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たった一人、月収10万円でも児童演劇「フクシマ発」をやり続けるワケ

プレジデントオンライン / 2021年3月12日 15時15分

写真=筆者提供

福島県にある児童演劇「劇団風の子東北」。東日本大震災の影響で、劇団の経営は危機に瀕したが、制作・脚本の澤田修さんはたった一人残り、「フクシマ発」という劇を上演している。澤田さんが舞台に立ち続ける理由とは――。

■脚本がない「ドキュメンタリー芝居」

「これは演劇なんですか? 講演会なのですか?」

私が脚本・制作・主演を務める舞台「フクシマ発」を観た人からよく聞かれる質問です。舞台に立つのは私ひとり。ラジオの公開生放送という設定で、パーソナリティと新聞社の震災担当者を一人二役で演じます。

お便りやリクエスト曲を紹介するほか、会場インタビューもあります。観客に自由に質問してもらうのですが、新聞社の震災担当者を演じている私は、震災に関わることはすべて答えなければなりません。この劇には脚本はないわけです。だから大事なことは、演技力よりも、その場できちんと質問に答えること。私は勝手に「ドキュメンタリー芝居」と名付けています。

2013年5月にこの作品を上演開始するまで、私は制作や脚本を担当する裏方で、表舞台に立つ人間ではありませんでした。そんな演技の素人がやっている舞台ですが、おかげさまで全国各地の小学校、中学校、NPO法人などから声をかけていただき、現在までに90回以上の上演を重ねています。

現在67歳。これからも体が動く限り、この舞台を続けていくつもりです。

■全国に拠点を持つ「劇団風の子」に入団

私が児童演劇の世界に入ったのは、大学を卒業した2年後の1978年でした。

大学卒業後、静岡大学の研究室で水俣病裁判の水銀分析の手伝いをしていたのですが、その研究室の先生が突然「これからは有機農業だ」と大学を辞めて、長野に移住してしまったのです。職を失い「次を探さないといけないな」と思っていた頃、たまたま、小学生時代に毎年学校で舞台を見せてもらっていた静岡の劇団、「劇団たんぽぽ」の公演があることを知りました。

懐かしく思って観に行ったところ、公演終了後に挨拶に出てきてくれた役者さんと話し込み、意気投合。「仕事がないなら、うちで制作スタッフを募集しているからこないか?」と声をかけてもらったのがご縁で、そのまま劇団で働くことになりました。劇団で働くなど、大学卒業のときは夢にも思いませんでしたが、なんだか水が合っていたのです。

いま私は「劇団風の子」というプロの劇団に所属しています。

風の子は、《子どものいる所、どこへでも》と《子どものことを考えることは、その国の未来を考えることだ》を合言葉に、全国・海外での公演を展開してきた劇団で、現在、北海道・東北・東京・中部・関西・九州と6グループがあります。会社員だった父の現役引退と自分の結婚を機に、両親と故郷の福島県喜多方市に帰ることを決めた私は、1984年に福島県でも仕事ができるこの劇団に移籍して、第二の劇団人生を歩むことになりました。

最初は「劇団風の子」の演目を福島県の小学校や中学校に売り込む、いわゆる営業の仕事をしていたのですが、地元にきちんと劇団をつくりたいと考えて、1993年に「風の子東北」を立ち上げ、いまに至ります。

■震災で月収10万円に。厳しい劇団員生活

大震災が発生した時は、劇団員は6人で活動していました。震災が発生する前から劇団の経営は徐々に大変になっていました。私たちの主な公演先は、小規模小学校や小規模幼稚園・保育園でしたが、こういうところが子どもの減少によって統廃合され、公演が減ってきたところに震災が発生しました。

風の子東北、2002年の喜多方市立駒形小学校「いっぺいあっからし」の公演の様子。当時は澤田さん以外にも劇団員が在籍していた
写真=筆者提供
風の子東北、2002年の喜多方市立駒形小学校「いっぺいあっからし」の公演の様子。当時は澤田さん以外にも劇団員が在籍していた - 写真=筆者提供

毎年、公演をやってもらっていた宮城県や福島県の沿岸部の幼稚園・保育園が津波の被害で消失してしまったり、小学校も学童クラブも被災したり、避難指示区域により休校になったり、子どもが県外に流出したりして、年間の公演数が30日くらい減ったのです。

また、再開されても被災地ということで県外からのボランティア公演が、ずいぶん実施されました。無料公演をしている団体は良いことをしていると思っていたと思いますが、そこを収入源としている劇団の仕事を奪っているなんて考える団体はなかったのです。

経営はますます大変になり、ピーク時には手取りで月19万円ほどあった給料は一律・減額で月10万円くらいになっていました。生活の苦しさや介護などの問題から、劇団員は離れていき、ついに私ひとりになりました。それでも解散するつもりはありませんでした。

当時の私は兄とふたり暮らしでした。震災の3年前には妻がガンで他界。長男は社会人となり独立し、次男は新潟の大学に進学。福島で兄と共に両親の介護をしていましたが、母は震災の年の8月に、父は翌年の4月に亡くなっていました。兄は年金をもらっていましたし、子ども一人ぶんの学費を出しても、生活はなんとかなります。今、こんな時だからこそ、福島県を拠点にするプロの児童劇団として、県民のためにできることをしなければと思いました。

■震災時、県民の情報源だったラジオを舞台化

新しい舞台を考えようとしたときに、思い浮かんだのがラジオでした。

この大震災の時、テレビでは津波の映像が流れていたのですが、奇妙に福島の映像は、あまり観ていませんでした。あとでわかったのですが、福島第一原発が危険な状態にあるという情報をすでにマスコミは知っていて、福島県内から撤退していたようです。私たち、県民の情報源は地元のラジオだったのです。

ラジオ福島は、社員が会社に泊まり込んで、コマーシャルなしで350時間以上、ノンストップで放送し続けました。また、安否確認や生活情報、県民の疑問や質問などもリアルタイムで放送していたので、本当に全県民がもっとも頼りにしたのです。このことがあって、メディアとしてのラジオの存在の大きさを改めて実感しました。芝居を創るなら、ラジオを題材としたものを創ろうと思ったのです。

テレビでは日を重ねるごとに、福島の状況を伝える報道が減っていきました。もとより福島の人に寄り添い、その声に耳を傾けてくれる報道は、当時からほとんどありませんでした。県外の劇団仲間に会えば「いま、福島はどうなっているの?」と聞かれます。このまま声を埋もれさせてはいけない。福島の今を伝える「フクシマ発」を創りました。

創立20周年記念祝賀会にて。劇団員は澤田さん一人で、フクシマ発の上演を開始した年
写真=筆者提供
創立20周年記念祝賀会にて。澤田さん一人で、フクシマ発の上演を開始した年 - 写真=筆者提供

■「福島のことを体が動く限り伝えて」

90回以上の公演のなかで、印象的だったことを紹介します。

北海道の札幌で公演した時、千葉県から避難してきた若い家族が観に来てくれていたのですが、若い父親が「私たちは、千葉県に住んでいたのですが、原発事故による放射線被曝が不安で、子どもが二人ともまだ小さいので、家族で北海道に避難してきました。周りの人たちからは、過剰反応じゃないかと言われたのですが、どう思いますか?」と聞かれたのです。私は「もちろん賛成です」と言いました。この家族は、きっといろいろ放射線のことを調べて、家族みんなで決めたことでしょう。

今度の原発事故で、避難する人と避難しない人が対立するということが起こりました。私は、どちらも正解だと思っています。避難する人には避難する理由があり、避難しない人には避難しない理由があるのです。どちらか一方が正義で、どちらか一方が悪だなんてことは誰にも決められないのです。

また、福岡県で公演したときに、杖をついて足が不自由な90歳くらいのおばあさんが、観に来てくれました。公演のあと、その人からお手紙をもらいました。この人は、長崎の原爆で被曝をした人でした。「私は長崎で被爆をし、その体験を若い人達に伝え、二度と戦争も原爆も使っていけないと語り部の活動を続けてきたのですが、私は体が動く限り語り部をするつもりです。あなたは、私よりはずいぶん若いので、福島のことを体が動く限り、全国で語り部として活動してください」というお手紙でした。この手紙には、勇気づけられました。たとえ、他の人から何を言われてもかまわない。この被爆者からの言葉は、その後の私の生きる道となったのです。

■いまも震災関連死が増え続ける福島

公演のあと、私は子どもたちに、将来、大学とか、専門学校とか、職場で福島の子どもたちと出会ったら、差別だけはしないほしいとお願いしています。

今度の原発事故で、まちがいなく、子どもたちに無用の放射線被曝をさせてしまったのです。この子どもたちに、何が大人としてできるのか。私の場合は、全国をまわって、同世代の子どもたちに福島の子どもを差別しないでくれというお願いをすることを、ずっと続けようと思っているのです。

劇を見る子どもたちの様子(2003年)
写真=筆者提供
劇を見る子どもたちの様子(2003年) - 写真=筆者提供

なぜなら、他県に避難した子どもたちが、避難先でいじめにあって苦しい思いをしたり、みずから命を絶ってしまったりしているのです。甲状腺ガンと診断されて(甲状腺検査結果の状況)手術を受け、喉に傷が残ったり、精神に傷が残り、将来に不安を感じたり、進学先や就職先をやめざる得なくなったり、結婚が破談になったりするという現実があり、いたたまれないのです。

被災三県といわれる岩手や宮城では、震災関連死は年々減少しているのですが、福島は増えていて、この1年間は36人が認定されました。震災関連自殺も、この1年間で12人もいるのです。大震災でせっかく助かった命が、日本社会のいじめによって殺されていく現状をなんとかしたいのです。原発が安全で未来のエネルギーだということに反対を唱えることなく、黙認してきた大人の責任としてです。

■人はつながりがないと生きていけない

私は、人間は、衣・食・住がそろえば最低限、生きられると思っていたのですが、この大震災を経験して、それだけでは生きられないということがわかりました。つらいことをつらいと言える他人、喜びを一緒に共有してくれる他人がいないと生きられないのです。つくづく3000年前のアリストテレスが、「人間は社会的動物である」といったのですが、本当にそうなのだと思いました。

日本国憲法25条に「健康で文化的な最低限度の生活を送る」という文章があるのですが、なんで文化的という言葉が入っているのか、わからなかったのですが、人と人をつなげていくのは、言葉だったり、歌だったり、とにかく広い意味での文化なのです。この年になって、初めて理解したのです。

これから福島は、つらい思いをした人が、未来に希望が持てるような社会、困っている人が困っているといえる社会、お互いの違いを認識し、一致できるところから連帯できる社会、まちがったとしてもやり直しができる社会、心地よい社会、差別や偏見のない社会をめざして、食料・エネルギー・医療が自立していけるような県になって、子育てしやすい環境で、老後も楽しいところになるように、私は演劇活動を通して考えていきたいと思う今日この頃です。

■「復興とはなんでしょうか?」

大震災から10年が経ち、いまの福島の課題でいうと、帰還困難区域を抱えている自治体では、除染をいつ実施し、放射線量を下げて、帰還を望む住人に解除の時期を示すことができるかどうかということがあります。

澤田氏がいまは亡き妻、聖子さんと創った絵本。会津磐梯町が舞台
澤田氏がいまは亡き妻、聖子さんと創った絵本。会津磐梯町が舞台

また健康問題では、子どもの甲状腺がんの調査、震災関連死および震災関連自殺をどう減少させることができるのか。心臓疾患や白内障の増加やうつ病の増加をどうやって止められるのかということがあります。

産業面では、漁業の本格操業の開始、教育、旅行の拡大、農地の回復、畜産業の担い手不足などがあり、消費者庁の調査によれば、全国アンケートで福島県産の農林水産物を買わない人が11%と減少傾向はあるものの、風評被害対策などがあります。

私は災害公営住宅の家賃が、国の補助金が打ち切られ、三倍近くに値上がりしたことには大いに不満があります。

原発関連でいえば、汚染水処理が大きな問題になっています。国や規制委員会は、希釈して海洋投棄を考えているようですが、それをすると福島の漁業が大打撃を受けることは明らかです。また汚染土の最終処分をどうするのか。多くの福島県民は、中間貯蔵施設が最終処分場になってしまうのではないかと危惧しています。そして、最終的に核燃料デブリを取り出し、本当に原発事故が収束されるのか。県民は疑念をもって見ているのです。

いま、世間ではコロナ禍による緊急事態宣言が出されているのですが、2011年3月11日に政府が原子力災害対策特別措置法にのっとって発令した「原子力緊急事態宣言」は10年が経過しても、まだ解除されていません。福島県は、いまだに原子力災害が進行中なのです。

いったい、復興って何なのでしょうか?

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澤田 修 劇団風の子東北 代表理事
公益財団法人福島県文化振興財団評議員、全国児童青少年演劇協議会運営委員、NPO法人KITAKTATA URAKATA 理事。1954年福島県喜多方市生まれ。幼少期は父親の仕事の関係で、静岡県浜松市で過ごす。劇団たんぽぽに入団。5年間在籍の後、故郷会津へ戻り、1984年に劇団風の子へ入団。東北・信越事務所の所長を経て、劇団風の子東北班の代表になる。2000年、企業組合劇団風の子東の代表理事に就任、現在に至る。受賞歴に、全国児童青少年演劇協議会正賞、日本児童青少年演劇協会賞など。

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(劇団風の子東北 代表理事 澤田 修)

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