「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた
プレジデントオンライン / 2021年4月20日 11時15分
※本稿は、本郷和人『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■会津120万石という大領地を与えられた理由
上杉景勝は関ヶ原のときに、二重の失敗をしでかしています。失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと。
関ヶ原の時点で、彼の領地は会津でした。会津は東北の要の地であり、ここを持つ大名が東北のチャンピオン。その地を伊達政宗が取った。しかし豊臣秀吉に「もう戦争の時代は終わった。俺の家来になれ。挨拶に来い」と言われ、いろいろと渋りましたが、結局、家来になる。会津は取り上げられて、「おまえなら任せられる」ということで蒲生氏郷に与えられます。
そこから氏郷は見事に秀吉の期待に応え、怪しい動きを見せる伊達政宗の活動を封じる。それで92万石まで領地が増やされるも、40歳で亡くなってしまいます。しかし後継ぎがまだ幼なかったために秀吉は会津を蒲生から取り上げ、その会津にあらためて置かれたのが上杉景勝でした。
上杉は越後から国替えされるのですが、そのかわり、120万石という大きな領地を与えられた。その配置には「東北地方の抑え」という意図と、恐らく「徳川の背後を牽制する」という意味合いがあったと思います。ところが国替えののち、すぐに秀吉は亡くなってしまう。それで徳川家康の活動が活発になっていく。
■「大きな戦争」を狙っていた徳川家康
当時の家康がなにを狙っていたかというと「大きな戦争」です。戦争を起こして、どさくさまぎれに豊臣の政権を奪取したい。これは秀吉が、織田の政権を奪取するときに行った方法と同じです。明智光秀を始めとして柴田勝家らと、戦争に次ぐ戦争をやる。そのうち、いつの間にか織田家の政権は秀吉のものになっていた。
だから家康も、列島規模で大きな戦いを起こしたかった。それに勝つことで豊臣政権を否定し、徳川政権を作ろうとしたのです。
■秀吉が死に、前田利家も世を去って
秀吉亡きあと、まず起こったのは石田三成の失脚でした。秀吉という後ろ盾を失った三成は、武将たちに狙われるようになります。
正確に言えば、秀吉の没後すぐに狙われたのではなく、前田利家が亡くなった直後に狙われた。利家は「石田三成を失脚させたら豊臣政権は崩れるぞ」と、考えていました。それで「俺の目の黒いうちはがんばってもらう」と三成をかばっていたのですが、その彼も秀吉の1年後に亡くなってしまう。
もはや三成をかばう者はいません。「前田殿亡き今、三成をやれる」と加藤清正や福島正則らが立ち上がるも、仲裁に入ったのが徳川家康でした。それにより三成は佐和山に隠居。豊臣政権から離脱するというかたちでいったん話がつく。
「このとき仲裁などせず、三成を見殺しにすれば、のちの関ヶ原もなかったのでは」という話になりそうですが、そういうことではない。家康の狙いは、三成を殺す、殺さないといった小さな話ではありません。繰り返しとなりますが、国がひっくり返るような「大きな戦争」を欲していたのです。
■前田家の次に家康の標的になった上杉家
三成を離脱させたあとの徳川家康はやりたい放題。戦争のためには相手が必要だということで、最初に目をつけたのが前田家でした。
利家の息子、利長の代になっていた前田家に「謀反の動きあり」と難癖をつけたのですが、前田はすぐさま謝ってきた。自分の母親、もう高齢になっていたお松さんですが、お松さんを人質として江戸に送りますと、文字通り土下座外交を展開しました。
よくよく考えてみれば、それはおかしい。当時はまだ豊臣政権下ですから、本来家康と利長は同僚です。同僚のところになぜ人質を出すのでしょうか。しかし利長は家康の意図をきちんと理解し、徳川に優る力が自分たちにないと理解していたからこそ、謝った。そこまでされれば家康も「謀反はなかった」と疑う姿勢を解き、お松さんは江戸に送られます。
では次に誰を狙うか。「大きな戦争」を起こすには、相手も大きくなければなりません。三成のような小物ではダメ。そこで狙われたのが上杉景勝でした。
今度は彼に謀反の疑いがかけられます。もちろん濡れ衣でしょう。しかしこの流れは前田と同様で、もう誰もが家康が理不尽なことを言っているのはわかっている。家康も、自分が無茶苦茶なことを言っているとわかっています。わかっていても、狡猾(こうかつ)な家康はそんな自分に誰がついてくるか、こないのかを見定めていたのです。
■景勝の失敗その1「土下座できなかった」
景勝としては、家康の理不尽に耐えて、前田利長のように土下座するべきでした。しかししなかった。これがまず、ひとつめの失敗です。
もし土下座をしていたら、攻める口実を失った家康は、上杉を120万石のままで残さざるを得なかったでしょう。そして同じ120万石であれば、西に毛利がいた。何度も言いますが、日本は西高東低でしたから、西国に120万石を持っているのであれば、こっちは潰したい。しかし東国で120万石であれば、まあ許されたと思います。
だから景勝としては、家康に土下座して従う姿勢を見せるべきだったのですが、彼には「我が家は謙信公以来の武門の家柄」というプライドがある。「謀反など全然考えていません」と真っ向から反論した。その反論がいわゆる「直江状」なのですが、その内容がどこまで真実か、そもそも直江状が本物だったのかという疑問は、この際置いておきます。
ともかくも、景勝は気持ちよく「やるなら来い! うちは武門の家だ。受けて立つ」と応えた。その際、家康は怒ったと言われていますが、おそらく腹の中では笑っていたことでしょう。「愚か者めが。これで戦争をする口実ができた」と。
■ふるいにかけられた大名たち
さっそく家康は、上杉を攻撃するために大軍を組織しました。ここである程度、大名たちはふるいにかけられるわけです。
福島正則などは真っ先に手を挙げ、「どこまでも徳川殿について行きます」という姿勢を見せる。私も行きます、行きますと続く大名たちはいい。しかし「徳川殿はあんなことを言っているけど、本当に国元から軍勢を呼び寄せて会津まで行くべきかな」などと迷うような大名たちは要らない。
結局「はい、行きます」と即答した大名たちが、後の東軍を形成することになりました。
そして上杉攻撃のために栃木県まで北上したところで、石田三成が立つ。それで反転して大坂に向かうかを小山で評定したと言われます。この小山評定も本当にあったのか、という議論がありますが、会議があったかどうかは枝葉のこと。本質としては、どう考えても家康は、どこかで大名たちと意志の疎通を図っていたはずです。
もともと上杉征伐に同行した大名たちは、家康の言うことであれば、なにがあろうとついていくという覚悟を決めたメンバー。三成が大坂で立ったからといって、誰も脱落しなかったのは当然のことでした。
■景勝の失敗その2「家康の背後を突かなかった」
結局、家康は引き返して大坂に向かうのですが、景勝がふたつめの過ちをおかしたのはここです。反転した家康の軍勢、すでに東軍と呼ぶべきかもしれませんが、その背後を突く姿勢を見せなかったのです。
かつてあの織田信長でさえ、背後を突かれることがわかるや、すべてを放り出して逃げました。それほど後ろから攻撃されるのは危険です。当時の上杉は120万石ですから、総動員すれば3万の軍勢にはなったでしょう。それで後先を考えずに攻撃に出れば、東軍にかなりの打撃を与えたと思います。
東軍も10 万を超えることはなかったと思いますが、仮に9万だったとしましょう。3万の軍勢を率いていた織田信長は、浅井の2000か3000の兵による攻撃を恐れて逃げています。であれば、9万人の東軍の背後を「謙信以来の武門の家柄」の上杉3万が攻撃すれば、たまったものではなかったはず。突如転がってきた大チャンスです。
なのに、景勝は動かなかった。それでいて、変な動きに出てしまう。
■なぜか目先の領土拡張に走る
なにをしたかというと、「家康がまたくるかもしれないし、なにかしないと」と焦ったのかもしれませんが、領地を広げようとなぜか北へ向かい、山形の最上を攻めてしまった。大局を見る目がないのにもほどがありますよね。
そもそも関ヶ原は、徳川が勝つか、豊臣が勝つかという、日本列島規模の戦いです。徳川が勝てば、即、家康が天下人。そうなれば、そもそも最初に敵認定されていた上杉が無事に済むはずもない。それがわかっているのに、今さら局地戦をやって、少々領地を増やしてどうするの、という話です。仮に最上領を併呑(へいどん)して200万石になったとしても、日本全国を相手に戦うことなどできるはずもありません。
もし背後を攻撃する気がないのなら、あとはもうひたすら恭順し、徹底的に従う姿勢を見せればよかった。そこを無為に北に動き、戦ってしまった。
■2万の軍勢で総攻撃したのに1000人が守る城を落とせず
しかも、謙信公以来の武門の上杉が、2万の軍勢で最上を攻めたのに、その結果がまるでダメ。最上は山形城に籠城するのですが、その手前に長谷堂城という小さいお城があり、そこに1000の城兵が置かれていました。さて、あなたならどうしますか。
スピードを重視したならば、長谷堂城の前にとりあえず2000くらいの兵を残しておいて、本隊で山形城を攻めるという手が考えられそうです。あるいは総力をあげて、長谷堂城を一気に落としてしまう手もあるかもしれません。2万で攻撃すれば一日で落とすことができるはず。
そこで上杉は、長谷堂城を総攻撃することにしたのですが、これが落とせない。情けないことに1000しかいない長谷堂城が落とせなかったのです。
しかも長谷堂城は、現代の城郭研究者がその縄張り、平面図を見てみれば、ただの古臭い昔ながらの城。難攻不落でもなんでもなく、あの戦国時代にこんな城がまだあったんだ、というくらいの平板な城でした。でも落とせない。そこでグズグズやっているうちに、関ヶ原では西軍が負けてしまいます。
「このまま山形を攻撃していたら敵認定されてしまうぞ」と今さらながらに恐れ、上杉は退却します。現代で言うところのグダグダの展開ですね。
この結果、家康は120万石あった上杉の領地を4分の1の30万石まで削ります。そのうえで米沢へと国替えしました。すべてを取り上げて、家を潰さなかったのは、家康も鬼ではなかった、ということでしょうか。
■どうにか生き残りはしたものの
上杉家ではグダグダもあったけど、生き残ることができてよかったなどと、ホッとしたかもしれませんが、ここでまた余計なことをしたのが直江(なおえ)兼続(かねつぐ)です。30万石の身代に落ちたというのに、120万石規模の家来をリストラせずにそのまま引き連れていったのです。
最初はいいでしょう。「クビにならなくてよかった」とみんなも喜んだかもしれませんが、「痛みをともなう改革」をやらず、身分不相応な数の家来を雇用したわけですから、上杉は天下に名高い、日本一の貧乏藩になってしまいました。
兼続はその戦犯として、江戸期を通じて嫌われ者となり、彼のお墓は直してもすぐ壊されるありさまだったとか。上杉家の貧乏は長く続き、それこそ江戸後期、上杉鷹山(ようざん)の藩政改革を待つことになります。
■貴重な上杉家文書が後世に残されたのは幸運
ただし上杉家が生き残ってくれたおかげで、上杉家文書が助かりました。上杉家文書は武家文書の中で国宝第一号となった貴重な史料であり、私たち研究者としてはこれが無事だったことは本当にありがたいことでもあります。
まとめれば、上杉景勝には大局を見極める力がまったくなかったため、「いったい何度、判断を間違えるのか」と感じてしまうような人生を歩みました。しかし結果として一応生き残ることはできたので、これはこれとして、波乱の時代の生き方として正解だったのかもしれませんが。
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東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本資料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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