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「人類はどんどんバカになっている」陰謀論を信じる人が後を絶たない根本原因

プレジデントオンライン / 2021年3月11日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/twinsterphoto

デマや陰謀論に騙される人が後を絶たない。なぜ彼らは間違った情報を信じてしまうのか。文筆家の古谷経衡氏は「生産性や合理性が求められることで長考する機会が失われ、人類はむしろ昔よりもだまされやすくなった。そこには『短慮』『即断』という名の悪魔が潜んでいる」という——。

■日本にも「Jアノン」を信じる人たちがいる

少し前まで、人類が手にできる情報はわずかで、かつ遅いものであった。近世期の江戸幕府中枢は、長崎に居たオランダ商館長による所謂「オランダ風説書」によって、フランス革命の勃発を知ったが、そこには1年程度のタイムラグがあったという。

現在、地球の裏側のささいな事件であっても、情報は時差なく世界中に拡散される。ただし、人類の情報処理能力は中・近世とさほど変わっていない。情報が増えているのに、人類の能力は変わっていないため、相対的に人類はどんどん「バカ」になっているように見える。

冥王星とその衛星カロンにまで無人探査が出来る時代になっても、アメリカの急進的なキリスト教原理主義者の一部は、進化論を否定し地動説を信じている。先日も、米国の「Qアノン」の信奉者らは、「3月4日にトランプ前大統領が再び就任する」などというデマを信じ、騒ぎを起こした。失笑してしまうが、日本にも「Jアノン」を信じる人たちがいる。

■巨大地震のたびに発生するデマにどう対処するか

「3.11」から10年を迎えようとする2021年2月14日。福島沖を震源とするM7.3の地震(3.11の余震)でまたぞろネット上ではデマが散見された。「朝鮮人や黒人が井戸に毒を入れた――」。言わずもがな1923年の関東大震災におけるデマの悪質なパロディであり、愉快犯と考えられる。

一方、千葉県市原市の工場で爆発が起きたとされる画像がSNSで拡散された。こちらは単純に勘違いに起因するデマであった。思えば2016年の熊本地震における「ライオンが動物園から逃げた」というデマは投稿者が官憲に立件される自体に発展している。

なぜ巨大地震のたびにデマが発生してしまうのか。一部には「ネットの普及がデマ拡散の原因だ」という見方があるようだが、それは不正確であろう。関東大震災の起きた1923年にインターネットは無かった。

また、阪神・淡路大震災の起きた1995年にはインターネットはあったが、まだ国内で利用者は限定的だった。デマ伝達の主な手段はクチコミだ。被災地域で「○日に大きな余震が来る」というデマが乱舞し、京都や彦根の気象台に約100件の市民からの問い合わせがあった(1995.1.26、朝日新聞)。他にも「給水作業の従事者がエイズに感染しており、水を回し飲みした市民がパニックに陥っている」のデマ電話があり、神戸市の保健所がポスター百枚を作ってデマ注意を呼び掛けた(1995.1.30、毎日新聞)。

経済史家の鈴木浩三氏によれば、江戸期に頻発した巨大地震の際にも、デマが乱舞したという。1703年11月23日(旧暦換算)に起こった「元禄地震」は関東一円に壊滅的な被害をもたらした。

“11月23日の昼から夜の間に天地が崩れるようなことが起こるという御神託があり、それが当たったため大地震の夜が明けた23日になると、商人たちが欲も得も忘れて商品を廉価販売した”(鈴木浩三『江戸の風評被害』筑摩選書、P.73)

「御神託が当たった」というのは明らかなデマであり、さらなる大地震が来るという流言飛語が乱舞した。或いは当時将軍であった5代綱吉の悪政によって地震が起こったというデマも流れ、1737年には「箱根山の温泉が水になった」「山の手の井戸が泥になった」(鈴木、81)という次なる大地地震を想起させるデマも跋扈したという。

1855年の安政江戸地震でも、江戸にデマが横行した。

“地震後の出火や市中の治安悪化を理由に、諸商人の中には奉行所から休業を許されたり、町役人から営業を差し止められたという者があるが、それらは全くのデタラメなので、諸商人の営業は続けさせ人々が困らないよう物資を販売させよ”(鈴木、92)

つまり地震によって流通が止まる、という趣旨のデマが流れたという事である。歴史を振り返ってみても、ネットの普及とデマの発生に相関を見出すことは出来ない。

■海外でも巨大地震とデマは切っても切れない関係にある

ではこういったデマは地震国日本に特有のものか。2009年にイタリア中部で起こったラクイラ地震は同地に大きな被害をもたらしたが、それから2年後の2011年には“ローマで最近「(5月)11日に大地震で街が壊滅する」とのデマが広まっていたため、同日は数千人の市民が職場や学校を休んで郊外に避難し、商店の臨時休業も相次ぐ”(2011.5.13、中日新聞)という大規模な騒ぎが発生した。

黙示録都市景観
写真=iStock.com/Bulgac
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Bulgac

海外における巨大地震とデマで有名なものは、1976年の中国・唐山市を壊滅させ24万人の死者を出した「唐山地震」である。この時ネットは全く普及していなかったが、「次なる巨大余震が来る」というデマが被災地を駆け巡った。また2008年の「四川大地震」では、震源地と遠く離れた北京でも地震が起こる、というデマを流したとして中国公安当局はネットにデマを書き込んだ17名を検挙している。

洋の東西を問わず、またインターネット普及の有無にかかわらず、地震とデマは切っても切れない関係にあると言える。

巨大地震という未曽有の災害に対し、人間が普遍的に内在する恐怖心の種が萌芽し、いつの時代でもそこに尾ひれがつて拡散していく――、という流れを観ることができる。

■「低リテラシー」の人々はいつの時代も常に存在した

しかし一方で、こう考えることもできる。時代に関わらず、また国家や共同体を問わず、デマを流すもの、それを信じる者という所謂「低リテラシー」の人々は、「常に一定程度存在してきた」と言えるのではないか。

要するに、恐怖心は人類普遍の感情であるが、それに抗しきれず流言飛語を流すもの、便乗する愉快犯、またそれを垂直的に信じてしまうリテラシーのないものは、いつの時代や社会でも常に集団の中で一定は居る、という類推である。

批判的精神を持たず、他者の言説に無批判で、デマの発生源を自ら確認することなく惑わされるという人々が必ず居る。だがそれは逐次否定され、デマは沈静化することから、彼らは常に存在するが社会の中ではマイノリティであり続ける。彼らがもし社会の大勢を占めるならば、デマは訂正されることなく際限なく広がり続け大規模な騒擾が起こるはずだが、その都度公的機関が取り締まりを実行し、メディアが否定することで、時間と共にデマは消えて行くことからも、「低リテラシー」の人々は世論に影響を与えるだけの量的規模を持たない。

■人類は昔に比べてより「バカ」になった

だからと言って今後も必ず起こるであろう巨大地震のたびに発生するデマを、ただ座して甘受しておけばいいのかという話にはならない。地震とデマは必ずと言ってよいほど相関するが、国民皆ネット時代になった現在、その伝達力はけた違いである。幕藩体制期、江戸から大坂まで早飛脚を用いても情報通信は最低3日(片道)かかった。だが現代、ネットや電話を介せばそこに時間差はない。この速さはある種の恐怖である。

南海トラフや首都直下型地震という、将来起こるであろう超巨大地震の際、デマは一瞬にして全国津々浦々に拡大するだろう。そこから発生する急性的な騒擾は一次的には官憲の手におえないで暴走する危険性をはらんでいる。

要するに一人の人間に浴びせられる情報量は昔に比べるとけた違いに増えたが、それを受容する人間側は少しも進歩していないという事である。相対的に考えれば、より膨大な情報(それも正確な)を得られる環境になったにも関わらず、低リテラシーの人が相も変わらず存在するという事実は、人類は昔に比べてより「バカ」になった、と判定せざるを得ないのである。

■「長考」こそがデマを見抜くために必要なことである

国民皆ネット時代におけるこういった「低リテラシー」の人々への処方箋は、批判精神の涵養と「長考」である。批判精神は常に他者の言説を疑うこと。校正や編集、つまり段階を経て精査された情報に対し信頼性を持つこと。逆に言えば段階を経ないで放たれるSNSのつぶやきは常に懐疑の心を持つこと。

これをしっかりと学童の時代から教育しなければならない。またSNS時代に発せられるデマは、「少し考えればその真偽が容易に判明する」ものが殆どである。本稿冒頭で述べた「熊本のライオン」は実際には南アフリカの街頭に一定の加工処理をしたものだったが、その知識が無くてもよく写真を見ればその街並みや看板が日本ではない、とすぐわかる。つまり長い熟考能力を育めば、そういったデマはフェイクであると容易に判断がつく。

しかし、現代において「長考」「熟考」は排斥される傾向がある。ユーチューバー等の跋扈により、10分を超えない短尺の動画が好まれるようになった。2.5~3時間を超える長編映画(インターバルを含むもの)は敬遠され、できるだけ120分に収まるように製作される傾向が顕著だ。70年代、80年代のテレビアニメは4クール(52話)が当たり前だったが、現在は1クール(13話)が標準的だ。ビデオレンタル店には「90分以下で見られる映画」のコーナーが設置され、「できるだけ短時間で効率的に」消費されるコンテンツが好まれている。

■懐疑こそ人類の「バカ」化を押しとどめる唯一の処方箋

だが、昔から1日が24時間であることは変わらない。また人々の情報受容・処理能力が格段に進歩したわけではない。「短く、早く、合理的に」という当世の時代状況は、「長考」「熟考」を失わせ、間違った即断即決を惹起させかねない。当然、そこにデマがつけ込む隙を与える。「速読」や「効率的な勉強法」は、確かに生産性なるものを向上させるが、反比例して人々からリテラシーを奪っていくのではないか。

私はスローライフが良いと言っているのではない。人が有する1日の時間や、情報処理能力は昔から大して変わっていないと言っているだけだ。ある物事を長く観察し、長く考慮したならば、そこには懐疑や批判が生まれる。この喪失がデマをますます亢進させるのである。知性とは懐疑から始まる。懐疑こそ、人類の「バカ」化を押しとどめる唯一の処方箋でははないだろうか。そして懐疑のためには時間が必要である。生産性や合理性が政官財民から発せられるが、そこには「短慮」「即断」という名の悪魔が潜んでいることを忘れてはいけない。

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古谷 経衡(ふるや・つねひら)
文筆家
1982年、札幌市生まれ。立命館大学文学部卒。保守派論客として各紙誌に寄稿するほか、テレビ・ラジオなどでもコメンテーターを務める。オタク文化にも精通する。著書に『愛国商売』(小学館)、『「意識高い系」の研究』( 文春新書)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)など。

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(文筆家 古谷 経衡)

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