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毒親育ちの私が『シン・エヴァ』を一人でも多くの人に観てほしいと願うワケ

プレジデントオンライン / 2021年4月13日 11時15分

©カラー/エヴァンゲリオン公式Twitterアカウントより

「毒親」に育てられた経験にどう向き合えばいいのか。文筆家の古谷経衡氏は「私は虐待のトラウマで『自分のような人間は家庭を築けない』と思い込んでいたが、授かり婚で子供を持った。親を反面教師にすれば幸せな家庭を築くことはできる。それはアニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』にも通じる」という――。

■シン・エヴァでは「精神的な父殺し」が見事に描かれた

実のところエヴァンゲリオン(以下、「エヴァ」)の主要なテーマの一つはエディプスコンプレックスである。エディプスコンプレックスとはごく平易に言えば精神的な父殺しである。子が同性尊属である父に敵愾心を抱き、父をいかに乗り越えるのか。思春期の男子にはよく見られる心理的葛藤で、フロイトが提唱した。

現在公開中のアニメ映画『シン・エヴァンゲリオン』(総監督:庵野秀明)は、本作の主軸の一つである主人公の持つエディプスコンプレックスがいかに昇華されるのかが見事に描かれている。これは決してネタバレではない。1995年10月にエヴァのテレビ本放送(全26話)が開始されて26年目にして完結したエヴァは、当初から子と父、あるいは父と子の関係性が物語構成の枢機に横たわっている。

主人公・碇シンジの実父である碇ゲンドウは、現在で言えば完全に「毒親」と呼ばれて仕方あるまいが、より正確に言うならば彼はシンジをネグレクトし続けてきた。実子にもかかわらず養育権を放棄しているのである。ではシンジの養育は誰に任せたのかというと、貞本義行氏の漫画版とテレビ版では表現は違うものの「親類ないしはそれに近しい存在」に託されていたようである。ちなみにこの「親類ないしはそれに近しい存在」は95年のテレビ版では映像として一切登場しない。

繰り返すようにこれはネタバレではないが、シンジの母親、つまり碇ゲンドウの妻(碇ユイ)は、テレビ版当時すでに「“書類上”故人」として扱われている。普通、妻が早世したなら長子の養育権は実父が保有するはすだが、碇ゲンドウはその義務を怠り、シンジを「親類ないしはそれに近しい存在」に放り投げて、ある日突然にしてシンジをネルフ本部に呼び出し、「エヴァに乗れ」と命令するのである。

エヴァのテレビ版第一話はこのようにして始まるのであるが、社会通念上の常識として何年も顔すら見せたことのない父親に呼び出され、いきなり軍事兵器(汎用人型決戦兵器)に乗れと命令する時点で、殆どこれは虐待の範疇に入っている。当然そんな理不尽な命令にシンジが従う理由など一切ないのであるが、彼は14歳なので民主的自意識を持たなかったのだろう。そしてこの命令を拒否する展開であると物語が進まないので、仕方なくエヴァのパイロットになるのである。

■碇ゲンドウはいわゆる「毒親」である

これは『機動戦士ガンダム(1st)』において父親(テム・レイ)が開発したMS(モビルスーツ)ガンダムに、主人公のアムロ・レイが“一応”マニュアルめいたものを読みながら「ほぼ能動的」に乗り込んだのとはかなり対照的である。アムロは技術屋で家庭を軽んじがちな父親とはおおむね疎遠関係ではあるが、特段にネグレクトされていたわけでは無かった。

しかし続く『機動戦士ガンダムZ』の主人公、カミーユ・ビダンは父が不倫をして家庭を完全に蔑ろにしており、カミーユは不可抗力とはいえ父親を間接的に殺害する。どうもロボットSFアニメには、常に“エディプスコンプレックスの超克”という大きな主題が横たわっているのかもしれない。あるいはそれは富野由悠季氏の作風なのであろうか。

話をガンダムからエヴァに戻すが、この子と父、あるいは父と子の関係性は今次『シン・エヴァンゲリオン』において明瞭に完結されている。未見の読者に於かれては急いで劇場に行かれることをオススメしたい。

さて、1995年10月に放送開始となったエヴァの時代、前出したように「毒親」という概念も言葉もなかった。当時エヴァのテレビ版を見た視聴者(私もその一人である)は、シンジの実父である碇ゲンドウを「権威主義的で実子に対し冷淡極まりない存在」として認識したであろう。しかしエヴァ完結から振り返ってようよう26年目にして、「権威主義的で実子に対し冷淡極まりない存在」には名前がついている。それすなわち「毒親」である。

■「毒親」の父と母

1982年に北海道札幌市に生まれた私は、不幸なことに実にこの「毒親」の家庭に生まれてしまった。しかしながら、私が碇シンジの設定年齢と同じ14歳を迎えるくらいまで、私は両親からかなりの愛情をもって育てられた。良い意味で過干渉ですらあったと思う。

典型的な「団塊の世代」である私の両親は、初めての実子、すなわち「長男」である幼少期の私を過保護なぐらい大切に育てた。それは大変よろしいことである。しかしその「過保護・過干渉」は、「無償の愛」などではなく「投資回収としての愛」であったことを、私は思春期に嫌という程思い知らされることになる。

昨年私は『毒親と絶縁する』(集英社)を上梓した。この中で私は父母双方の「毒親」からいかにひどい虐待を受けてきたか、の詳細を克明に記したのであるが、ここで改めて簡便に紹介する。

私の実父は、完全な理系人間で、北海道・空知地方の公立高校から国立大学である帯広畜産大学に進んで獣医の免許を取り、札幌医科大学大学院等を経て札幌市内の研究所に就職して地方公務員になった。実母は父より4~5歳年下だが北海道から関西の短大をでて保育士の資格を取ったのち、Uターンして北海道東部の重農業都市・帯広に戻る。この過程で父と母は昵懇になり、すなわち私が生誕することになるのである。

■北大コンプレックスをわが子で昇華しようとした父

偏差値的に必ずしも優秀ではなかった私が振り返るところ、1960年代後半から70年代初頭の、所謂高度成長時代の大学進学率を考えれば、いかにそれが北海道東部の単科国立大学とはいえ、帯広畜産大学に入学・卒業した父は学歴的には瞠目すべき存在であろう。一方当時、高卒女子はそのまま就職という風潮が当たり前だった時代に於いて、商業高校を卒業してから関西の短期大学に入学・卒業した母も、一般的な統計を引けば「まず高学歴」の部類に入ると思われる。

しかし理系の研究職というのは、『白い巨塔』よろしく学閥による“目に見えないチカラ関係”が隠然と存在するらしく、父いわく“北海道大学(以下、「北大」)を卒業していない者は永久に職場にあって白眼視され続ける”のだという。

ここに至って、私の父は狂信的とも宗教的ともいえる学歴信仰にとらわれた。「自分は『学部』レベルでは北大卒ではない。だから差別され続けてきたのだ。この屈辱を晴らす唯一の手段は、長男(すなわち私)を北大に入学させて、その汚名を晴らすしかない」という、共産圏でよくある計画政策を採択したのだ。

■「西高」に進学させる前提での住宅購入

ここで基本的な事実を踏まえると、北大は無論旧帝大であり、確かに東北以北では絶大なる「高学歴」として認知されている。特に北海道にあっては、札幌市内にあって伝統的な公立進学校である「東西南北」を冠した道立高校から北大への進学率が群を抜いて高い。

私の父は、私がまだ物心つかない幼稚園時代から、この「東西南北」に遮二無二私を進学させるべく、私のあずかり知らないところで「東西南北」の中では2番手か3番手位に位置する北海道立札幌西高校(略:西高)に進学させる計画政策をプランニングしており、該西高の受験学区にとりわけ拘泥して、本来ならば田園生活を楽しめるような郊外における住宅購入の選択肢を一切排除して、札幌市のど真ん中に狭小な3LDKのマンションを買った(よってここが、現在でも私の実家になっている)。

自宅で孤独な少年
写真=iStock.com/kieferpix
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kieferpix

そんな両親による計画的政策を露ほど知らない私は、小学校時代はプラモデル製作や“歴史群像、架空戦記(小説)”を耽読し、中学校では“普通”の地元公立中学に進学した。私は物事に研究熱心な方ではあるが、自分が「興味がない」と思った範囲にはまったく無知を貫き通す性分である。

しかし、それでも私の中学進学時の成績は全学年でも5指に入る優等生で、内申書的にも申し分のない評価を残した。これに私の両親は歓喜した。私が高校受験において、札幌西高→北大合格という既定路線の「夢」が見えたからである。

■成績が落ちたとたん、虐待が始まった

だが私は、基本的に根が堕落的にできているので、次第に窮屈な受験を前提とした“ガリ勉”の性質から、カルチャーの世界に一向魅了されるようになった。そのきっかけを与えてくれたのが、当時にわかに社会現象となった冒頭エヴァである。エヴァから派生する文学、心理学、宗教全般、歴史学等に触手を伸ばして貪欲に知識を貪った私は、中学二年の段階で有意にその成績は低下した。

当たり前の事だが、アニメオタク的知識の膾炙に傾斜するとそれに反比例して定期テストの点数は落ちる。結果私は、中学3年時点で前述した「東西南北」の合格の目算はほぼ不可能になって、それより偏差値的には一等劣る公立の高校普通科に進学した。

これと時を同じくして、私の両親における虐待が開始された。私の両親は、私の学業成績が彼らの設計した進学校の合格基準に達していないと知ると、「お前(私)にかけた生活費や塾代、光熱費や小遣いを返せ」などと迫り、「お前(私)が漫画ばっかり見ている(私の両親は、漫画とアニメの区別がつかなかった)せいで成績が下がっているのなら、お前に投資した金銭が無駄になる」という罵詈(ばり)雑言をほとんど毎日のように浴びせてきた。

やおら当時、私の母が消化器系の難治疾患にかかると、その病状悪化の全ての原因を「お前(私)が勉強しないために、仏罰が下ったのだ」という意味不明な宗教的呪詛すら投げかけてくる。

■30回以上繰り返された「冷水シャワー」の虐待

一応、高校にあっては中堅進学校に進学した後も、この“虐待”は続いた。

私の進学した高校は上位5%程度が北大に進学するが、私は基本的に落第生で、成績は芳しくなかった。これに激昂した私の両親は、毎日、毎晩のごとく「私が勉強しないこと」を呪詛し、「お前(私)が北大に進学しないのなら、養育費を払う必要はない」と主張し、狡猾にも私の入浴中を見計らってガス栓を閉栓して冷水シャワーを浴びせることが少なく見積もっても三十数回以上という異様な虐待を行った。

さらに私の個室のドアを蝶番から撤去して、「24時間、勉強しているかどうか」をリビングから監視する“代用監獄”を創作したのみならず、思春期男子にしては最も恥ずかしい「自慰行為の後のティッシュ」をこれ見よがしにテーブルに陳列されたりした。ハッキリ言ってこれは性的虐待であり、異常者の心理行動である。

この時期において私は両親への尊敬とか“親孝行”という概念は完全になくなり、“いつ刺し違えても良い”という強い敵愾心を持つに至った。私の母は私が高校時代、累積にして約1~1年半の間、狭い札幌の3LDKのマンションで私の存在を無視し続け、ネグレクトを行った。

一方父は、こういった母の行動にお墨付きを与えるばかりか、毎晩のように「お前(私)に投資した教育費を返せ。お前(私)が北大に行かないなら投資が無駄になる」という異常な主張を臭い唾をまき散らして怒鳴り続けた。

■高校1年の後半、ついにパニック障害を発病

この結果私は、精神が金属疲労のように疲弊し続け、高校1年の後半、つまり1998年の冬に重篤なパニック障害を発病するにいたる。両親からの虐待で、ついに私の精神が破断した瞬間であった。ちなみに私の父は、私がパニック発作の症状を幾ら訴えても「精神病院に行くのは、古谷家の家名を毀損(きそん)する」として保険証の貸与を拒否した(よって私は7年近く無治療だった)。嘘のような本当の話である。

結果、私は高卒時に両親の設計政策に沿う北大進学は偏差値的にかなわなかった。その代わり、関西圏にある知名度はそこそこ高い私立大学文学部に推薦合格した。学歴コンプレックスで骨の髄から歪んだ精神を保有している私の父は、この私立大学については辛うじて「寛恕」の気持ちがあり、よって私は晴れて2001年の4月から京都で大学生活をスタートさせた。

しかし彼らは、私の進学した私立大学を“北大の代替”として周囲に吹聴し、「西の早稲田」などと、早稲田大学にたいへん失礼な言動を取り続けた。私の両親が対話していたのは、徹頭徹尾私ではなく自らの劣等感であったのである。

■妻と子供だけ自分の実家に「帰省」

当然、上洛して独り暮らしを始め“自由の空間”を手にした大学生時代、およびその卒業後、私は両親の異様なほどの「学歴コンプレックスから生じる虐待ともいえる人生の押しつけ」からは自由になった。根が怠惰にできている私はこの大学の学部を実に7年かかって卒業するが、その間、両親との通信は完全に疎遠なものになっていた。私は当時大阪に住んでいたが、飛行機代も馬鹿らしくなり帰省も全くしなかった。しかし34歳にして私が“授かり婚”をすると、その結婚式に私の両親を招待しないわけにはいかない。苦渋の決断の末、彼らにとっては“孫の顔”を見せた。

ここには一児の父親として極めて多大な懊悩があった。絶縁に近い疎遠状態になっている私の両親に、私の妻との間で授かった長男を面会させるべきかどうか。懊悩したが、最終的には許諾した。私と両親の関係がいかなるものであっても、息子には書類上関係はないからである。こうして、私自身は両親とは直接会わないが、妻と子供だけは両親の住む札幌市に遊びに行く、という奇妙な「帰省」関係が数年続いた。

事態が急変したのは、ごく最近である2019年のことである。芸能人が「パニック障害(および合併するうつ病等)」を次々にカミングアウトしだし、その告白に勇気づけらた私は、すでに居住地である千葉県から精神障害者手帳を交付されていたのであるが、その経緯を某ネット媒体で「私のパニック障害やうつ病の起因は青春時代における両親の加虐によるものである」という記事を寄稿したのである。

■「虐待した覚えは一切ない」という衝撃の開き直り

私の両親はこの寄稿を読んで、俊敏に反応した。「(私の)精神状態の現状に対して、自分たちに責任があるのであれば直接話し合いたい」と回答を送ってきたのである。私はすわ、両親の加害に対しての反省の弁を期待し、千葉の自宅にまず妻を司会役として面談することを了承したのだ。

しかし私の淡い「両親の加虐に対する反省」は完全に裏切られた。私の両親は「総論としては(私の被害訴えを)認める部分もあるが、(私を虐待した)覚えは一切ない」と面前で開き直った。そればかりか、私が相続する約束となって彼らが購入した千葉県内の土地・家屋について「(我々=“私の両親”を公に批判するならば)即刻該物件から退去すること」と宣戦布告のような言辞を文章通告してきた。

ここに私の怒りは完全に怒髪天に達し、不可逆的に両親と絶縁することに至った。この経緯は、前出した拙著『毒親と絶縁する』(集英社)に詳述している。

■想定外の授かり婚は最良の影響を人生にもたらした

現在、私には今年(2021年)で5歳になる長男と、生まれたばかりの長女が居る。いろいろな現場で、一児の父、あるいは二児の父には到底“外見上”見えない、と言われる。根が斜に構えていて、暗黒の青春時代を30代になってから取り戻そうと“若作り”している私を第三者が見るに、これは当然の評価であろう。社会通念上の常識として、私の外面上の特徴は、到底二児の父にあるまじき「バサラ」であろうから致し方ない。

私は幸運にも30代中盤で“授かり婚”に恵まれ、そしてそれに続き第二子が誕生した。“授かり婚”というのは基本的にカップル双方が必ずしも意図しないハプニング的要素が含まれていると思うが、結果としてはこれで良だったと思う。私は両親に受けた“虐待”のトラウマが30歳を過ぎても解消できず、「自分のような人間は家庭を築けない」と思い込んでいた。

”授かり婚”は完全に私にとって想定外だったが、結果としては最良この上ない影響を私の人生にもたらした。「虐待を受けた子は、その子にも虐待をする傾向がある」とは、心理学界隈の中で語られる傾向にあるが、私は今年で5歳になる長男に良い意味でも悪い意味でも、完全な不干渉を貫いている。

妻からすると「やおら子育てに熱心ではない」という烙印を押されるだろうが、子に対する徹頭徹尾の不干渉こそ私の哲学だ。私の人生は両親に過剰なほど設計・干渉された結果、それが遂に重度の精神疾病として現出した。その苦しみは、同様の症状を発症した全国のパニック障害患者等にとってはまさに“生き地獄”そのものである。

■親子の齟齬は解消できる可能性を秘めている

父となった私をしての最優先の子育て方針とは、このような苦しみ、地獄の状況は私を最後にしてほしい――、と願うことに尽きる。歪んだ両親からのさまざまなコンプレックスで、人生を強制され、よしんば加虐までくわえられた人間当事者の結論は、次世代にこの苦痛を継承させない――、その一点に尽きる。その意味で、私の伴侶には最大の感謝と愛の熱情を表明するものである。

碇ゲンドウは現代的価値観をもってすれば完全に「毒親」である。しかし今次の『シン・エヴァンゲリオン』でその“異様な父子関係のもつれ”は完全に昇華され、シンジのエディプスコンプレックスは劇中の通りの結末をたどった。子と父、父と子の関係性の齟齬(そご)はある意味、人間にとって、特に男子にとって永遠のテーマである。

しかしこの齟齬は、その条件が整いさえすればあるいは解消できる可能性を秘めている。畢竟私はその解消が不可能なほどの状況に至ったが、これを読む読者の方に、まだ“早期の段階において”その断絶が解消される機運があるなら、私は断じて、手遅れになる前に“和解”を勧告したい次第である。

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古谷 経衡(ふるや・つねひら)
文筆家
1982年、札幌市生まれ。立命館大学文学部卒。保守派論客として各紙誌に寄稿するほか、テレビ・ラジオなどでもコメンテーターを務める。オタク文化にも精通する。著書に『愛国商売』(小学館)、『「意識高い系」の研究』( 文春新書)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)など。

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(文筆家 古谷 経衡)

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