「ゾルゲの胸像を続々と建立」あの大物スパイの名誉回復を急ぐプーチン政権の思惑
プレジデントオンライン / 2021年3月12日 11時15分
■ナワリヌイ氏を支持する若者らの反乱に直面
戦前の東京でスパイ網を構築し、最高機密情報をモスクワに送った旧ソ連の大物スパイ、リヒャルト・ゾルゲが、ロシアで今、脚光を浴びている。「ゾルゲ通り」や「地下鉄ゾルゲ駅」が登場、各地に銅像が作られるなど、新たな名誉回復を思わせる。
ゾルゲ事件は戦後、日本で強い関心を呼び、100冊以上の書籍が出版されたが、現在は関心が低下した。これに対し、ロシアでは長年無視されていたゾルゲの評価が一気に上昇、機密文書の解禁もあり、ゾルゲ本が次々出版されている。
情報機関出身者が中核を占めるプーチン政権が、ゾルゲを愛国主義のシンボルに位置づけているかにみえる。欧米の経済制裁や封じ込めに遭い、国内では反政府指導者ナワリヌイ氏を支持する若者らの反乱に直面するクレムリンは、ゾルゲを利用して若者の愛国教育を図ろうとしているようだ。
■情報機関の影響力が高まり、ゾルゲが「第2の復権」へ
「20世紀最大のスパイ」といわれるゾルゲは、ドイツ人の父とロシア人の母を持ち、共産主義に傾倒してドイツからモスクワに移住、コミンテルン(国際共産党)活動に従事した。ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)にスカウトされ、3年間スパイとして上海に勤務。1933年から日本に舞台を移し、逮捕される1941年10月まで8年間活動した。
日本では、ゾルゲ機関をフル稼働させ、ドイツ軍のソ連侵攻、日本軍の南進という二大スクープなど多くの機密情報をモスクワに通報した。しかし、日米開戦前に官憲に逮捕され、1944年、盟友の朝日新聞記者、尾崎秀実とともに処刑された。
戦後、ゾルゲはソ連で無視され、1965年にようやく名誉を回復したが、関心は低かった。しかし、プーチン時代に情報機関の影響力が高まる中、第2の復権が進み、戦後75周年の昨年は、メディアで取り上げられ、英雄扱いとなった。
■プーチン大統領「ゾルゲのようになりたかった」
プーチン大統領は2020年10月、68歳の誕生日に際してタス通信のインタビューに応じた中で、「実は、自分は高学年のころ、ゾルゲのようなスパイになりたかった」と打ち明けた。プーチン大統領がゾルゲを敬愛していたことを公表したのはこの時が初めて。
2000年の回想録では、「子供のころスパイ映画を見て、国家保安委員会(KGB)で働くことを希望した」と述べていたが、実際にはゾルゲ事件がスパイを志す大きな動機だったことが判明した。
プーチン大統領は2000年の就任直後、モスクワ北西部にあるGRU本部を訪れた際、KGB同期のイワノフ国防相(当時)と近くのゾルゲ通りにあるゾルゲ像に献花した。ドイツ語を専攻し、旧東独に5年間スパイとして勤務したプーチン氏は、柔道を通じて日本の文化、歴史にも造詣が深い。日本で活動したドイツ人のゾルゲには、個人的な思い入れが強いようだ。
■地下鉄駅の新設、歴史ドラマの放映、モスクワにも胸像が…
ゾルゲ・ファンの大統領の影響もあり、ロシアでは近年、「ゾルゲ・ブーム」のような現象が起きている。
2016年に開通したモスクワ地下鉄外環状線の新駅は「ゾルゲ駅」と命名された。近くのゾルゲ通りにちなんでいるが、ゾルゲが駅名になったのは初めて。「ゾルゲ通り」もアストラハン、ブリャンスク、カリーニングラードなど多くのロシアの都市に誕生した。一昨年以降、モスクワや極東のウラジオストク、南部のロストフナドヌーなどにはゾルゲの胸像が設置された。
在日ロシア大使館内にあるロシア人学校の正式名は「リヒャルト・ゾルゲ記念学校」だが、ゾルゲの名を付けた学校が、モスクワなどロシア各地に増えてきた。
2019年には国営ロシア・テレビで歴史ドラマ「ゾルゲ」(全12話)が放映され、尾崎秀実や愛人の石井花子役で日本人俳優が動員された。ゾルゲ事件のシンポジウムもしばしば開催されている。
■多磨霊園にあるゾルゲの墓の所有権をロシア大使館が取得
在日ロシア大使館は2020年10月末、多磨霊園にあるゾルゲの墓の所有権を大使館が取得したと発表した。ゾルゲの墓は、銀座のホステスだった愛人の石井花子が戦後建立したが、石井の死後、所有権を得た姪は墓の権利をロシア大使館に譲渡するとの遺言書を作成し、2018年に亡くなった。今後はロシア大使館が墓所の管理料を都に支払う。
2020年11月7日のゾルゲの命日には、旧ソ連諸国の駐日大使らが墓に集まって追悼式が行われ、ガルージン駐日ロシア大使は「ゾルゲ氏が旧ソ連各共和国の自由と独立を守った」と挨拶した。
ロシア大使館によれば、戦勝75周年記念事業の一環として、ゾルゲの墓の土がロシアに送られ、ロシア軍の教会として新設されたモスクワの「キリスト復活大聖堂」に納められたという。
2019年に訪日したショイグ国防相もゾルゲの墓に参拝しており、来日するロシア要人にとって、多磨霊園が巡礼の地となりつつある。
ゾルゲが東京・麻布の自宅の書斎で愛用していたアジアの大型地図も、保管していた歴史家の渡部富哉氏からロシア国防省に寄贈され、2019年末モスクワで式典が開かれた。ショイグ国防相は「ゾルゲはソ連軍の作戦立案に重要な役割を果たした」と演説した。
■出版社もプーチン政権を忖度し、関連本30冊以上を出版
プーチン体制下では情報公開が後退したが、機密文書の解禁が進んでいる分野もあり、それが情報機関関係の文書だ。情報機関やスパイを顕彰する狙いがあり、出版社もKGBのOBが中枢を占めるプーチン政権に忖度し、多くの書籍を出版。ゾルゲ関係の書籍も30冊程度刊行された。
その中で注目すべきは、GRUのアーキビスト(公文書などの収集や保管に携わる専門官)だった歴史家のミハイル・アレクセーエフ氏によるゾルゲ研究書の上海編『あなたのラムゼイ』(2010年刊)、東京編『あなたに忠実なラムゼイ』(上下、2017年刊)、それに、日本専門家のアレクサンドル・クラノフ氏が書いた『不都合なゾルゲ』(2018年刊)だろう。
いずれも、近年機密指定を解除されたゾルゲ関係文書を基に、新事実を紹介している。
クラノフ氏の『不都合なゾルゲ』は、事件の謎であるゾルゲ機関摘発の経緯について、「スターリンはゾルゲを二重スパイとして信用せず、最後の4年間は、プロ意識のないソ連大使館員にゾルゲと接触させたり、情報を郵送で送ったりし、日本側官憲の知るところとなった」とし、「ソ連当局の悪質かつ無責任な管理体制」を批判した。
『東京を愛したスパイたち 1907-1985』(藤原書店)などの邦訳もあるクラノフ氏は昨年、ロシアの「文化チャンネル」の座談会で、「日本では戦後、左翼文化人の影響力が強く、ゾルゲ人気が高かったが、情報は出尽くし、専門家が高齢化して関心は低下した。ロシアは逆で、機密文書が次々公開され、ゾルゲ人気が急速に高まっている」と述べていた。
■プーチン大統領は「ゾルゲ」を使って政権延命を図りつつある
ロシアでのゾルゲ・ブームは、プーチン政権が操る「官製」の要素が少なくない。
21年目に入ったプーチン政権は、2014年のウクライナ危機後、欧米諸国から経済制裁を受け、封じ込めへの危機感がある。ロシアの軍事専門家の間では、北大西洋条約機構(NATO)への先制攻撃論や予防戦争論といった物騒な議論が出てきた。
政権基盤は強固ながら、知識層の若者は長期政権の閉塞感や経済不振、社会の沈滞ムードへの不満から、反プーチン志向が強く、ブロガーで反プーチンのナワリヌイ氏がカリスマ的な人気を持つ。
プーチン政権は、反露を掲げるバイデン米新政権がナワリヌイ氏を擁護し、軍事圧力に加えて情報戦や経済戦、秘密工作員を利用して混乱を高める「ハイブリッド戦争」を仕掛けてくる――といった懸念が強いようだ。
ロシアにとって、時代はゾルゲが暗躍した第二次大戦前夜に似ており、命がけで祖国のために情報工作を行った愛国者のゾルゲを賛美することで、愛国主義を鼓舞する狙いがうかがえる。
欧米の策謀を実体以上に恐れるプーチン政権は、「ゾルゲ」を使って政権延命を図りつつある。日本にとっては、「ゾルゲ」が日露交流に利用可能かもしれない。
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拓殖大学海外事情研究所教授
1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。時事通信社に入社。バンコク、モスクワ、ワシントン各支局、外信部長、仙台支社長などを経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『北方領土はなぜ還ってこないのか』、『北方領土の謎』(以上、海竜社)、『独裁者プーチン』(文春新書)などがある。
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(拓殖大学海外事情研究所教授 名越 健郎)
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