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「子供はできなかったが…」秀吉の妻ねねが揺るぎなき地位を築けたワケ

プレジデントオンライン / 2021年3月17日 11時15分

絹本着色高台院像 - 高台寺所蔵

豊臣秀吉の正室ねねは、生涯にわたって子供を産むことはなかった。それにもかかわらず、歴史上は非常に強い存在感を残した。歴史学者の北川智子氏は「ねねは戦略的に養子縁組を重ねることで、豊臣・徳川・天皇家の重要人物となった」という――。

■あまり知られていない「母」としての顔

北政所ねねといえば、豊臣秀吉の出世に連れ添った糟糠(そうこう)の妻として、ご存じの方が多いかもしれません。しかし、ねねは単に秀吉の妻だったから周りに影響力を持てたのではありません。また、ねねは秀吉との間に子供がいなかったことも広く知られていますが、実はそれも「真実」とは程遠いものです。

『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)は、歴史資料を基にねねや豊臣家の女性たちの生き方を検証していきます。従来の戦国時代の通説を覆す史料に驚くばかりですが、ここでは、ねねの妻としての役割と、あまり知られていない「母」としての顔をご紹介したいと思います。

ねねは、夫の秀吉に「おねね」と呼ばれ、結婚後、尾張(現在の愛知県)に住んでいました。二人が一つの藩を仕切るまでに出世したのは天正2(1574)年の6月ごろのことです。秀吉は藩主に取り立てられ、天守閣に居を構えました。もともとは、足軽という低い身分だったので、長濱の城主になった時点で一世一代の大出世でした。

ねねと秀吉の夫婦の間で、夫の秀吉が絶対的に強く、全てを一人で決めていたかというとそうではなかったようです。例えば、長濱の城下に住む人々への年貢のレートについて二人が相談している様子を今に伝える手紙があります。そもそも城主になってから、長濱の町人たちにできるだけ負担が少なくなるよう、税に関して二人は寛容な政策をとっていました。

しかし、税の負担が軽いと噂を聞いた隣人たちがこぞって長濱に引っ越してきたため、過度の人口流入が新たな問題となりました。

■低い身分から公家の一員へ

そこで、秀吉は年貢と諸役を厳しくしようと税収の値上げを決めましたが、負担が増えると住人たちは反発するに決まっています。町の人々の声を聞いてか案じてか、ねねは政策転換に反対し、秀吉はいったんは決めた値上げを取り下げることにしました。

このように、ねねは、はっきりと発言する性格だったようです。ねねが、信長に安土城に招待された時のエピソードにもその様子がうかがえます。信長は、前回会った時よりも10倍も20倍も美しいとねねを褒め、「秀吉が、ねねに不満を持つなど言語道断。ハゲネズミに、これほど素晴らしい相方は、二度と見つけられないだろうから、これからは、自信を持ってふるまいなさい」とアドバイスします。その時信長は、「女なので意見を言うことについては分をわきまえるように」と言い添えるのも忘れなかったくらいです。長濱の年貢の引き上げに反対した時のように、ねねが秀吉に意見を言っているのを、信長は知っていたのです。

本能寺の変の後、勢力を伸ばした秀吉は、京都に脈々と続いてきた天皇家の関白、つまり天皇に代わって行政の権利をもつ官職につきます。しかし、秀吉は将軍職への着任は辞退しました。どうして将軍にならなかったのでしょうか。

理由はいくつかありそうですが、ねねにとって夫が関白になることは、将軍になることよりも有難い選択でした。実は、秀吉が関白になることにより得をするのは、妻のねねだったのです。秀吉の関白就任とともにねねは「北政所」という、もともとは摂関家の正妻に与えられる呼称を得るとともに、彼女は従三位という極めて高い官位につくことができました。ふたりとも元々は低い身分で、血統などありません。ですから秀吉が関白になると、ねねの社会的地位が公家の一員として目に見える形で確立されていくのです。秀吉が関白になり、ねねが北政所の称号で知られるようになった天正13(1585)年。ねねは推定で38歳、秀吉も数えで50歳くらいになっていました。

■「母」だったねね

破竹の勢いで出世する秀吉は、陣中からもねねに手紙を送り続けます。戦況を逐一報告したりと筆まめな秀吉が気にしていたのは、ねねのことだけではありません。文面にはこんな部分があります。「五もじと八郎より小袖が届きました。とても気に入り、さっそく着ています。できる限り早く大坂に凱陣するようにしますので、ご安心ください。お目にかかり、お話をしましょう。」

柔らかな夕陽が照らす大阪城(2016年2月26日)
写真=iStock.com/fotoVoyager
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fotoVoyager

秀吉に小袖を送った五もじと八郎は、ねねと秀吉の養子です。五もじは、前田利家とまつの四女として生まれた豪のことで、彼女は秀吉に特に気に入られました。八郎とは、宇喜多直家の子供で、後に豪の夫となる宇喜多秀家です。この手紙が書かれた頃には豪も八郎も子供で、ねねと一緒に暮らしていたのでしょう。秀吉が、子を思う父の顔を見せています。

秀吉の姉の息子、のちの小早川秀秋も「金吾」という幼少名で呼ばれ、ねねと秀吉に大事に育てられます。養子といえば、戦略の一部として名目上の縁組のことが多いですが、ねねと秀吉の家のように実際に一緒に住んで育てられることもありました。ねねと秀吉には子供がいませんでしたが、養子・養女の縁組を重ねることで、ねねはたくさんの子供の母となったのです。

■鶴松の「おかかさま」

関白職についた秀吉と、北政所の称号を得たねねは、古都京都に聚楽第を構え、独自の暫定政権の体制をいっそう強固なものにしていきました。京都には、天皇家や皇族、さらに、寺社仏閣の住持が暮らしていましたから、ねねと秀吉は、将軍家を開いて武士の頂点に立つことで統一を成し遂げるのではなく、日本に古くからある朝廷や皇族の権限をうまく利用しながら、統治者としての力を伸ばしていきました。そして天正18(1590)年ごろまでには、日本列島の大部分が豊臣の政略網の中に入ることになります。

天正18(1590)年4月13日に、秀吉が北条氏政、氏直を相手に小田原に詰めている間にねねに送った手紙には、「長期戦になるので、(側室の)茶々を小田原に呼んでほしい」と書かれています。ねねから直接茶々に話をし、前もって準備をさせるように。ねねの次に茶々が気に入っているので、こちらに派遣してほしいと、リクエストしました。ねねが43歳、秀吉は55歳のころのことです。ちなみに、茶々は永禄12(1569)年誕生説にのっとると、数えで21歳でした。

茶々は、前年の天正17(1589)年5月27日に秀吉の男児、鶴松を産んでいます。しかし、子供を産むことで、彼女の地位が引き上げられたわけではありません。その証拠に、鶴松に宛てた手紙では、秀吉がねねと茶々を「両人の御かかさま」と呼んでいます。茶々が遠くへ出かける時の面倒だけではなく、正式には、鶴松は秀吉の正妻のねねの子供とされていたのです。

■想定外の展開

長期戦になった小田原攻めのあいだ、ねねは大坂にとどまりました。城には先に紹介したとおり、同居していた養子や養女がねねのそばにおり、ねねは妻としてではなく、もっぱら母として多忙な暮らしをしていました。

天正18(1590)年8月。養女のひとり、お姫が病気になったようです。彼女は、織田信雄(のぶかつ)の長女で1585年くらいに生まれました。すぐにねねと秀吉の養女になり、ねねのもとで他の養女とともに育てられていました。お姫はその後、徳川家康の後継となる秀忠と天正18(1590)年に6歳で婚約しています。織田の血をひき、豊臣の娘として育てられたお姫ですが、徳川に嫁ぐころになっても病気から回復せず、ついに天正19(1591)年、7歳で夭折してしまいます。

お姫は織田、豊臣、徳川の連立の要になるはずでした。お姫が生きていれば、歴史は確実に変わっていたでしょう。

さらに、お姫が亡くなってから1カ月もたたない8月2日、鶴松も病に見舞われます。神社仏閣で即座に回復を祈る大規模な祈祷がなされましたが、そのかいなく、8月5日に鶴松は息をひきとります。数えで3つでした。ねねは大きな悲しみとともに、跡取りと縁組による政治的な計画が狂うという現実と向き合い、想定外のシナリオを進むことになります。

■戦争に行く息子を見送る母

娘と息子を失った後、ねねと秀吉の夫婦の距離はだんだん広がっていきます。秀吉が、日本を超え、朝鮮半島、中国大陸へ進出する野望を抱くのですが、ねねはその計画に反対でした。そこで、ねねは義理の息子に当たる後陽成天皇にかけあい、やめるように勅旨を出してもらいました。

義理の息子というのは、秀吉は関白になる前に、近衛前久の養子になった経緯が理由にあります。この縁組の後、近衛前久の娘の前子(さきこ)がねねと秀吉の養女となっており、前子は、即位が確定していた後陽成天皇と結婚しました。この婚姻をもって、ねねは、天皇の義理母にもなっていたのです。

肝心の秀吉は、誰の諫言も聞き入れず、朝鮮出兵を進めます。朝鮮へ進軍するにあたり、ねねが育てていた養子の金吾も参加することになり、金吾は大坂を離れ、秀吉のいる九州へ出かける運びとなりました。そして、到着するやいなや、ごきげんななめのねねの様子を秀吉に報告したのです。金吾は、「母にお願いしておいた武具や道具は何も整わず、母は機嫌が悪かった」と秀吉に言ったのです。金吾は、ねねと秀吉が大事にしていた養子ですから、秀吉は「何たることだ、ねねが可愛がらなければどこの誰が可愛がってやるというのだ!」と憤慨しました。

しかし、どうしてねねは、金吾に武具をそろえてあげなかったのでしょうか。考えてみてください。戦争に行く息子を見送る母の気持ちは、身がちぎれそうな思いに違いありません。どんなに高価な武装を渡しても、戦でわが子が死ぬかもしれないと思うと、ねねは金吾を見送りたくなかったのではないだろうかと思えます。金吾を着飾って送らなかったのは、秀吉の朝鮮出兵へ反発する母心だったのかもしれません。

■秀吉没後は京都へ

文禄2(1593)年8月9日。茶々が2人目の男児を出産しました。喜ぶ秀吉は慶長2(1597)年に入ると、隠居のための城を京都に造り、9月には息子に秀頼という名を与え、新しい城に転居しました。

しかし、翌、慶長3(1598)年。秀頼が数えで5歳になる頃、秀吉は病床に伏してしまいます。ねねは伏見で病床の夫に付き添い、早期回復のために神社仏閣に祈祷を依頼しますが、ねねの願いむなしく、秀吉は旧暦8月18日に死去します。

秀吉没後、慶長4(1599)年。秀頼と茶々を残し、ねねは大坂城を離れ、京都に常駐することを決めます。引っ越したねねの代わりに大坂城に入ったのが、徳川家康です。秀頼の後見人という名目はあれども、すぐに秀頼と茶々をはじめとする豊臣家との仲が悪くなり、その不仲の情報は、京都でも噂として伝わっていきました。そんな中、ねねは、依然として「北政所」と呼ばれながら、能を鑑賞し、神楽という宮中芸能を催したりしていました。武将の未亡人としてではなく、公家の一員として、皇居内の京都新城で余生を過ごすことにしたのです。

■秀忠の母として

将軍家康は、慶長10(1605)年、早々と将軍職を息子の徳川秀忠に譲ります。秀忠は幼い時に、ねねと秀吉の養女のお姫(織田信雄の娘)との婚姻が組まれており、そのお姫が7歳で夭折したため、茶々の妹で、ねねと秀吉との養女になっていた江(ごう)と結婚しました。お姫亡き後、もうひとり養女をとり、秀吉とねねは、徳川家とのつながりを強固なものにしていたのです。

用意周到のねねにとって、徳川が天下を取ることにはなんの問題もありませんでした。秀忠の義理母になり、将軍の母として暮らす準備は、とうの昔にできていたのです。

慶長20(1615)年、旧暦5月8日。徳川は陣を取り、大坂城へ一気に攻撃を仕掛けます。徳川が豊臣を攻撃した大坂夏の陣です。みるみるうちに、大坂城には、大きな火の手があがりました。豊臣側の茶々も秀頼も、この戦いに破れ、命を落とします。ねねは、京都で大坂落城との情報を聞き、「大坂の一件は、なんとも申し上げる言葉もございません」と記した手紙を伊達政宗に送りました。

さらに、大坂の陣の後、京都に立ち寄った徳川秀忠に、ねねは贈り物を送ります。ねねは、豊臣側でも徳川側でもなく「高台院」として、京都では影響力と財力のある人物になっていました。また、そのような特別な立場を自認するかのように、「京都で何か自分にできることがあれば承ります」と秀忠に表明しています。巧みな縁組によって秀頼と同様、秀忠にとってもねねは「母」だったのです。

■唯一無二の存在

振り返ると、ねねと秀吉の養女として育てられた女児たちは、後々、ねねの存在を強めることになりました。たとえば、娘の前子は皇后として12人の子供を産みました。ねねは天皇の義理母になっただけでなく、後陽成天皇を継いで即位した後水尾天皇の祖母という関係になりました。ねねは豊臣と徳川と天皇家の母として、祖母として、重要な立場を占めていきました。

北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)
北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)

これまで、ねねは豊臣側の人間であり、豊臣家の存続に加担するのが当然、あるいは、豊臣を裏切って徳川の肩を持った裏切り者とされてきたこともありました。しかし、豊臣家の一員である以上に名だたる武将たちや天皇の「母」として、大坂や京都で、唯一無二の存在として生きました。実子がいないことを養子縁組で戦略的に捉え、一夫多妻、結婚と養子のシステムをうまく利用して、血統のない自分の子供を持つよりも恵まれた地位に自らを置き続けたのです。ねねの人生は、秀吉によってのみ守られてきたわけではありません。ねねは母として、秀吉没後も揺るがない地位を保ち、影響力のある人物として余生を過ごしました。

ねねのほか、細川ガラシャなど、天下統一期を生きた女性にスポットライトを当てることで、これまでの歴史の常識を覆す資料がたくさん見つかっています。女性たちの強い信念があふれる『日本史を動かした女性たち』。ぜひ、ご一読ください。

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北川 智子(きたがわ・ともこ)
歴史学者
米国プリンストン大学で博士号を取得。ハーバード大学でLady Samuraiの歴史のクラスを教え、その内容は欧米や中東、アフリカを含む世界各地での講演活動へと広がっている。著書に『ハーバード白熱日本史教室』(新潮新書)、『異国のヴィジョン』(新潮社)などがある。

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(歴史学者 北川 智子)

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