「戦国時代のしくじり先生」石田三成の失敗にビジネスリーダーが学ぶべきこと
プレジデントオンライン / 2021年3月17日 11時15分
※本稿は、本郷和人『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■「人間力を磨かなかった」という失敗
この点は異論もあるのですが、結局、石田三成という人は戦争をわかっていなかった。それに尽きます。加えて、人間というものもわかっていなかった。
三成も「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」のときは、自ら槍を持って敵と戦っていた。しかし戦場では、彼の本領を発揮することができない。秀吉もそれはよくわかっていて、三成をデスクワークで重用したわけです。
「机上の空論」という言葉がありますが、机上の仕事も大切です。ただその一方で、どんな資料を見ても「三成は人間的に大きな人だった」という話は出てこない。やはり人間的な魅力はなかったし、だからこそ同僚たちからも認められなかったのではないか。
そこを考えると「人間力を磨くことをしなかった」ことが、彼の失敗だったと言えるかもしれません。僕も人のことは言えないのですが。
■「ボスに信頼される部下」の落とし穴
三成が極めて優秀だったことは間違いない。しかし優秀さだけでは人間はついてこないのです。逆に、特段なにもできないのに愛される人もいますが、三成はそうした人間社会の機微がわかっていなかった。
そうした点で三成は、源頼朝の腹心だった梶原景時とよく似ていると思います。三成は、秀吉のことを一番よく理解し、その考えに非常に忠実だった。景時もまた頼朝の考えをもっともよく理解し、忠実だったと思います。両者ともそれぞれ、信頼される部下だったことでしょう。そこは間違いない。
しかしそうしたタイプの人は結局、頼朝だとか秀吉だとか、要するに虎の威を借る狐であって、虎が死んでしまうとどうにもならない。頼朝亡きあと、梶原景時もあっという間に失脚し、みんなから石をぶつけられるようにして死んでしまう。
本音ではやはりみんな、ボスに対して不満があるわけですよ。頼朝に対して不満があるし、秀吉にも不満がある。しかし頼朝や秀吉に直接文句は言えないわけです。そうなると不満を溜め込む相手は、彼らに忠実な梶原景時や石田三成になる。そして、溜め込んだものがボス亡きあとに爆発してしまう。
■完全主義者の欠点「ピンチに弱い」
ただし三成の場合、梶原景時とは違って失脚しても命までは奪われず、隠居ということで済みました。それで関ヶ原で、もう一度表舞台に出てきたわけです。
しかし「人間がよくわかっていない」という欠点はそのままだった。それに彼は、ピンチにも弱い。これも僕自身、痛感していますが、ピンチのときにどこまで耐えることができるかで、人はその価値を計られるところがある。ピンチとは、マイナスになることが避けられない事態を意味します。そこでマイナスを最小限に食い止めて、反撃にでることができるかどうか。三成は、それがまったくできなかった。そこは完全主義者の欠点なのかもしれません。計画が少しでもうまく行かないと、それでパニックになってしまう。
![チームワーク](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/2/3/670/img_2351b170756b36f451a289395eae0ab91022147.jpg)
たぶん関ヶ原に布陣したときの三成は「俺はやるべきことを完璧にやった。だから偉い」という心理があったと思います。しかし現実は、机上の計画のようには進まない。
そして実際、関ヶ原では三成にとって大きな計算違いが起こってしまいます。
■現場のエースを関ヶ原に送り損ねた「計算違い」
まず起こった計算違いとして、大津城で京極高次が突如東軍に寝返りました。三成はそれに「絶対許さん」ということで、立花宗茂、小早川秀包(こばやかわひでかね)という西軍最強の精鋭部隊を送りこんでしまう。
京極高次は6万石の大名に過ぎません。動員能力はどうがんばっても2000人ほど。言ってしまえば雑魚。それに大津城とは、ただ京都に近いというだけの城。それが寝返ったからといって、なにほどのこともない。手当てする程度の部隊を送っておけばそれでよかった。
しかし完全主義者は、予想外の事態が許せないのでしょうか。あるいは気が動転してしまったのかもしれない。
立花宗茂と小早川秀包は、両方とも10万石程度の大名。それこそ2000人ぐらいの部隊ではありますが、彼らは朝鮮で戦ったときも、お互いに助け合って力戦した武将です。会社でもいますよね。それほど大きな権限は任されていないが、現場ではエースという人。
そのエースを、よりにもよって雑魚相手に派遣してしまった。そのため、ふたりとも「関ヶ原の戦い」に間に合っていません。戦う気は満々だし、戦もうまいしで、もっとも頼りになる部隊だったのに参加できなかった。その影響は相当に大きかったはずです。
■島津義弘の処遇を間違えた三成
もうひとつの計算違いは島津義弘の処遇です。島津義弘は関ヶ原へ1500人ほどの少ない兵隊を連れて参戦しました。
![関ヶ原の戦場史跡](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/8/670/img_08b0ab52628141f712953512663fc4501764772.jpg)
石高に比べて明らかに兵数が少ないのは、島津家の事情です。島津家の大ボスは義弘の兄の島津義久。龍伯の名でも有名ですよね。ここまでもたびたび触れてきましたが、この人は鹿児島第一主義者で、中央のことなどまるで興味がない。鹿児島には鹿児島の流儀がある。だからこそ、関ヶ原だろうが天下分け目の戦いだろうが、そもそも知ったことではないというのが基本路線。
しかし弟の義弘は「島津家の保全のためには、中央の動きにもコミットしていかなければ」と考えていたことも、これまで述べてきたとおり。ちなみに、ふたりとも関ヶ原の当時はすでにいいおじいさんになっていました。
この間の朝鮮出兵のときは兄をなだめすかして、期日には遅れながらもなんとか1万人の軍勢を用意できた。しかし関ヶ原のときは、国元で伊集院一族が反乱を起こしていました。
そのため「今、鹿児島を留守にすることはできない」という兄義久の理屈が通り、わずかな数の兵しか戦場に連れてこられなかった。もし島津が1万の兵を送り、その軍勢が関ヶ原で暴れ回っていたら、戦局はどうなっていたでしょうか。
■夜襲の提案を「田舎者のやること」と却下
しかし1500人しかいなくとも、戦闘民族である島津家の兵。起爆剤としては十分活用できたはずです。当時の戦争は、兵の大半は農民兵。基本的には戦意は高くありません。だからこそ、まず先陣を切って突入することのできる部隊がとても重要です。
そうした部隊が突入して「これは勝てるぞ」という空気が生まれて、農民兵たちも突撃できるようになる。しかし先陣が弱いと、途端に劣勢という空気が波及してしまいます。そして、もともと戦意が高くない人たちは腰が引けてしまい、その離脱を押さえることもできなくなってしまう。
だから戦闘の口火をきる、起爆剤となる戦力は大事。その意味で言えば、島津の兵は数が少なくとも戦意が高いし強いので、とても頼りになります。起用の仕方によっては十分に活きたと思うのですが、関ヶ原ではまったく動かなかった。
これはどう考えても三成のやりかたや扱いに不満があったとしか思えない。よく言われるのは、義弘が「夜襲をかけよう」と提案したところ、三成に「夜襲などは田舎者のやること。ここは正々堂々の戦いで行くべきだ」と否決されたという話です。
■不相応すぎることをやると人はしくじる
こうしたやり取りは、昔からいろいろなところで見られます。古くは1156年の「保元の乱」のときに、源鎮西(ちんぜい)八郎為朝の父、源為義が「我がほうは兵が少ないし、夜襲をかけましょう」と提案したところ、藤原頼長が「それは田舎者のすることだ」と却下。為義はその時点でこれは負けると思った、という話がすでにありますので、義弘の話もどこまで本当かはわかりません。
![本郷和人『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/f/200/img_efd8030decbf637baea6d687d96f40ce271084.jpg)
しかし少なくとも、島津義弘が気持ちよく「よし、戦うぞ!」と思うことができない状況にいたことは確かで、その原因は、おそらく三成にあったはず。それを踏まえても、三成はやはり大将の器ではないという感じがします。
三成もかつては自ら戦場に出ていたし、その後も補給部隊を担当してきましたから、まったく戦争を知らないわけではありません。補給、ロジスティクスは戦争の重大な要素で、太平洋戦争のときの日本軍はこれをおろそかにしたために負けたとも言われるほどで、極めて重要なパートであることは間違いない。
しかし補給部隊を率いていた三成が、大将として天下分け目の戦いの場に出てきたとき、それを乗り越えられるような経験もなければ才覚もやはりなかった。人はあまりに不相応なことをやると、得てしてしくじってしまう。そんな教訓を教えてくれます。
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東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本資料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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