両国国技館でアントニオ猪木を"秒殺"した外国人レスラーがいた
プレジデントオンライン / 2021年3月29日 11時15分
※本稿は、斎藤文彦『忘れじの外国人レスラー伝』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
■プロレス史の分岐点となった衝撃のデビュー戦
新日本プロレス、UWFインターナショナル、全日本プロレス、プロレスリング・ノアの国内メジャー4団体でトップ外国人選手として活躍した平成の“最強ガイジン”。体重440ポンド27(約198キロ)の超巨漢タイプだが、身体能力がひじょうに高く、アスリートとしての適応性に優れ、日本、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパの主要団体で世界王座を通算14回獲得した20世紀最後の国際派スーパースターだった。
1987(昭和62)年12月27日、ビートたけしのTPG(たけしプロレス軍団)の刺客としてビッグバン・ベイダーのリングネームで新日本プロレスのリングに出現し、デビュー戦でいきなりアントニオ猪木と対戦。3分弱のファイトタイムであっさり猪木から3カウントのフォール勝ちをスコアした。
試合終了後、超満員札止めの1万人超の観客のほとんどが席を立とうとせず、リング内にモノを投げ入れたり、一部ファンが会場内の器物を破損するなどして暴動騒ぎが起きた。
どうやら1万人の観客の怒りは、猪木が新顔の外国人選手にあまりにもあっけなく敗れたことではなく、ファンの感情を逆なでするような新日本プロレスの場当たり的なカード変更と消化不良の試合内容に対して向けられたものだった。昭和のプロレスファンはとことん熱かった。
この暴動騒ぎで日本相撲協会が新日本プロレスに国技館の“無期限使用お断り”を通告(89年=平成元年に解除)するというおまけがついた。ベイダーは記憶にも記録にも残る“歴史的”な興行でメインイベントのリングに立っていたのだった。
80年代の猪木は、アンドレ・ザ・ジャイアントにもハルク・ホーガンにも、スタン・ハンセンにもブルーザー・ブロディにも3カウントのフォール勝ちを許したことはなかったから、ベイダーによる“秒殺シーン”は衝撃的だった。
この試合をひとつの分岐点に昭和の“猪木ワールド”はそのエピローグを迎え、日本のプロレス・シーンのいちばん新しい登場人物となったベイダーは平成の“最強ガイジン”の道を歩みはじめたのである。
■日本の観客とのコミュニケーションを短期間で会得
新日本プロレスには88年から92(平成4)年まで約5年間、在籍。ジャパニーズ・スタイルのプロレスとサイコロジー――試合における観客とのコミュニケーション――を短期間でマスターし、トップ外国人選手のポジションに立った。
ベイダーが目撃した新日本プロレスは、昭和から平成、リング上の主役が猪木から長州(ちょうしゅう)力(りき)、藤波(ふじなみ)辰巳(たつみ)(90年より「辰爾(たつみ)」)、さらに武藤(むとう)敬司(けいじ)、蝶野(ちょうの)正洋(まさひろ)、橋本真也(しんや)の“闘魂三銃士”世代へとバトンタッチされた時代だった。89年4月、史上初の東京ドーム興行『格闘衛星★闘強導夢』では王座決定トーナメント戦(1回戦で蝶野、準決勝で藤波、決勝で橋本)を制してIWGPヘビー級王座を獲得した。
平成元年は猪木が参議院選出馬――当選により新日本プロレス社長を勇退、坂口征二が引退――新社長就任という“政権交代”が起きた年で、坂口とジャイアント馬場の対話路線から新日本プロレスと全日本プロレスの団体交流がスタート。90年2月、新日本プロレスの2度めの東京ドーム興行ではベイダー対スタン・ハンセンの両団体のトップ外国人選手の対決が実現した。
この試合は両者リングアウトの痛み分けという結果に終わったが、おたがいのプライドをかけたひじょうに高いレベルでのプロレス哲学の交錯が、いまなお語り継がれる名勝負を生んだ。筆者が『週刊プロレス』(№363=1990年2月24日号)に執筆した試合リポート記事(漢字づかい、送り仮名、カタカナ表記も原文のままとした)から引用する。
交流戦と呼ぶにはあまりにも壮絶
ベイダーハンセン、ザ・頂上決戦
東京ドームのリングで団体交流戦をもっとも強く意識していたのは、天龍でもなければ長州でもなかった。ビッグバン・ベイダーとスタン・ハンセンは、新日本、全日本の看板外国人という立場以上に、日本をホームリングとするアメリカ人レスラーの代表として、極限状態に近い緊張感を持ってリングに上がってきた。
大物ガイジン同士の対戦というと、まったく期待はずれの凡戦か各選手のキャラクターを適度に楽しむ顔見せのどちらかになってしまうのがふつうだが、ベイダーとハンセンのぶつかり合いは、日本人対決以上に日本的な神経戦だった。(中略)
■持てる技をすべて出し尽くした両者
先に仕掛けたのはハンセンだった。あっという間にもの凄い殴り合いになった。神
経戦が悪い方向に展開した。いったい何がどうなったのか、ベイダーが自らの手でマスクを脱ぎ捨ててしまった。マスクの下から現れたレオン・ホワイトの顔は右目が完全にふさがって見るも無残な姿になっていた。
あとでわかったことだが、試合開始直後のパンチ合戦でハンセンの放ったエルボーが、ベイダーのまぶたを直撃してしまったらしい。もちろん、これはあくまでアクシデントと解釈すべきだろう。プロレスは町のケンカではない。
思わぬ負傷でファイトに火がついたのはベイダーのほうだった。トップロープからのベイダー・アタック、アバランシュ・ホールド、ラリアットとたてつづけに大技をくり出して勝負をかけていった。戦場がリング内から場外、再び場外からリング内へとめまぐるしく移り変わる。場外戦が長びくたびにベイダーがハンセンを、ハンセンがベイダーをリング内に投げ入れる。あくまでリングのなかでの勝負にこだわる両者の姿勢は好感が持てた。これが東京ドームでなくアメリカのリングだったら、もっと早いタイムで両者リングアウトになっていたかもしれない。
リングのほぼ中央で、ハンセンが左腕のサポーターに手を当てた。元祖ラリアットへのプロローグだ。ベイダーがロープに振られた。ハンセンが助走つきラリアットの体勢に入る。しかし、これをよく見ていたベイダーはカウンターのドロップキックで切り返していく。
今度はベイダーがハンセンの首筋にラリアットをめり込ませた。ハンセンも黙ってはいない。予告なしのラリアットをお返しだ。持てる技をすべて出し尽くした両者は、もつれ合うようにして場外へ転落していった。この時点ですでに実質的なドローが決まった。両者リングアウトがどうしても避けられない試合もあるのだ。〔『デケード』下巻/初出『週刊プロレス』(1990年2月24日号)〕
■アメリカのWCWでもチャンピオンに
1992(平成4)年6月のシリーズ興行を最後にベイダーは日本のリングからいったんフェードアウト――新日本プロレスからは公式発表はなかった――し、もともと新日本プロレスからのリース契約という形で限定スケジュールを消化していたWCWに活動の場を移し、翌7月にはスティングを破ってWCW世界ヘビー級王者を奪取。その後、同王座を通算3回獲得した。ベイダーは世界じゅうのどこの団体でもメインイベンターの証(あかし)=チャンピオンベルトを手に入れた。
■UWFインターから全日本プロレスヘ
“青天のへきれき”といったら大げさかもしれないが、93年5月、UWFインターナショナルがベイダーとの契約を発表した。
1984(昭和59)年に“第3団体”として誕生したUWFは、従来のプロレスからショー的要素を排除し、打撃技、投げ技、関節技を主体とした格闘技色の強い試合スタイルを模索した運動体で、91年発足のUWFインターナショナルはそのスピンオフ団体だった。
スーパー・ベイダーの新リングネームでUWFインターナショナルのリングに登場したベイダーは、94年8月、高田(現・髙田)延彦を下して『プロレスリング・ワールド・トーナメント』に優勝。“20世紀の鉄人”ルー・テーズの流れを汲むプロレスリング世界ヘビー級王座を獲得した。
アメリカ国内ではWCWからWWEに移籍し、新顔のサプライズとしてスーパーイベント“ロイヤルランブル”でデビュー(96年1月21日=カリフォルニア州フレズノ)。同年の“サマースラム”のメインイベントでショーン・マイケルズが保持するWWE世界ヘビー級王座に挑戦したがフォール負け(8月18日=オハイオ州クリーブランド)。WWEには2年8カ月間在籍したが、ついにいちどもチャンピオンベルトを手にすることはできなかった。
ベイダーは日本のファンがこれらのWWEの試合映像を目にするかどうか、それによって日本での自分の評価が変わってしまうかどうかを気にかけていた。大きな体のわりに性格的にはひじょうに繊細なところがあった。
■「三沢は最大級の尊敬に値するレスラー」
WWE退団後は全日本プロレスに活動の場を求め、98年5月、同団体の初の東京ドーム興行に出場、同年、ハンセンとのコンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』にも出場した。ベイダーとハンセンのあいだには、ふたりにしかわからない友情があった。
全日本プロレスに在籍した2年間で三沢光晴、川田利明、小橋健太(現・建太)、田上明、秋山準の“四天王プラス1”とそれぞれシングルマッチで対戦し、三冠ヘビー級王座を通算2回獲得。2000(平成)年6月、三沢グループの全日本プロレス退団――プロレスリング・ノア設立と同時にベイダーも新団体に移籍した。
猪木から闘魂三銃士世代までの新日本プロレス、格闘技スタイルのUWFインターナショナル、馬場と四天王世代の全日本プロレスをリアルタイムで体感したベイダーは、現役生活の最後のチャプターとして三沢のプロレスリング・ノアを選択したのだった。
わたしはわたしなりにジャパニーズ・スタイルとはいったいどんなものなのかという定義を持っている。たとえ試合に負けたとしても、自分のなかの闘う姿勢、ハートのいちばん奥の部分を絞り出せば、日本の観客はそれを正当に評価してくれる。それがジャパニーズ・スタイルだ。〔『プロレス入門II』/初出『週刊プロレス』(2002年8月15日号)〕
■余命宣告の公表後に日本で生涯最後の試合
ベイダーにとって最後のホームリングとなるはずだったプロレスリング・ノアとの関係は、03年、契約解除という形で唐突に終わった。このときのいきさつについてベイダーは多くを語らなかった。
04年にはWJプロレス、ファイティング・オペラ“ハッスル”を経由して武藤体制となった全日本プロレスのリングにも上がり、アメリカ国内ではTNA(トータル・ノンストップ・アクション・レスリング)、全米各地のインディー系団体などで短期間のツアーを継続した。50代に手が届いたベイダーは試合数はぐっと減らしたが引退宣言はしなかった。
61歳になったベイダーは、16年11月、おそらくおぼえたてであろうツイッターで「先天性の心臓疾患でドクターから“余命2年”を宣告されたこと」を全世界に向けて発信した。
それでも、翌年の17年4月には藤波辰爾主宰のドラディションのミニ・シリーズ興行のために来日。シリーズ最終戦の大阪大会では藤波、長州とトリオを組んで藤原喜明&越中(こしなか)詩郎(しろう)&佐野巧真(たくま)と6人タッグマッチで対戦した。これが生涯最後の試合となった。
両国国技館での“暴動”のデビュー戦から30年の歳月が経過しようとしていた。ビッグバン・ベイダーというプロレスラーは日本のリングで生まれ、日本のリングでその命をまっとうした。まるで日本のファンにお別れを告げにきたような短い旅だった。
その日、ベイダーの息子ジェシー・ホワイトはツイッターに“お知らせ”の投稿をアップした。
18年6月18日、コロラド州デンバーの自宅で死去。63歳だった。
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プロレスライター、コラムニスト
1962年東京都生まれ。オーガスバーグ大学教養学部卒業、早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了、筑波大学大学院人間総合科学研究科体育科学専攻博士後期課程満期。在米中の1981年より『プロレス』誌の海外特派員をつとめ、『週刊プロレス』創刊時より同紙記者として活動。『プロレス入門』(ビジネス社)『昭和プロレス正史(上下巻)』(イースト・プレス)ほか著書多数。
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(プロレスライター、コラムニスト 斎藤 文彦)
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