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「あんたを産んだのは私じゃない」母親に薄笑いされた妊娠8カ月の娘にあふれる涙

プレジデントオンライン / 2021年3月27日 8時45分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Milatas

バブル経済が崩壊した1993年、東京で美容師として働いていた26歳の女性は、親から帰郷を命じられる。以来、束縛の強い両親に従い続け、心身のケアをしている。父親はがん、心筋梗塞など大病を患うが、母親は一切世話をしない。母親は娘(女性)が妊娠8カ月の際には、突如「あんたは私の子ではない」と衝撃告白。崩壊寸前の家族に何があったのか――(前編/全2回)。
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。

■六本木で美容師をしていた女性が両親に帰郷を命令され、束縛される

「あんた、もういい歳なんだから、いいかげん帰ってきなさい!」

1993年の秋、当時26歳の蜂谷歩美さん(現在54歳)が働く東京・六本木の美容室に、母親(当時59歳)から電話がかかってきた。

「ちょうど仕事が楽しくなってきていた頃で、実家になんか帰りたくありませんでしたが、タイムリミットだと諦めました。優しい職場の方たちは、みんなで私を胴上げして見送ってくれました」

翌年、蜂谷さんは実家へ帰り、すぐに地元の美容室で働き始める。帰宅は毎晩夜の9時ごろだったが、必ず両親の近くまでいって「ただいま」と挨拶をしなければならず、残業で遅くなるときは、蜂谷さん自身ではなく、経営者から電話を入れないといけない。

両親はとにかく束縛がきつく、娘を自分の思い通りにしようとした。特に、当時66歳の父親は、蜂谷さんが忘年会などで帰りが午前様になっても居間で待っているような人だった。

1995年、蜂谷さんは29歳で自分の店をオープンする。母親も美容師だったが、開店休業状態の自宅兼店舗を改装し、店名も変えた。

開店すると、両親は店に関わりたいのか、勝手に来て客に話しかけたり、客に軽食を出したり、客の自転車を磨き始めたり。「迷惑だからやめて」と説得してもやめない。

ある日、母親がアシスタントの女性にシャンプーをさせていたので蜂谷さんが注意すると、母親はビンタを2発食らわせた。それでも我慢するしかなかった。

■母の衝撃的告白「あんたは、私から産まれた子どもじゃないんだよ」

1998年、蜂谷さんは30歳で結婚。夫は婿に入った。同じ年に男の子を妊娠し、8カ月を迎えた夏、事件は起こった。それはあまりにも唐突な出来事だった。

「いいことを教えてあげようか? あんたは、私から産まれた子どもじゃないんだよ」

母親は身重の蜂谷さんにニヤニヤしながら、そう言った。冗談ではなかった。これでもかというほど涙が後から後から溢れた。時間は止まり、何も考えられなくなった。

そういえば……。蜂谷さんは、ふと子供の頃のことを思い出した。

1977年の秋のある夜、小学校4年生だった蜂谷さんは、仕事から帰ってきた父親が「ただいまー、開けてくれ」と玄関の戸を叩く音を聞いた。鍵を開けようとすると母親が止める。

「あれは狐だから、開けるんじゃないよ」

何を言っているんだ、母は。意味がわからなかった。しばらくすると父親は家の中へ入ることが許され、母方の祖母(母親の母親)と叔父(母親の弟)がやってきた。父親が電話で呼んだらしい。別室で祖母たちは、母親をなだめているようだったが、母親は大きな声でこう言い放った。

「私は、○○ちゃんみたいな子がほしかったのよ!」

それは蜂谷さんと同じクラスの優等生の名前だった。一体母は何を言いたいのか。当時は理解できなかったが、「私から産まれた子どもじゃない」発言ですべてがつながった。

翌日、蜂谷さんが学校から帰ると、父親からやぶから棒に「母さんが入院したのはお前のせいだ!」と責められた。その後、母親との面会に連れて行かれたが、どんな会話をしたのか、会話をしたのかどうかも定かではない。その病院は、高い塀に囲まれ、門が施錠され、面会室も入口に鍵がかかっていた。それだけは覚えている。

その日、父親からは「母さんが入院してることは、誰にも言うんじゃないぞ」と言われ、寂しくつらい気持ちを誰にも吐露できなかった。

「(当時)母はノイローゼと言われました。激しい波と穏やかな波を繰り返し、特にイベントごとがあると症状が悪化します。私は、『自分のせいで母が病気になったのなら、とにかく良い子でいるしかない』とだけ思って過ごしました」

母親は約5カ月後に退院したが、喜ぶことはできなかった。強権的な父と、情緒が不安定な母に囲まれた生活が楽しいはずがなかった。ただ小6の頃、母親の妹である叔母の夫が病死したため、一時的に叔母一家が同居すると、蜂谷さんの張り詰めた生活は少し楽になった。

母親の精神状態は徐々に悪化したが、蜂谷さんは高校卒業後、両親が勧めるままに都内の美容専門学校へ入学し、寮生活を開始。卒業とともに六本木の美容室に就職した。

■「胃がん、認知症」連続して大病を患う父親を全力サポート

帰郷して7年たった2001年8月。蜂谷さん(当時35歳)が経営する美容室は軌道に乗っていた。ところがある日、悪い知らせが届く。74歳の父親が胃がんになり入院したのだ。幸いステージ1だったが、開腹手術を行うことに。

蜂谷さんが暮らす土地には、近隣に両親の親戚一同が住んでおり、父親が手術すると聞くと、当日、病院に10人以上の親族が詰めかけた。

しかし、9月に退院できるはずだった父親は、嘔吐が続き、再手術となるが、再手術後も嘔吐は止まらず、再々手術に。医師にも焦りがにじんでいた。父親は20キロ以上も痩せ、認知力も低下。その間、2歳になっていた蜂谷さんの息子が気管支喘息で入院し、病院に泊まり、病院から美容室に出勤した。

患者のために人工呼吸器の設定を行う医師の手元
写真=iStock.com/TAO EDGE
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TAO EDGE

そして11月のある日、父親の病院から美容室に、「お父さん帰ってきていませんか?」と電話がかかってきた。蜂谷さんは一瞬「?」と思ったが、「いませんよ」と返事をする。だがその直後、点滴を2つもぶら下げたままの父親がタクシーから降りてくるのが見えた。

蜂谷さんはすぐに病院へ連絡。父親は4カ月に及ぶ入院で「家が恋しくなった」と言った。認知症が進んでいることは誰の目にも明らかだった。

悪いことは重なる。2歳になった息子が気管支喘息に続き、マイコプラズマ肺炎で入院することに。認知症の父親と息子の入院付添と、仕事の切り盛りとで疲れ果てた蜂谷さんを見かねた夫が、仕事を休んで息子に付き添ってくれた。

一方、母親は、「お父さんが死ぬのに、こんな古い家では葬式ができない。家を建て替える」と言い出し、父親の保険を解約してしまったかと思えば、今度は伯父(父の兄)に大金を渡してしまい、母親自身はそのことを忘れて蜂谷さんを泥棒呼ばわりする。

11月末。父親は退院となったものの、嘔吐の症状は変わらず。マメに動く人だったが、毎日横になり、寝ていることが増える。そしてヘビースモーカーの両親は、何度か寝タバコをして畳を焦がした。

■さらに心筋梗塞、脳梗塞になった父親を母親は一切世話せず

2004年。叔母(母親の妹)と出かけていた母親(当時70歳)が、帰宅するなり喋り方がおかしい。蜂谷さん(当時33歳)が病院へ連れて行くと、母親が受けた診断は脳梗塞。2週間ほど入院することになった。

この頃、蜂谷さん一家は、実家を2世帯住宅に改築しようとしていた。夫と共に家の打ち合わせに行くが、夫は通信ゲームに夢中。打ち合わせがゲームのために中断されることもしばしばだった。

2005年2月。新しい家が完成。母親は、脳梗塞の後遺症はほとんどなかったが、仮住まいに移る日も新しい家に移る日も、韓国ドラマに夢中で何ひとつ手伝わなかった。

同年4月には息子が小学校へ入学した。

翌月、父親が心筋梗塞を起こし、内視鏡手術となったが、母親はやはり我関せずを決め込む。母親は昔から、近所の葬儀の手伝いなど、自分がやりたくないことは全部父親に押し付けていたが、父親に押し付けられなくなると、蜂谷さんに押し付けるようになった。

父親は無事手術を終えたが、再び病院を抜け出す。

蜂谷さんはケアマネジャーに相談し、父親の介護認定を打診。介護認定検査に連れて行くが、「待ち時間が長い!」と言って父親はつえを振り回す。ようやく検査を終えて帰路に就いたが、父親は車の中でも暴れた。

結果、父親は要介護3。すぐにデイサービスへの段取りをつけてもらう。

■「延命措置は希望しますか?」と訊ねられ「結構です」と即答したワケ

ある晩、母親が目を離した隙に父親が徘徊。転んで額に大けがを負う。気付いた誰かが救急車を呼んでくれたため、蜂谷さんは父親と共に病院へ。父親は傷を縫合してもらい、入院した。

その退院の日にも、母親は動かなかった。蜂谷さんの夫は子育てには協力的だったが、介護に関しては何ひとつ手伝ってはくれない。だが、足腰の弱った父親を、女性の蜂谷さん一人で連れ帰るのは難しい。仕方がないので店の男性スタッフを連れて父親を迎えに行った。

集中治療室で懸命に治療にあたる医師たち
写真=iStock.com/Georgiy Datsenko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Georgiy Datsenko

2007年5月。父親はデイサービスで再び脳梗塞を起こし、半身まひに。ケアマネジャーが入居できる施設を複数提案してくれたが、蜂谷さんは入所を迷った。すると店の女性スタッフが、「入所できるところがあるうちに入っておいたほうがいいですよ」と背中を押してくれた。

父親はグループホームに入所。すると、それまで父親の症状がどんなに悪くなっても関わらなかった母親が急に「父親に面会したいから連れて行け!」と言うようになる。

蜂谷さんは39歳。昼間は美容室で働き、休みの日は父親の面会。息子の帰宅前には家にいるようにした。

6月。日差しが強くなってきたので、蜂谷さんは夫と息子とで帽子を買い、父親にプレゼント。しかし父親はもう、孫の名前さえわからなくなっていた。

その数日後、グループホームから「お父さんが肺炎を起こして発熱しました」と電話が入るが、母親はまた動かない。蜂谷さんが一人で行くと、「延命措置は希望しますか?」と訊ねられ、蜂谷さんは「結構です」と即答した。

■父の葬儀の日が、40歳の誕生日。蜂谷さんは不整脈を起こし、脈拍180

「冷たく思われるかもしれませんが、好きな食べ物も食べられず、何の楽しみもない父。自分だったらと思うと、これが最善だ、もう十分だと思いました」

7月。グループホームからの電話で、「お父さん、息をしていません」と聞いた蜂谷さんは、そのまますでに亡くなった父親のもとへ向かった。母親は叔母と買物。夫と息子はゲームセンターへ行っていた。

父親の葬儀の日、久しぶりに会った従姉妹が、「誕生日おめでとう!」と、言ってくれた。偶然にも父親の葬儀の日が、蜂谷さん40歳の誕生日だったのだ。

蜂谷さんは葬儀後、不整脈を起こした。脈拍は180。時間外で病院を受診し、注射で数値を下げてもらい、念のため2時間点滴を受けた。

以下、後編に続く。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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