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「どこか似通っている」陰謀論とポジティブ・シンキングはなぜ似てしまうのか

プレジデントオンライン / 2021年3月26日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BluIz60

書店に行くと、「なりたい自分」になるための「ソリューション」や「極意」を謳う、いわゆる自己啓発書がずらりと並んでいる。読書会「闇の自己啓発会」のメンバーである江永泉と木澤佐登志によれば、そこには昨今の「陰謀論」とも通ずる、「世界全体を一つの原理のもとへと単純化する」ニーズが見いだせるという――。

■「自己啓発」の変遷

書店に赴くと、「社会人」になろうとするひとや、「社会人」になったひと向けだとされる、さまざまな本が平積みになっています。サプリメントや栄養ドリンク、「清潔感」に必要なあれこれの用品のごとく、ちょっと足を運べば買えるところに、それらはあります。

それらのタイトルや帯には、「超」、「最強」、「ソリューション」、「極意」、「方法」、「法則」、「分析」、「力」、「助言」、「教え」、「気づく」、「ラクになる」、「身につく」、「これさえあれば」等々……といった文字列が頻出します。

それだけでなく、どこかで大事だと言われていた気がする熟語やカタカナ語や英語、もし解けたならば全てが上手くいきそうな問いかけ、じゃっかん命令じみている断言、……といった、読んだひとを「なりたい自分」にさせる効能があると主張する様々な惹句が踊っています。

そして、いかにも苦労を耐えしのいで勝ち抜いてきたのであろうと想像させる、「深み」の滲む人物の写真で、本の帯や表紙が飾られていたりします。

これらの本は、一般に「自己啓発書」と呼ばれています。どうやら「ビジネス」や「生き方」や「スピリチュアル」や「就活」の棚に置いてある本なども含めて、そのように一括りにする場合があるようです。しかし、「自己啓発」とは、一体なにを意味しているのでしょうか。

■400万部以上売れた『脳内革命』(1995年)

社会学者の牧野智和によれば、当初この言葉は、高度経済成長期下の労務管理の文脈において現れたといいます。ですが、その後「自己啓発」という言葉は、時代の変遷とともに意味もまた変化していきました。

春山茂雄『脳内革命』(サンマーク出版)
春山茂雄『脳内革命』(サンマーク出版)

たとえば1980年代には、ニューエイジ文化(占星術的観点から、魚座の時代が終わり、水瓶座の時代が来て、人類が真実に目覚めると期待されたらしいです)と結びつき、「精神世界の探求」といった文脈で用いられることが多くなりました。また、1990年代になると、より学問的な装いをまとう形で内面、つまり「心」がかつてないほど注目され、心理学者がマスメディアに登場して発言するようになります。

それと呼応するように、深層意識に隠された「ほんとうの自分」を明らかにしてくれると主張する心理テスト読み物が流行り、さらにそこから進んで、自分自身の「変革」を促す書籍が1990年代半ば頃からベストセラー入りしてくるようになります。その分水嶺として牧野の挙げる本が春山茂雄『脳内革命』(1995年)で、これは400万部以上売れたといいます。

こうして1990年代以降の自己啓発書は、定型化された技法やプログラムによって、自己の内面を変革ないしはコントロールすることが可能である、と謳うようになります(なお、以上を記述するにあたって、牧野智和『自己啓発の時代』(2012年)と牧野智和「自己啓発」(『現代思想』2019年5月臨時増刊号所収)を主に参照させていただきました)。

牧野智和『自己啓発の時代』(勁草書房)
牧野智和『自己啓発の時代』(勁草書房)

実は、このほかにも色々な文脈があります。これから触れる「ポジティブ・シンキング」を擁する欧米の文脈だけではなく、日本の文脈だけでも多様です。

例えば橋本左内『啓発録』といった幕末の人生訓があったり(吉田松陰の遺著『留魂録』でも言及される左内はその政論でも知られています)、あるいは今日のCSR(企業の社会的責任)の文脈で参照されもする石田梅岩をはじめ、いわゆる「通俗道徳」の担い手と言えるであろう、様々な近世思想家の著述があったりもするようです(ちなみにこの「通俗道徳」を論じ、近世民衆思想をピックアップした代表的な思想史家が、安丸良夫です)。が、話が壮大になって収拾がつかなくなるため、日本での変遷はいったん結びます。

■ドナルド・トランプのポジティブ・シンキング

さて、現代において「自己啓発」書を愛読しており、なおかつ、そこに記されたメソッドを強烈な仕方で実践してみせた著名人として、私たちはドナルド・トランプを挙げることができるかと思います。

長年マスメディアを騒がせてきた、文字通りの傍若無人な振る舞いは、ある意味で内面の徹底的な(反)コントロール、つまりは内心の徹底的な野放し(のポーズ)に貫かれていたようにも、遠目からは映ります(実際のところが、どうであったのかは、これからいっそう検証されていくことでしょう)。

トランプは若い頃から、ポジティブ・シンキングの唱道者で毀誉褒貶の大きい牧師、ノーマン・ヴィンセント・ピールに学び、著作『積極的考え方の力』(原著は1952年)を熱心に愛読してきたとされます。ポジティブ・シンキングとは、乱暴に一言でまとめれば「強い思考やイマジネーションはものごとの原因となる」という考え方です。

ノーマン・ヴィンセント・ピール『積極的考え方の力』(ダイヤモンド社)
ノーマン・ヴィンセント・ピール『積極的考え方の力』(ダイヤモンド社)

身も蓋もなく言うと、強く願えば、それはいつか必ず実現するということです。それだけならありがちな根性論にも思えますが、ここに具体的な自己暗示の方法などが混ざっていくと、何でもポジティブに捉えて、「願いに近づいてよかった」と考えるように強いる、悪しき風潮の下地にもなります(ひょっとすると、アメリカ版の「通俗道徳」を考える上で、重要な人物のひとりがピールなのかもしれません)。

紛らわしい用語などがあるので、補足します。ポジティブ・シンキングは、今日の心理学とはあまり関係がありません。それどころか、ポジティブ心理学の提唱者のマーティン・セリグマンは、(各々の着想のルーツには類似を多少なりと認めつつも)ピールの著作を批判しています。

むしろ、ピールの著述と関連するのは『思考は現実化する』という邦題の著作(原著は1937年)で知られるナポレオン・ヒルなどの、いわゆる成功哲学です。これらは一般に、19世紀アメリカのニューソート運動(ある種のスピリチュアリズム)の影響下にあるものとされます。例えば一般に「引き寄せの法則(Law of Atruction)」といったアイディアが知られていると思いますが、その淵源はこの思潮にあるようです。

話がオカルトめいてきたと思われるかもしれませんが、実際そうです。『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』(2020年)の著者、ゲイリー・ラックマンは、トランプの常に揺るがない「勝利」への自信の背後に、彼が若い頃から心酔していたポジティブ・シンキングの影響を読み取っています。

ゲイリー・ラックマン『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』(ヒカルランド)
ゲイリー・ラックマン『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』(ヒカルランド)

例えばトランプは1987年に発表した自伝のなかで「わたしは負けず嫌いで、勝つためには法の許す範囲ならほとんど何でもすることを隠しはしない」とすら述べていたみたいです。このような「勝利」への執念には、何か尋常ならざるものが感じられます。

ちなみに自伝にも登場する弁護士、ロイ・コーンが若き日のトランプに与えた影響も、よく指摘されるところです。そのコーンは1981年に発表した著作のうちで、『マタイによる福音書』を引きながら、概ねこのような話を述べていたそうです。

 
柔和な人々は[幸いであり、その人たちは]大地を受け継ぐ、と言われる[……]しかし私の経験上、柔和な人々が受け継げるのは、自分たちを早晩に葬るための地面だけだ。

晩年には法曹資格を剥奪された悪名高き人物、コーンに学んだ姿勢と、ポジティブ・シンキングによる心構えとの組合せは、おそろしい効果を発揮した、とまとめうるのかもしれません。

■自己啓発と陰謀論が重なるとき

ともあれ、ポジティブ・シンキングに根ざした自己啓発書は、私たちが思うことは必ず現実になるし、そのことに例外はひとつもない(ただし努力すれば)とするジェームズ・アレン『原因と結果の法則』(原著は1903年)など、今日でも盛んに翻訳され、書店に並んでいます。

ジェームズ・アレン『原因と結果の法則』(サンマーク出版)
ジェームズ・アレン『原因と結果の法則』(サンマーク出版)

ただの精神論なら騙されまいと思うかもしれませんが、例えば実用的なテクニックの開陳と合わせて主義主張を語られていたりすると、実績があり、信頼できる人の話ならばと、つい真に受けたくもなってしまうものです。

それを真に受けて、少なくともある程度は、「うまくいく」ように映る人も出てきてしまうことが、話をややこしくします。だから、実際の効能とは別の観点から捉えてみましょう。例えば、形式。自己啓発書はどういう形式で、なぜ需要があるのでしょう。

自己啓発書には、そのメッセージの受け手(読者)と同時に、送り手(著者)が常に必要です。自己啓発書が氾濫する時代とは、目標とするべき、規範となる自己のあり方や生き方を断定し、そこへ向けて読者を導いていくようなメッセージが大量に発信・消費されるような時代なのではないでしょうか。

■「世界全体を一つの原理のもとへと単純化する」

さきほど触れた牧野智和『自己啓発の時代』では、こうした情況から、現実、というよりこの世界全体を一つの原理のもとに単純化してくれるようなメッセージと、それを断定的に与えてくれる権威へのニーズの、現代における、かつてない高まりを看取しています(牧野前掲書73頁)。

この指摘は示唆的です。というのも、「世界全体を一つの原理のもとに単純化してくれるようなメッセージ」へのニーズの高まりは、ある意味で、近年における陰謀論に対するニーズの高まりとも相同関係にあるように思えるからです。というのも、陰謀論こそ「世界全体を一つの原理のもとへと単純化する」ニーズ(ここでは欲求または欲望)に支えられた、最たるものでしょうから。

アレックス・アベラ『ランド:世界を支配した研究所』(文藝春秋)
アレックス・アベラ『ランド:世界を支配した研究所』(文藝春秋)

単純化のニーズ。それはおそらく、アレックス・アベラの著作『合理の兵士:ランド研究所とアメリカ帝国の勃興[Soldiers of Reason:The RAND Corporation and the Rise of the American Empire]』(原著は2008年)を、同年に『ランド:世界を支配した研究所』という邦題で売り出したくなるような状況、そこで無視できないものとしてあるような、とあるニーズのことです。ここにある単純化を、理解の拙速さと解するだけでは見失われるであろう思い。――それは、透明性の希求です。何が何をして、どうなったのかを知ろうとする願望です。

要するに、陰謀論のニーズとは、不確実な謎ではなく確実な説明なのです。隠された秘密ではなく、知らなかった原理が求められているのです。まさしく、自己啓発さながら、「これさえあれば」、身近な困りごとや気になるニュースの原因がわかり、対策ができる。そういう知が欲されているのです。

■「必勝法」か「裏ワザ」か

陰謀論者にすら、ある種の透明性への希求、つまり情報公開や討論参加などへの志向が認められるのではないでしょうか。「陰謀」への関心の高まりを、ただ個々人の病的心理と捉えて済ませる見方に対して、2010年代前半から異を唱えてきた人物もいます。フランスの経済学者で哲学者のフレデリック・ロルドンです。

とはいえ、その一連の議論は、陰謀論の煽動力や危険性を過小評価していると批判されてもいるようです。しかしながら、個別具体の陰謀が実在するか否かという二値的な議論に留まらず、人々が知りたい内容と、人々が知り得る内容の格差という状況にも焦点を当てる、ロルドンのような観点は、無視できないものでしょう。

それらは「真の敵」の妄想や「一発逆転」の夢想である以前に、何よりまず、単純化された「必勝法」の手引きなのです。そこで示される「勝利」のイメージが、派手な成り上がりなどではなく、運の良い逃げ切りや、ギリギリでの生き残り、つつましいスローライフなどであっても、です。もっとも、他人を出し抜くゲームの「必勝法」は、参加者たちに「裏ワザ」を教えて、行動を限定することかもしれませんが。

■どちらにも「世界全体」を俯瞰できるキャラが出てくる

もちろん私たちは、自己啓発と陰謀論が現代社会の諸悪の根源だ、あるいは自己啓発と陰謀論が根本的には同じような「民衆のアヘン」だ、といった乱暴かつ荒唐無稽な主張がしたいわけではありません。特定の考えや語彙に親和的な人々を社会悪とみなし、その「判別方法」や「処遇」を論ずるというのは、よほどの状況であっても危険な振る舞いに映ります。

そうではなく、自己啓発書の読者がその仕事術や生活術や人生論に求めるニーズのあり方と、陰謀論者がその壮大な物語に求めるニーズのあり方とが、どういうわけか、(結果的には)どこか似通って見えてきてしまう、そうした興味深い現象に注意を向けてみたいのです。

水野敬也『夢をかなえるゾウ』(飛鳥新社)
水野敬也『夢をかなえるゾウ』(飛鳥新社)

自己啓発も陰謀論も、「ふつうの人々」に対して、その上であれ下であれ外であれ内であれ、どこに位置するかはともかく、「世界全体」を俯瞰できるがゆえに権威を持つような地位にあるキャラクターが、「答え」や「目的」などを、人々に一方的に与えます。そこでは、例えばカルロス・カスタネダの著作に登場する呪術師ドン・ファンや、水野敬也『夢をかなえるゾウ』に登場するガネーシャなど、明らかに非実在の存在から現にあった伝記的事実までが混在します。もっと直接的に、著者自身がメンターとして語るものも沢山あります。

そうした「答え」や「目的」の是非や、「原理」の出来具合、権威の担い手が善良か悪辣かなどは、ここでは問いません。私たちは、よい学び手を選ぶのが「必勝法」だと言いたいのではありません。詳しくは、個々別々に測るべき、としか言えないでしょう。おのずから懐疑が生じるまで、または、よそから声がかかるまで、ひとつの回路を究め尽くすのも一興かもしれません。

■自己啓発をハックせよ!

ですが、こうした固定化された回路から抜け出してみるのも、また一興なのではないのでしょうか。あるいは、それまでとはまったく異なる別の回路を作り出してみるとかも。知らなかった「原理」や「真実」というアイディア、その「知らなかった」の語に力点を置くならば、私たちは、とびきり厄介な「陰謀論」にすら潜在する、一種の言葉の力――何らかの世界像を通して、変化の可能性がある「感じ」を生産し、認識や行動の勇気を触発する作用――に注目できるようになります。

あらためて、「ポジティブ」に(?)、「自己啓発」に向き合ってみましょう。解答ではなく、問いを提起すること。未知の考え方やものの見方を提示すること。啓発=啓蒙(Enlightenment)とは、そのようなものではなかったでしょうか。与えられた解答や目的に向かって生きるのではなく、みずからの生をひとつの「謎」として生きること。それを、単なる「セルフブランディング」を超えて、共に試みてはいけないでしょうか。

自己啓発をハックして、新たに「啓発」しかえすこと。それは、押しつけられたスキルを、命じられたのとは別の目的にも、用いようと試行錯誤することです。

そうすれば、「陰謀論」にだって、向き合いなおせるはずです。みずからの生を、みずからの力で、言ってしまえば、ひとつの「陰謀」として構成すること。それは、受け売りではない自前の世界像を持とうと切磋琢磨することです。

■「闇の自己啓発」という試み

もちろん、そうした試みを共にうまく続けるには、自前の世界像で他者を押しつぶさないように折り合いをつけるとか、職業規範とは別の倫理で適宜に自身の野放図を律するとか、そういう徳が、多かれ少なかれ求められることになるでしょう。衝動や白昼夢を手放しにすると紋切型に陥りがちですが、それだけでは大変な破綻が招かれる場合もあります。

江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』(早川書房)
江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』(早川書房)

しかし、各々が「なりたい」何かを、共に探求するとは、そうした危機をうまく切り抜ける営為を指すようにも思うのです。異なる徳の持ち主が一同に「会」し、適度にぶつかり、すれ違いながら話を「回」すこと。それは原理や真実やモデルを提示する権威(送り手)とそれを鵜呑みにするか吐き捨てるしか選べない読者(受け手)という在りようとは、異なる何かをつくるための試みです。

字面にあやかりながら言えば、各々の「転回」の「機会」、いわば「神回」が到来する余地をつくることが、共に「会読」や「回読」という形で、私たちが「集会」を試みる際の、ひとつの大切な動機なのでしょう。

このようなメンタリティ、そして実践を言い表し、より洗練させていくために、私たちはこんな造語を用いてみました。――すなわち、「闇の自己啓発」。その試みは、まだ「普請中」です。

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江永 泉(えなが・いずみ)
「闇の自己啓発会」発起人
1991年生まれ。「闇の自己啓発会」発起人。専攻は文化研究、文学理論。論考に「少女、ノーフューチャー――桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論」(〈Rhetorica#04〉所収)など。

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木澤 佐登志(きざわ・さとし)
文筆家
1988年生まれ。文筆家。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド――社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス)、『ニック・ランドと新反動主義――現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書)。晶文社のウェブサイトで「ビューティフル・ハーモニー」を、大和書房のウェブサイトで「失われた未来を求めて」を、〈SFマガジン〉(早川書房)で「さようなら、世界――〈外部〉への遁走論」を連載。

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(「闇の自己啓発会」発起人 江永 泉、文筆家 木澤 佐登志)

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