アメリカで大人気のプロレスラーが佐々木健介とのタッグを選んだワケ
プレジデントオンライン / 2021年3月31日 11時15分
※本稿は、斎藤文彦『忘れじの外国人レスラー伝』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
■立っているだけで観客のハートを揺さぶる存在
モヒカン刈りがアニマルで、逆モヒカン刈りがホーク。ザ・ロード・ウォリアーズは、だれがなんといおうとアメリカのプロレス史上、もっともビッグなタッグチームである。実力と人気、キャラクターのオリジナル性、世代を超えた影響力とどれをとっても比類なきスーパースター。そこに立っているだけで観客のハートを揺さぶる、ギリシャ彫刻のような芸術的な肉体を持った男たちだった。
ロード・ウォリアーズはある日、偶然のような感じで誕生した。
デビュー当時のプロフィルは「シカゴのスラム街育ちで、少年時代はネズミを食って暮らしていた」というものだったが、もちろんこれは完ぺきなファンタジーで、ホーク=マイク・ヘグストランドは1957(昭和32)年1月26日生まれ、アニマル=ジョー・ローリナイティスは60年9月12日生まれで、ふたりとも北部ミネソタのわりとふつうの家庭で育った。
師匠のエディ・シャーキーは、レスリング・スクールの同期生だったホークとリック・ルードにタッグチームを組ませるつもりだったが、ジョージアのプロモーター、オレイ・アンダーソンはホークとアニマルのコンビのほうがおもしろそうだと考えた。
オレイは「じゃあ、キミとキミね」といってふたりを指さした。もしも、このときオレイ・アンダーソンが体が大きくて、運動神経がよくて、まだメジャー団体のリングを経験していない(ギャラの安い)ルーキーを探していなかったら、ロード・ウォリアーズはこの世に存在していなかった。
■まる9年間、年間250~300試合のツアー
ロード・ウォリアーズは、年間250~300試合のツアー・スケジュールをまる9年間つづけたあと、コンビを解散し、それぞれ別々の道を歩もうとしたことがあった。タッグチームとしての最後の試合は1992(平成4)年8月、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催された世界最大のプロレス団体WWEのスーパーイベント“サマースラム”だった。
WWE在籍時のチーム名はLOD(リージョン・オブ・ドゥーム)。ロード・ウォリアーズというタッグチームの版権・知的所有権はロード・ウォリアーズのもので、リージョン・オブ・ドゥームはタイタン・スポーツ社(WWEの親会社=当時)が保有する登録商標。ホークとアニマルは、WWEのリングでは“LOD”というイニシャルがプリントされたおそろいの黒のロングタイツをはいていた。
ホークはその1年ほどまえからWWEとの契約を解除したがっていた。しかし、アニマルは残留を強く主張し、ことあるごとにふたりは衝突をくり返した。ふたりのケンカを収めるために、休業していたマネジャーのポール・エラリングが現場に復帰してきた。やっぱり、あくまでもホークとアニマルがいっしょじゃないとビジネスにならなかった。
■黄金タッグとしての活動を一時休止
ウェンブリー・スタジアムでの試合が終わった翌日、ホークは「こんなとこにはいられない」といって予定されていたテレビ撮りの日程をすっぽかして、さっさとひとりでアメリカへ帰ってしまった。
相棒のホークが単独行動に出たことで、なんとなくとり残されたアニマルも戦線離脱――長期欠場を選択した。尾てい骨にヒビが入ったまま試合をつづけていたし、左ヒジも手術をしなければならない状態だった。だいたい、リングに上がることが楽しくなくなっていた。
ホークはすっかり疲れきっていた。ほんのしばらくのあいだでいいからノーマルな生活がしたかった。ふたりの兄とすぐ下の弟はちゃんと結婚をしていて、みんな子どももいた。しばらく会わないでいるうちに甥っ子たちも姪(めい)っ子たちもどんどん大きくなっていた。
■日本のプロレス界から打診された「極秘プロジェクト」
WWEをおん出てホームタウンのミネアポリスでのんびりしていたホークに、旧友のマサ斎藤から連絡が入った。ロード・ウォリアーズとまったく同じコンセプトのタッグチームを日本のリングでプロデュースするという“極秘プロジェクト”だった。
新しいパートナーは、売りだし中の若手だった佐々木健介。アメリカ人レスラーと日本人レスラーによるロード・ウォリアーズのようなタッグチーム。マサからのリクエストは「ニュー・ロード・ウォリアーズをやってほしい」とのことだったが、ホークは「ロード・ウォリアーズの続編ではなくて、まったく新しいサムシングなら」と返答した。
■タッグチームの名は六本木のバーで決まった
チーム名が決まらないまま日本にやって来たホークは、ある夜、六本木の行きつけのバー“ミストラル”のカウンターでひとりでビールを飲んでいた。それほど広くない店内では、聞きおぼえのあるボーカルのあまり聞きおぼえのない曲がかかっていた。すごく気になる音だった。ホークはバーテンダーにこうたずねた。
「いまかかってるこの曲、これはブラック・サバス?」
バーテンダーはこう答えた。
「オジー・オズボーンですね」
「オジー・オズボーン? なんて曲?」
バーテンダーはまた答えた。
「オジーの新しいアルバムに入ってる曲。“ヘルレイザー”ですかね」
ロード・ウォリアーズの入場テーマ曲は伝説のロックバンド、ブラック・サバスの名曲“アイアン・マン”で、いまかかっているこの“ヘルレイザーHellraiser”は、ブラック・サバスを解散後、ソロシンガーになったオジー・オズボーンのいちばん新しい曲。“アイアン・マン(鋼鉄の肉体を持った男)”はロード・ウォリアーズのイメージそのもので、“ヘルレイザー”はトラブルばかり起こすワイルドな男、厄介者、やんちゃ坊主といったニュアンスだ。ホークは「これだ!」と直感した。
■前代未聞のスピンオフ
新日本プロレスと専属契約を交わしたホークは、それから約3年間、日本のリングで年間20週間のツアー・スケジュールをこなすようになった。外国人選手と日本人選手がタッグを組んで試合をすること自体はそれほどめずらしくはなかったが、ホークほどのステータスのスーパースターが日本人選手と正式にタッグチームを結成して活動した前例はなかったし、ロード・ウォリアーズのようなひとつの時代を代表する正真正銘の“ブランド品”のスピンオフが日本の団体でプロデュースされたこともなかった。
ホークは、佐々木健介という自分よりもひと世代若いレスラーに興味を持った。
「まったくちがうなにか。ケンスキーはあらゆる面でアニマルと比較されてしまうだろ。ビジュアルは似ているかもしれないけど、やっていることも、求められているものもまったくちがう。すぐに気がついたよ。ウォリアーズのマネをしてはいけないんだってね」
■「またプロレスがおもしろくなってきたんだ」
ホークのイメージカラーは黒と赤で、健介のそれは黒とグリーン。シルバーの金属スパイクをあしらったアメリカンフットボールのプロテクター型のリング・コスチューム、顔のペインティング、黒のロングタイツ、黒のバイカーブーツはロード・ウォリアーズのイメージを踏襲したものだったが、タッグチームとしてのカラーはジャパン仕様のオリジナルで、ホークは兄貴分のような立ち位置で健介のメインイベンターとしての自我の覚醒を見守った。
「それから……、オレにとってはこれがいちばん大きなポイントだったんだけど、ケンスキーとタッグを組むことでまたプロレスがおもしろくなってきたんだ。彼を見ていたら、体も心も若返ったような、そんな感覚になった」
ホーク・ウォリアー&パワー・ウォリアー(佐々木健介)のタッグチーム、ザ・ヘルレイザースは平成の日本のプロレス・シーンの“ヒット作”となった。
■性格的には正反対だったホークとアニマルの絆
ホークとアニマルは、性格的には正反対だった。ホークはナイトクラビングが好きで、ツアーに出るといつも朝まで遊びほうけていた。アルコール類はなんでもたくさん飲んだし、思いつく限りのありとあらゆる化学物質を体にぶち込んだ。アニマルはドラッグはいっさいやらなかったし、お酒も控えめで、早寝早起きだった。兄弟みたいに仲がよかった時代もあるし、あまり会話を交わさない時代もあった。
あっというまというわけではないけれど、ホークとアニマルは20年という歳月をいっしょに過ごした。ウォリアーズはこの世にふたりしかいない。ナンバーワンでありつづけるよりも、オンリーワンであることのほうが大切なんだと考えるようになった。
ふたりはいつのまにかベスト・フレンドになっていた。アニマルが「あしたも早いから外出するのはやめようぜ」といえば、ホークは「じゃあ、オレは一杯だけ飲んでくる」と答えた。たったそれだけの会話でふたりはおたがいのことをちゃんと理解することができた。
■生まれてはじめて聖書を読んだ
ホークは、何度も死にはぐってはそのたびに命拾いした。試合後、ドレッシングルームで倒れ、脱水症状で意識不明になったことがあったし、ホテルの自室でいきなり心臓が止まったこともあった。
親しかったレスラー仲間のうちの何人かが若くして天国へ召された。ハイスクール時代からの友だちで“シャーキー道場”の同期だったリック・ルードはドラッグのオーバードースで帰らぬ人となった。テリー・ゴーディは、心臓にできた血栓が原因で眠ったままこの世を去った。デイビーボーイ・スミスは、心臓マヒでいきなり旅立った。ホークに「そんな生活をしていたら……」といつも親切に忠告してくれた“ミスター・パーフェクト”カート・ヘニング――プロレスラーになるずっとまえのティーンエイジからの友だち――はある朝、ツアー先のホテルのベッドの上で息をひきとった。
30代の終わりにボーン・アゲイン・クリスチャンになったアニマルは、ある日曜の朝、ホークを教会に連れていった。牧師はかつてのライバルで、同じミネアポリス出身の元プロレスラーのニキタ・コロフだった。
ホークは生まれて初めて聖書を読んだ。どのページを開けても“自分みたいな男”が出てきた。ホークは神にめぐり逢い、生きることにどん欲になった。ホークより3歳年下のアニマルはちょっとだけ安心した。
■「2時間後に起こして」と言い残して
2003(平成15)年10月18日、ホークはフロリダ州インディアンロックス・ビーチに購入したばかりの新居で引っ越しの荷物をほどいていた。ちょっと疲れたので「2時間後に起こして」と、(編集部注:1995年に結婚したフィットネス・インストラクターの)デイル夫人に伝え、軽いナップ(昼寝)のためにベッドルームに入っていった。そして、そのまま天国へ逝ってしまった。46歳だった。
デイル夫人はすぐにミネアポリスのアニマルの家に電話をかけた。アニマルはまるでそれがわかっていたように冷静に“悪い知らせ”にうなずいた。大長編ドラマ『ザ・ロード・ウォリアーズ』は唐突に最終回を迎えたのだった。
長生きして幸せな余生を送ったととらえていいのかどうかは、いまのところなんともいえない。アニマルは60歳の誕生日を迎えてから10日後、2020年(令和2年)9月22日、旅行先のミズーリ州オセージ・ビーチのホテルで急死した。いまの奥さんのキムバリー夫人との結婚10周年のお祝いとして、オーザークス湖でのバケーションを楽しんでいる最中だった。
ディナーを終えてホテルの自室に戻ってきたアニマルは「ちょっとよこになる」といってベッドに入り、そのまま旅立った。奥さんがすぐそばにいてくれて、眠ったまま天国へ行ってしまうというシチュエーションそのものは、相棒ホークのときとまったく同じだった。Oh, What A Rush.
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プロレスライター、コラムニスト
1962年東京都生まれ。オーガスバーグ大学教養学部卒業、早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了、筑波大学大学院人間総合科学研究科体育科学専攻博士後期課程満期。在米中の1981年より『プロレス』誌の海外特派員をつとめ、『週刊プロレス』創刊時より同紙記者として活動。『プロレス入門』(ビジネス社)『昭和プロレス正史(上下巻)』(イースト・プレス)ほか著書多数。
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(プロレスライター、コラムニスト 斎藤 文彦)
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