「医療のバカの壁」養老孟司が生死をさまよって感じた「データには出ない大切なこと」
プレジデントオンライン / 2021年4月28日 11時15分
※本稿は、養老孟司、中川恵一『養老先生、病院へ行く』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。
■統計が優越する現代医学
今回の心筋梗塞による入院体験を経て、現代の医療をどう思うかと何度か訊(き)かれたように思うけれども、その根本を考えたいとしばらくの間思っていました。でもなんだか面倒くさくなってきてしまいました。
一番のもとにあるのは、「統計」というものをどう考えるかという点です。
社会全体もそうですが、現代の医学は統計が優越しています。統計は数字で、数字は抽象的です。では抽象でないものとは何か。感覚に直接与えられるもの、『遺言。』(新潮社)ではそれを感覚所与と書きました。『遺言。』を書いた時点では、その程度で話を済ませましたが、その後あれこれ考えたら、感覚所与と意識の間の関係をもっと煮詰めないといけないと思うに至りました。
統計に関する本を集めて、基礎からあらためて勉強しようと思ったけれども、この本(『養老先生、病院へ行く』)にあるように、私は心筋梗塞を起こしたし、その背景にあるのは強い動脈硬化です。それなら当然、脳動脈も十分に硬化しているに違いありません。
その壊れかけた脳みそで、統計の基礎のようなややこしい問題を考えても、不十分な思考になるに決まっています。気を取り直して頑張ってみても、脳がさらに壊れるだけのことかもしれません。年寄りの冷や水でしょう。
■統計データは「個人の差異」を無視する
私はタバコを吸っていますが、喫煙者はがんになりやすいというデータがあります。57歳のときに肺がんが疑われたことがありますが、当時はタバコを吸っていたので、検査の結果が出るまで、その可能性はあると覚悟していました。結局、肺がんではありませんでした。
がんになる要因は1つではありません。発症する現実の仕組みは複雑です。にもかかわらず、がんを予防するためには複雑化を取り払い、単純化して因果関係を絞り込んでいるように思われます。
統計で得られたデータというのは、そのように使うことも可能ですから、場合によっては、原因を1つに特定することもできます。
人間を喫煙者と非喫煙者に分けて、どちらががんの発症率が高いかどうかを調べるとします。その結果、タバコを吸う人のほうががんになる確率が高いことがわかります。これによって、喫煙とがんの因果関係が「実証」されるわけです。
統計というのは、個々の症例の差異を平均化して、数字として取り出せるところだけに着目してデータ化します。逆にいえば、統計においては、差異は「ないもの」として無視しなければなりません。
■データとノイズ、どちらが本物の自分なのか?
差異というのはノイズです。『養老先生、病院へ行く』の中で「現実の身体というのはノイズだらけ」という話をしていますが、統計を重視する医療の中にいると、データから読み取れる自分が本当の自分で、自分の身体はノイズであるということになってしまうのです。
本来、医療は身体を持った人間をケアし、キュア(治療)する営みです。それなのに、患者の身体がノイズだというのは、おかしなことです。
統計は事実を抽象化して、その意味を論じるための手段にすぎません。統計そのものに罪があるわけではありませんが、要は使い方の問題なのです。
■都市の中では「意味のあるもの」しか経験できない
統計は「意味を論じるための手段」ですが、意味はもともとあるものではありません。
都市に住んでいると、すべてのものに意味があるように思われます。それは周囲に意味のあるものしか置かないからです。
例えば、都市のマンションの中に住んでいるとします。部屋の中のテレビやテーブルやソファー、目につくものには、すべて意味があります。たまに何の役にもたたない無意味なものがあっても、「断捨離(だんしゃり)」とかいって片づけてしまいます。それを日がな一日見続けていれば、世界は意味で満たされていると思って当然です。それに慣れきってしまうと、やがて意味のない存在を許せなくなってしまうのです。
そう思うのは、すべてのものに意味がある、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で人間が暮らすようにしたからです。都市の中では、意味のあるものしか経験することができません。
■意味は「感覚所与」によって、脳の中で作られるもの
でも現実はそうではありません。山に行って虫でも見ていれば、すべてのものに意味があるのは誤解であることがすぐわかります。
虫捕りをしていると、「なんでこんな変な虫がいるんだ?」と感じることは日常茶飯事です。このような感覚には意味はありません。目に見える世界が変化したということを、とりあえず伝えてくれるだけです。意味というのは、感覚に直接与えられるもの(感覚所与)から、改めて脳の中で作られるものです。
都市はその典型で、道路もビルも、都市の人工物はすべて脳が考えたものを配置しています。自分の内部にあるものが外に表れたもの。人が作るものは、すべて脳の「投射」なのです。
都市化が進めば進むほど、周囲には人工物しかなくなり、脳が考えたものの中に人間が閉じ込められることになります。都市化も統計化も、抽象とか、解釈とか、脳が考える営みの中で進んできたものです。
がんにかかる人がたくさんいるという事実があり、それを把握するため、個別データを取捨選択して集め、特定の手順で抽象化します。そして抽象化されたデータは、現実の解釈に使われ、がん予防のための基礎情報になるのです。
■病院に行くのは、現代医療システムに完全に取り込まれること
がん予防では禁煙がとても重要だといわれています。中川さんによると、喫煙者は膀胱(ぼうこう)がんになる確率が2倍になり、肺がんになる確率は5倍になるそうです。それはデータの解釈としては確かでしょう。
では1日1箱(20本)タバコを吸う人と、3日で1箱吸う人ではどうなのか。20歳からタバコを吸い始め、40歳でやめて、今60歳の人はどうなのか。
タバコとの付き合いは千差万別です。それを1つに丸めて、全体の数値を出して確率を提示しているのが統計データです。
中川さんはタバコを吸わないのに、膀胱がんになっています。タバコと無縁に生きている人でも、がんにかかることがあるのです。
では医療における統計を否定すればよいのかというと、そんなことは不可能です。そう願ったとしても、過去の医療に戻ることはありません。現在、病院に行くというのは、この医療システムに完全に取り込まれてしまうことなのです。これが2020年6月に、病院に行くべきかどうかで悩んだ理由です。
■今は昔の医療と未来の医療の中間の過渡期…
一方で、未来の医療は個人に合った医療にするとか、オーダーメードの医療にするとか言われています。ただしそれをやるには、膨大な情報量が必要です。AI化が進んで、いずれそんな時代がくるかもしれませんが、今は過渡期というか、昔の医療と未来の医療の中間にいるわけです。
その中間にいるときは、どうすればよいのでしょうか。新型コロナの対策では、みんなが勝手なことを言って、どういう対策をたてればいいのかはっきりしないまま1年以上も終息できずにいます。
でもそんなことは、はっきりしなくて当然です。誰かが1つの論理で決めていかなければはっきりさせることはできません。
自分が医療を受けるのも同じです。自分で決めるしかないのです。ところが、普通の人は決めるための十分な知識を持ち合わせていません。
自分で決めるために、セカンド・オピニオン(納得のいく治療法を選択することができるように担当医とは別の医療機関の医師に「第2の意見」を求めること)という制度もありますが、病気について十分な知識がなければ、結局、確率が高いほうを選ぶしかありません。
■医師もデータに乗っかって「楽」をしていないか?
医者のほうも、データばかり見ていると、確率的にあなたはこうだから、この治療が最善です、終わり。というようなことになってしまいます。
本当は治療しながら仕事を続けたいとか、家族との関わりとか、患者個人の事情をよく聞き出して、それに沿って治療方針を決めることが大事なのです。中川さんはそういうタイプの医者ですが、データに乗っかって楽をしている医者が圧倒的に多いような気がします。
統計的データは、あくまで判断材料の1つです。今後、医療システムの中にAIが本格的に入ってくるはずですが、事情は変わりません。
もしも最終的な判断をAIに預けるような医者が出てきたら、どうしようもありません。
■身体の状態から情報化されるのはほんの一部
身体がある状態を示す要因は複合的です。健康診断や人間ドックで、まったく異常が見つからなかったのに、突然倒れてしまうことがあります。
血圧とか血液検査の数値とか、身体の状態から情報化されるのはほんの一部です。だから、予想外の病気が見つかることがあります。私のような胸の激痛がまったく出ない心筋梗塞もその1つでしょう。
数値に目を奪われていると、健康のためにはそれだけが重要なことのように思われてきます。健康診断に一喜一憂する人は、この罠にはまっているといえます。
もちろん、私のように健康診断を受けないことを勧めるわけではありません。ただ、データさえ見ていれば病気にはかからない、という論理に囚(とら)われないようにする必要はあると思います。なかなか難しいことではありますが。
■自分を「まっさら」にして身体の声を聞く
自分の身体の異変に気づいて、例えばがんかもしれないと思ったとき、ネットで検査して、「10万人に1人」という数字が出てきたとします。確率が低いので、「これは違うな」と思うかもしれません。身体に異変を感じていながら、それを無視する結果になるので、これは危険です。
私がさんざん悩んだ末に病院に行くことにしたのは、体調が悪くてどうしようもなかったからです。病院に行く前の3日間は眠くて眠くて、ほとんど寝てばかりいました。それが身体の声だったのでしょう。
動物は意味ではなく感覚だけで生きています。猫が日当たりのよいところにいるのは、そこにいるのが気持ちよいからです。すべての猫を見たわけではありませんが、少なくともうちの猫(まる)は正直です。そこにいたいからそこにいる。身体の声に従って生きているのです。
ただ、身体の声を聞こえるようにするには、自分が「まっさら」でなければなりません。私は花粉症がありますが、症状がひどくても、これまで薬は飲まないようにしてきました。薬で症状を抑えてしまうと、身体の声が聞こえなくなるのではないかと思うからです。
しかし、今回のように病院に行って、医療システムに取り込まれてしまうと、医者が出す薬を飲まないわけにはいきません。退院後は仕方がないので、処方された薬を毎日きちんと飲んでいます。身体は自分だけのものではないので、これまた仕方がありませんね。
■これからも医療とは距離をとって生きていく
なぜ病院に行きたくないのか、いろいろ理屈を言ってきましたが、今回は医療に助けられたことに感謝はしています。しかし、原則として医療に関わりたくないという気持ちは今も変わりません。
中川さんも言っていましたが、受診の予定を2020年6月ではなく7月にしていたら、もはや生きていなかったかもしれません。
そもそもかつての東大病院というのは、どこの医者に診てもらっても匙(さじ)を投げられ、「最後の望み」として患者さんがやってくる病院だったからです。
とりあえず、今回は生きて帰ってきました。それどころか、病院嫌いの私が再び入院して、白内障の手術も受けました。
おかげで、メガネなしで本が読めるようになりました。本を読むのが仕事の一部なので、これはとても助かっています。
ただ、白内障の手術を受けたことで、中川さんなどは私の医療に対する考え方が変わったのではないかと言っていますが、実は何も変わっていません。
これからも、身体の声に耳を傾けながら、具合が悪ければ医療に関わるでしょうし、そうでないときは医療と距離をとりながら生きていくことになるでしょう。
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東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社・ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)など多数。
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(東京大学名誉教授 養老 孟司)
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