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齋藤孝「頑張って読むべき"難しい本"と読まなくていい"難しい本"の見分け方」

プレジデントオンライン / 2021年4月22日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

頑張って読むべき“難しい本”と読まなくていい“難しい本”を見分けるにはどうすればいいのか。明治大学文学部の齋藤孝教授は「意味のない難しさは、ただ難しいことが目的であるかのような文章の難しさ。『大学入試の現代文で出題されるある種の評論文のような難しさ』と言えばわかりやすいだろう」という――。

※本稿は、齋藤孝『難しい本をどう読むか』(草思社)の一部を再編集したものです。

■難しさは「意味のない難しさ」と「意味のある難しさ」に分けられる

「難しい本」というときの難しさは、大きく二つのタイプに分類されます。一つは意味のある難しさであり、もう一つは意味のない難しさです。

意味のある難しさというのは、『存在と時間』や『ツァラトゥストラ』『資本論』といった、世界的な名著の難しさです。名著は歴史的に評価も定着していますし、全世界に届くような強いメッセージも込められています。

これらを読むことには大いに意義があるのだけれども、いざ読もうとすると独特なキーワードがあったり、テキストが分厚かったりしてなかなか手が出ません。こういった難しさと向き合い、読破しようとチャレンジすることは、人生の一つの大きな生きがいでもあります。

意味のある難しさを持った本が読みにくいのは、一つに自分の読解力や知識が不十分であることが挙げられます。いってみれば高くて美しい山に登るのに、体力や装備が足りていないようなもの。踏破するためには、それなりの準備が求められます。その代わり、一度読み解くことができれば感動も大きいですし、読めば読むほど味わいも深まります。

■大学入試に出る評論文は「意味のない難しさ」

一方で、意味のない難しさは、ただ難しいことが目的であるかのような文章の難しさです。「大学入試の現代文で出題されるある種の評論文のような難しさ」と言えばわかりやすいでしょうか。

国語の入試問題では、文章に傍線が引かれ、「この部分が示す内容について、正しいのは次の選択肢のうちどれか」といった問題が出題されます。裏を返せば、誰もが一目瞭然で理解できる文章ではない、ということです。

実はかくいう私自身、難解な文章を書いていた時期があり、大学入試問題に拙文が使用される機会が多く、ある年度には出題数第一位になったことがあります。それを知って嬉しく思うどころか、反省したのを記憶しています。むしろ「大学入試に使われないような、もっと万人にわかりやすい文章を書こう」と決意したのです。

■無意味な「難しさ」に付き合ってはいけない

私は、大学で現代文の読解の指導もしているので、難しい評論文はこれまで浴びるほど読み倒してきました。その中でも、東大の入試問題には比較的、意味のある難しい文章が多かったように感じています。わざとらしい難しさではなく、丁寧に読めばレベルの高い主張をしているのが伝わってくるのです。

たくさん読んでいるうちに私は気づきました。無意味に難しい文章の書き手は、素人である一般読者を脅して、自分の地位を守ろうとしているのではないか、と。人は、わからない言葉をたたみかけられると、ちょっと脅されたように感じて萎縮します。そうやって読者を萎縮させておいて、優位な立ち位置から主張することで自分を強く見せようとしているわけです。

言い換えれば、無意味に難しい本の著者は、たいてい病気にかかっています。どんな病気かというと、難しく書かないとバカにされると思っている病、あるいは難しく書くことで自分の力を誇示したがる病です。

だから、意味のない難しさを持つ本が読めなくても、悲しむ必要はありません。むしろ著者を哀れむべきです。

「ああ、かわいそうに。物事を素直に言えず虚勢を張っている人たちなんだな」

そう思って、ちょっと距離を置けばよいのです。

■海外の人文書が難しくなってしまう理由

前述したように、古今東西の名著には意味のある難しさがあります。では、こういった本は、どうして難しくなってしまうのか。理由は大きく二つに分かれます。一つは、原著を生み出した国や言語の特徴によるもの。そしてもう一つは、オリジナルな発見を披露しているから、というものです。

魔法の本が開いている
写真=iStock.com/miljko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/miljko

例えば、イギリス人やアメリカ人が書いた文章は、比較的わかりやすい印象があります。イギリスは経験主義(理論よりも経験を重視する考え方)の傾向があるせいか、簡単な内容を持って回って理屈っぽく記述することがありません。他の言語で書かれた哲学書を英訳したものを読むと、むしろ原著よりも読みやすくなることがあります。

村上春樹さんは、ベストセラーを連発する世界的な作家でありながら、アメリカ文学作品の翻訳を多数手がけていることでも有名です。レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』などの翻訳作品を読むと、いかにも「村上さんの文章だ」という感じがします。

村上さんが訳しているから、当然村上さんの文章には間違いないのですが、なんというか村上春樹の小説そのものみたいに思えるのです。私は村上さんの文体になじみがあるので、優れた比喩表現や、洗練された会話を楽しんでいるうちに、ぐいぐいと作品に引き込まれていきます。だから、チャンドラーが読みやすいのは村上さんのおかげということになります。

■難しさは書き手が新しい知を手探り状態で開拓した証拠

村上さんの訳をガイドに『ロング・グッドバイ』を原著で読むと、かなりわかりやすく進めます。そして、英語で書かれた文章は、複雑な感情を表現する場合も、比較的明快なものが多いと感じます。

一方で、フランス語で書かれた文章には、特有の難しさを感じます。フランスには一種の難解病があって、きらびやかな形容と複雑な文体を好む傾向があります。タイトルからして、何を言っているのかわからない雰囲気が出ています。

ドイツはドイツで、体系立った力感のある記述に特徴があります。哲学書は、単純に文章量も多く、まともに向き合うと討ち死にしそうな予感がします。

哲学の分野では、こういったフランスやドイツの哲学を学んで日本に紹介する人が多かったせいで、翻訳文体もややこしくなった可能性はあるでしょう。

フランス語やドイツ語で書かれた哲学書が難しいというとき、翻訳が悪いせいだと思って原著を読むと、やはり原著もそれなりに難しいケースが多々あります(本当に翻訳が悪いこともありますが)。それは、書き手が新しい知を手探り状態で開拓した証拠でもあります。

■敬意をもってこちらから歩み寄る姿勢が大切

書き手が思考の限界までチャレンジしている悪戦苦闘ぶりがそのまま文章に表れるので、のちの時代の私たちが読むと、難しく息苦しく感じられるわけです。

開拓者は、その先がどうなっているのかがわからないまま格闘を続けています。

「そんな岩盤をツルハシで砕かなくても、もっとこっちに通りやすい道があるのに……」

といえるのは、後の時代に生きているから。最初に開拓したルートが曲がりくねって起伏のある道になるのは、ある意味では当然なのです。

例えば、フッサールの文章が難しいのは、まさに彼が現象学の開拓者だからです。フッサールの文章は難解ですが、もし彼がいなかったらどうなったのかと考えれば、現象学は誕生せず、メルロー=ポンティも登場しなかったでしょう。そういった歴史的功績に鑑みれば、開拓者の文章が難しいのは仕方がないと受け入れ、敬意をもってこちらから歩み寄る姿勢が大切なのです。

■読めない原因がどこにあるのかを問う

上記にも関係しますが、難しい本を読めないというとき、「読めないからこの本はくだらない、価値がない」と断じる態度には感心しません。

否定したい気持ちを自分の心にとどめておくだけならまだしも、中には、堂々とネットのレビューで悪態をつく人もいます。たまたまその種の評を目にすると、「面白くなかったのかもしれないけど、そこまで言わなくてもいいのに」と思ってしまいます。

難しい本に出会ったときには、すぐに遠ざけたり否定したりするのではなく、まずは「なぜ難しく感じるのか」を探ってみましょう。難しさの正体を見極めるのです。

ごく単純化すれば、難しさの理由は「自分が悪い」と「相手が悪い」という観点から分類することも可能です。周りの友人が全員読解できているのに、自分だけ読解できない場合は、自分の読解力が足りない、勉強不足だと考えられます。つまり自分が悪いのですから、読み解くための努力をすればよいわけです。

もちろん、相手が悪いケースもあるでしょう。本当はやさしく書けるのに難しく書いているのは、書き手の怠慢です。しかし、この場合も批判するのではなく、寛大な心を持ってほしいのです。

「しょうがない。ちょっと自分が頑張って読み解いてあげよう」

このような気持ちで、自分から歩み寄ってほしいと思います。

■本を読んだらアウトプットする

先述したように、大学に入ったばかりの新入生に、授業で『方法序説』『ツァラトゥストラ』『罪と罰』といった古典を読んでもらうという取り組みを行っています。目標は、読んだ本の要旨が言えること。そして、重要な箇所は引用できるようになること。

さらに、引用した文章について解説ができることです。

具体的には、自分が気に入った箇所を6つ選んで引用し、なぜ重要だと思ったのかを、自分のエピソードを絡めてまとめてもらいます。A4一枚のレポートにまとめたら、それを学生同士で発表し合うことにもチャレンジしてもらいます。

そうすると、完全に学生の頭の中で『ツァラトゥストラ』が定着し、「ツァラトゥストラを読破した」という実感が得られます。ポイントは、ただ理解するだけでなく、理解した内容をアウトプットすることです。アウトプットを前提にすることで、しっかり理解しようとする意識も働くようになります。

難しい本を読み終わったら、せっかくなのでアウトプットをしてみましょう。

まずは、勉強した内容について、その日のうちに周囲の人に話してみます。付け焼き刃と言えば、その通りなのですが、とにかく臆せず、ちょっとくらい自信がなくても発信することに意味があります。

■SNSで感想を発信するのも手

私は、中学時代の友だちと、大学院を卒業するまで毎日のように、読んだ本について1日4~5時間にもわたって語り合う生活を続けてきました。お互いにアウトプットすると、知識が不確かだったところを確認できます。また、難しい本を読んだという達成感がさらに高まる効果もありました。二人で同じ本について話し合うことで、いい意味でプレッシャーがかかり、相乗効果で読解力を高めることができたのです。

齋藤孝『難しい本をどう読むか』(草思社)
齋藤孝『難しい本をどう読むか』(草思社)

人に話すときには、ユーモアを交えることも意識してみましょう。

そもそもユーモアは教養をもとにして成り立つものです。例えば、「尼寺へ行け!」というセリフが通じるのは、シェークスピアの『ハムレット』を読んでいる人だけです。古典からの引用は、一種のゲームのようなもので、特定のシチュエーションに最も適した「セリフ」や「たとえ」を口にする瞬発力が試されます。相手が引用元を知っていれば、面白がってもらえ、会話が知的に深まります。

また、周りの人に話すだけでなく、もっと幅広い読者に向けてSNSで感想を発信するのもよいでしょう。SNSなどで発信すると、自分の表現欲求が満たされ、知的な生物として生きているという手ごたえが感じられるようになります。

最初は、3行程度の箇条書きでもかまいません。感じたことを簡潔にまとめて投稿します。感想を書き残しておけば、後で読み返せます。

「なるほど、こういう内容だったのか」「あのときはこのくらいの理解だったのか」読み返したときに、こういった発見も得られます。

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齋藤 孝(さいとう・たかし)
明治大学文学部教授
1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、同大大学院教育学研究科博士課程等を経て、現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。ベストセラー作家、文化人として多くのメディアに登場。著書に『ネット断ち』(青春新書インテリジェンス)、『声に出して読みたい日本語』(草思社)、『語彙力こそが教養である』(KADOKAWA)『新しい学力』(岩波新書)『日本語力と英語力』(中公新書ラクレ)『からだを揺さぶる英語入門』(角川書店)等がある。著書発行部数は1000万部を超える。NHK Eテレ「にほんごであそぼ」総合指導を務める。

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(明治大学文学部教授 齋藤 孝)

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