は白石さんが置いていったパジャマや下着には手をつけず、近所の友だちや自分の弟嫁に洗濯を頼んで持ってきてもらっていた。家へ戻ると、「母親をほったらかしてどこへ行っていたのか?」という近所の人の噂話が耳に入ってきた。

「もうこんなところには住みたくない」。白石さんは心の底から思った。

■転院先の医療施設で母親は相部屋のボスにいじめられた

2005年に入り、白石さんは近所の人と兄嫁、そして母親から向けられる悪意に押しつぶされそうになっていた。

そんなとき一筋の光が差す。4カ月前に申し込んでいた長期療養型の医療施設から、「空きが出た」という連絡が来たのだ。

その病院は遠いため、転院すれば近所の噂話からは逃れられる。だが母親は嫌がるだろう。白石さんは悩み、主治医に相談すると、「そら、そちらに移ったほうが良い」と賛成してくれた。

「向こうに行ってみて、嫌やったら帰ってきたらええやん」

精神的に限界だった白石さんは、渋る母親にこう言って転院を促した。

2005年2月。転院先で母親は、同室の他の3人に挨拶もせず、間仕切りのカーテンを締め切り、拗ねていた。すると母親は、同室の“ボス”からイジメを受け始めた。

「少し物音を立てただけで『うるさい』と言われたり、嫌味を言われたりしたようですが、娘の私でも、母の被害者ヅラには腹が立ちました。私は自分を守ることを優先し、イジメ問題は放置しました」

結局、イジメに看護師が気付き、ボスが転院させられて解決。白石さんは、帯状疱疹と顔面麻痺の治療で週1回病院へ通った。母親から距離を置き、近所の噂話から解放されたことで、気持ちが楽になった。

■サザンオールスターズのコンサートをきっかけに男性と交際

しかし、兄嫁だけは相変わらずだった。

「転院させて本当に良かったのか、悩んで苦しんで、自分のためにこれで良かったのだと、やっと自分を納得させていたのに、本当に憎らしいと思いました。でも私には、兄嫁と喧嘩できるほどの気力も残ってはいませんでした」

転院してから母親は、薬が合ったのか、環境が良かったのか、パーキンソン病の症状は良くなっていった。天気の良い日は車椅子で散歩したり、近くのショッピングセンターでランチをしたり、特に体調が良いときは、一時帰宅もできた。

白石さんは離婚後、若い頃から好きだったサザンオールスターズのライブチケットを初めて申し込んだところ、奇跡的に電話が繋がり、ライブに行くことができた。それがきっかけで仲間ができ、6歳下の男性との付き合いが2年ほど続いていた。彼を母親に初めて会わせたのも、この病院に移ってからだった。

コンサートを楽しむ人々
写真=iStock.com/nd3000
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nd3000

穏やかに2005年が終わり、2006年が始まると、突然病院から電話がかかってきた。母親が取り乱し、「すぐに娘を呼んで!」と言っているという。パート中だった白石さんは上司に事情を話し、病院へ急いだ。

だが、病院へ着いた頃には母親は落ち着き、自分が呼んだことさえ忘れている。

しかしその日以降、白石さんは毎日のように母親から呼びつけられ、パートを早退する日が続く。白石さんが悩んでいると、仲の良いパートの先輩が声をかけてくれた。

先輩は白石さんの話を聞くと、「そんなにしんどいなら、パートを辞めて、彼と暮らしたら?」と言う。白石さんはびっくりして、「近所の目もあるし、実家を離れるのは母に申し訳ない」と首を振ると、「何言ってるの! 病院にいるお母さんには黙っていればわからないわよ! もっと自分のことを大切にしなさい!」と説得。背中を押された白石さんは、2006年4月、パートを辞め、彼と暮らし始めた。

数日後、母親が「何でパート辞めたんや?」と訊ねるので、驚いた白石さんは、「しょっちゅう病院から呼び出されて、迷惑をかけるから辞めた」と正直に言うと、母親は「そんな簡単に辞めたらアカンやん! 家にもいてないみたいやし。あんたがどこに行ったかわからなくて、心配したんよ」と言った。近所の人が白石さんのパート先や家を確認し、わざわざ母親の病院まで知らせに来ていたのだった。

彼と暮らし始めて、心に余裕が生まれた白石さんは、再びパートを始める。

母親はパーキンソン病による認知症が進んでいたが、最期まで白石さんのことは分かっていたし、一緒に病院へ来るようになったのちの夫のことも、「娘婿」と呼んでいた。

■「お母さんがもう長くないから」と言ったが兄は病院へ来なかった

2009年。79歳になった母親は病院を一人で抜け出し、病院の敷地外で転倒しているところを発見された。

病院からは「見守り不行き届き」について謝罪があったが、パーキンソン病薬のせいで動けるようになったと考えられたため、減薬。母親が動けなくなってきた頃、病室に鍵がかかる閉鎖病棟への転院の話が出た。

白石さん(当時54歳)は、母親が迷惑をかけた以上、断ることはできないと思い、承諾する。

閉鎖病棟に移ると、いきなりオムツを当てられ、母親が「トイレに行きたい」と言っても、「オムツにしていいよ」と言われるだけ。白石さんは、転院を承諾したことを激しく後悔した。

程なくして母親は寝たきりになり、一般病棟の2人部屋へ移った。白石さんが行くと、表情のない顔で横たわっている2人の姿に、一瞬どちらが母親かわからなかった。

2010年3月の朝、主治医から電話があり、白石さんは病院へ向かった。

母親は酸素吸入を受けており、白石さんを見ると微かに頷いた。白石さんは母親の手を握り続け、夕方帰宅。その日の夜、兄に電話するも繋がらず、メールも戻ってきてしまう。白石さんは、兄嫁に連絡する気にはなれなかった。

翌日、地下街を歩いていると、偶然兄に会った。白石さんが「お母さんがもう長くないから病院へ行ってあげて」と言うと、兄は電話番号を変えたことを謝り、新しい番号とメールアドレスを教えて去った。

しかし兄は来なかった。代わりに兄嫁が来て、「お義母さん、元気そうだったよ」と兄に伝えていた。

それから数日後、白石さんが母親の病院へ行く途中で、電話がかかってきた。

「お母さんが危篤です。すぐに来てください!」

白石さんは兄と兄嫁に電話をし、病院へ到着。呼吸が弱々しくなっていく母親を、結局最期まで一人で見送った。享年79だった。

■母親の最期を見届けた後、重症筋無力症やステージIIのがんに罹患

母親が亡くなってから10年後、2020年に入籍した白石さんは今年66歳、再婚した夫は60歳になる。

「母が初めて入院した当時、私はどんどん悪くなっていく母の姿に、かなり追い詰められていました。あの時、ケアマネさんやヘルパーさんに言われて母を入院させなかったら、私は母を殺めて、自分の命も絶っていたかもしれません。そんな考えが何度も頭をよぎりました。相談できるケアマネさんやヘルパーさん、そしてげんきの散歩仲間がいてくれて、的確なアドバイスや対処をしてくれたのが、私を救ったのだと思います」

そう感謝の言葉を口にする白石さんだが、入籍前は自分の体調がおかしくなり、次々と病魔に侵された。

まず、2019年の4月。白石さんは「最近疲れやすいな」と思っていたら、突然両腕が今まで経験したことがないようなだるさに見舞われた。

近所の病院を受診したが治らず、8月末に市内の大きな病院で内臓のCTを撮ることに。

9月に結果を聞きに行くと、「前縦隔(縦隔:胸の中心にある左右の肺の間にある空間)に腫瘍性病変の疑いがあり」と言われ、専門の病院を紹介される。

胸郭と腹部のCTスキャン
写真=iStock.com/Springsky
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Springsky

紹介された大学病院へ行くと、「重症筋無力症」と診断。治療のために10月に入院し、11月には胸腺腫(リンパ球を作っている胸腺の腫瘍)の手術を受けた。胸腺腫は悪性腫瘍でステージII。主治医は「手術で見える範囲は取り除いた」と説明した。

重症筋無力症は、指定難病のひとつだが、進行性の病気ではなく、服薬しながら上手く付き合って行く病気だ。治療のために免疫抑制剤を服用しているので、コロナに感染しないよう、マスク必須で、消毒手洗いに気をつけて過ごしている。

「2018年に(前夫との間にできた)一人息子は結婚し、翌年孫が産まれました。もう何も望むことはありません。残りの人生は再婚した夫(60歳)と二人、穏やかに過ごしたい。人に迷惑をかけないように最期を迎えたいと思います」

白石さん(現在66歳)は、11年前、母親が他界するまでの6年間の介護を振り返りこう語る。

「自分が潰されないよう、一生懸命になり過ぎず、人に頼れるところは頼ることが大切。特に、相談相手や話を聞いてくれる人の存在は大事だと思います」

介護をしている人には、自分が楽することを後ろめたく感じる人が少なくない。子どもには親を介護する義務はあるかもしれないが、楽をしてはいけないわけではないし、ましてや、苦しまなくてはならないわけではない。

介護当事者もそうでない人も、まずはそうした基本的な心構えを忘れてはならないと思う。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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