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「三菱と三井の代理戦争」渋沢栄一と岩崎弥太郎が死の直前まで対立したワケ

プレジデントオンライン / 2021年4月21日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RomoloTavani

“実業の父”と呼ばれた渋沢栄一と三菱財閥を設立した岩崎弥太郎は生前、昵懇の仲だった。ところがある時期から激しく対立するようになる。歴史研究家の河合敦氏は「2人は『会社はだれのものか』という問いに対して、まったく違う考え方をもっていた。そのため海運業をめぐって、三菱と三井の対立が起きることになった」という――。(前編/全2回)

※本稿は、河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

■経営理念で衝突した渋沢栄一と岩崎弥太郎

明治12年(1879)に渋沢栄一が岩崎弥太郎の協力を得て東京海上保険会社を創設したことはすでに述べた。しかし栄一の回想によると、「明治12、3年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至った」(『世の大道』)と述べている。

そのきっかけは、弥太郎と栄一が大激論となったことだった。その日時については諸説あるが、私は明治13年8月のことではないかと考えている。あるとき弥太郎のほうから栄一のところに「船遊びの用意がしてあるので、お会いしたい」という連絡が入った。

しかし栄一はちょうど増田屋で遊んでおり、すぐに出向かずにいると、何度も弥太郎のほうから誘いの連絡が来る。仕方なく弥太郎のいる向島の柏屋へ行くと、弥太郎は芸者を十数人も呼んでいた。やがて隅田川に船を出し、網打ちなどをしながら弥太郎は「じつは話したいことがある。今後の実業はどうしていくべきだろうか」と問うたのである。

もちろん栄一は持論である合本主義を熱心に説いた。すると酔いが回っていたのか、弥太郎は「合本法は成立せぬ。もう少し専制主義で個人でやる必要がある」(『岩崎彌太郎傳 下巻』)と言い出したから、さあ、栄一も頭に血がのぼってきた。「合本のほうがよいに決まっている」と反論。すると弥太郎は「合本なんて駄目だ」と叫び、ついに大激論になり、とうとう栄一は芸者を全員引き連れて引き上げてしまったという。

■三菱の独占状態を打破しようとした渋沢栄一

一説にはこのとき弥太郎が栄一に対して、二人で組んで実業界を牛耳ろうという提案をしたというが、さすがにそれは考えられない。それにしても弥太郎は、何のために栄一をわざわざ招いて接待しようとしたのだろうか。

もしこれが明治13年(1880)8月のことならば、弥太郎は栄一が企画している海運会社の設立計画を中止させようとしたのだと思われる。じつは栄一はこの頃、三井物産の社長・益田孝らとはかって資本金30万円で東京風帆船会社を設立し、海軍大佐・遠武秀行(とおたけひでゆき)を社長として海軍業への進出に乗り出していたのである。

三井物産は三菱に大量の物資を輸送させていたが、海運を独占するがゆえに運賃が非常に高く、値下げを交渉しても一切相手にされなかった。そこで益田は懇意にしている第一国立銀行の頭取である栄一に相談したのだ。周知のように栄一は、

「商業に従事するものでも、工業に従事するものでも、単にその業務によって己一人儲けさえすれば、即すなわちそれが人間の本分だとは思われない」
「自分一身さえ栄達すれば、それが理想であるというような考えをも除かなくてはならぬ。如いか何んとなればかくのごとき思想は仁義道徳の教えから云うても、また人たるの本分から云うても、決して正鵠を得たる見解とすることは出来ぬからである」(『青淵百話・乾』)

という考えの持ち主であったから、三菱の独占状態を打破すべく喜んで協力することにしたのである。

■政治とメディアの力を使って渋沢栄一の事業を潰した岩崎弥太郎

岩井良太郎著『三井・三菱物語』(千倉書房 昭和9年〈1934〉)には、その内情が次のように記されている。

「三菱の、独占を頼んでの横暴なふるまいは、当時、各方面の非難を買うことになったので、益田孝は、この機会を利用し、三井でも海運事業を興して、三菱と一と勝負をやってみようという気になった。益田の提議に賛成し、一臂の力を借そうと約束したのが、当時の第一銀行の頭取、渋沢栄一だった」

「これを見て、流石の岩崎も驚いた。早速、石川、川田以下の幕僚を呼び集め、風帆会社揉み潰し運動に着手することになった。揉み潰しの手段としては、政府の大官に黄金をバラまいたり、御用新聞に風帆会社の悪口を書き立てさしたり、いろいろのことをやった。益田も渋沢も、この弥太郎の猛運動を見ては、内心恐れをなし、ついに風帆会社は、事業開始に至らず、消滅することになった。名前も変な会社だったが、結局、かけ声ばかりで風船玉みたいに萎んでしまったわけだ」

著者の岩井は、東京商科大学(現・一橋大学)を出て東京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入り、その後雑誌『エコノミスト』の編集長などを務め、多くの経済に関する著書を出し、戦後は奈良県立短期大学(現・奈良県立大学)学長を務めた人物。まったくのデタラメは書かないだろうから、どうも弥太郎はえげつない攻撃を仕掛けて、栄一のもくろみを潰したようだ。

豊富な資金があることを誇示するビジネスマン
写真=iStock.com/Kritchanut
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kritchanut

■三菱側のえげつない切り崩し工作

なお、小貫修一郎筆記『澁澤榮一自叙傳』(澁澤翁頌德會)という昭和12年(1937)に発行された書籍がある。渋沢栄一側の記述なので割り引いて考える必要があるが、それも読むと、三菱側の攻撃は非常に悪辣(あくらつ)である。

たとえば、東京風帆船会社の株主の一人である富山県の伏木港の廻船問屋・能登屋の藤井能三(のうぞう)のもとへ行き、伏木港の発展に尽くすことを条件に栄一の東京風帆船会社に今後は関係しないように誓約させ、あらたに越中風帆船会社を設置してしまったのである。

また新潟県の商人たちに対しては、「東京風帆船会社に参加せず、新たに新潟物産会社をつくったらよい。三菱から低利で20万円を融資する。それに、政府が御用米を買い入れるさいは、すべて新潟米にしてやる」と誘いをかけ、切り崩しに成功したという。

こうして栄一が企画した東京風帆船会社は、創業が認められたものの、ほとんど開店休業状態になってしまったという。弥太郎の巧みで徹底した攻撃の前に、栄一はもろくも敗れ去ったのである。

■岩崎弥太郎が懇意にしていた大隈重信の失脚

明治11年(1878)に大久保利通が暗殺され、以後は長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信が政府内で大きな力を持つようになった。弥太郎が懇意にしていたのは大隈のほうだった。ところが明治14年(1881)の開拓使官有物払下げ事件を機に、大隈は失脚してしまう。

この事件は、開拓使(北海道開発のための官庁)の長官・黒田清隆が、開拓使廃止に伴い、この省庁に属する事業や施設を不当な廉価で同じ薩摩出身の政商・五代友厚らへ売却しようとしていることが発覚、自由民権家から激しい非難をあびたもの。

このとき伊藤博文は、民権派をあおっているのは大隈だと黒田に吹き込み、薩摩閥と手を結び、天皇臨席のもとで緊急会議を開き、大隈の参議職(政府高官)を罷免し、大隈に連なる官僚群を追放するクーデターを決行したのだ。世にいう明治14年の政変である。

黒田は、払い下げ計画を民権家にリークしたのが大隈と結んだ弥太郎の仕業だと確信していた。黒田が寺島宗則(てらしまむねのり)に送った書簡を紹介しよう。

「実に言語道断なるは、三菱社のごときは、しきりに千金をなげうち」「福沢(諭吉)門人四名を派出し、各郡府を煽動し、また三印(三菱)支店にて非常に金をまき、大いに開拓使を壊すの奸計(かんけい)めぐらし、黙止し難き情実に御座候」「誠に恐るべき三印(三菱)」「生(私)が拙策には、断然三印(三菱)が手足を切断する事専一と存じ候。この一条に付いては、断然海軍にて従来の条約を解き、自由になるよう致す方、上策ならんか。三印(三菱)は、ついに明治政府を左右するの恐れあればなり」(『岩崎彌太郎傳 下巻』)

黒田が書いているような奸計をめぐらしたかどうかはわからないが、弥太郎にその動機はなくはない。三菱は北海道に航路を開き、道内の産業にも積極的に進出しようとしていた。開拓使の官有物が五代らにすべて譲渡されてしまったら、三菱が進出できる余地がなくなる。

■政府の支援を得てリベンジを果たした渋沢栄一

明治14年(1881)12月、農商務卿の西郷従道は、いきなり弥太郎を呼び出し、第二命令書の改定を通告した。まだ交付から5年しか経っていない。有効期限は15年間のはず。

だから弥太郎は難色を示した。けれど西郷は「いわれなく、三菱を保護しているという世間の批判をかわすためだ」と述べ、翌年2月、「第三命令書」を交付したのだ。海運以外の事業に乗り出すことを厳しく禁じ、運賃規則や命令違反への罰則が盛り込まれたが、三菱側に大きな不利益はなく、弥太郎への脅しの意味が大きかったように思える。

だが、やがて政府は本気で三菱への対抗措置に動き出す。

明治15年(1882)3月に大隈重信を党首とする立憲改進党が誕生したからである。政府は、反政府政党である改進党の運営資金が三菱から出ていると踏んだのだ。そこで反政府側の弥太郎に海運を牛耳らせるのはよくないと考え、同年5月、西郷従道農商務卿は、新たな汽船会社の創設を政府に上申した。

この会社は渋沢栄一、益田孝、小室信夫、藤井三吉、堀基、原田金之助など三井系や関西財界の大物が創立委員となって資本を募り、従前の汽船会社三社を合同させてつくったものだった。そう、栄一にとっては、2年前のリベンジであった。

栄一は、益田孝ら発起人とともに東京風帆船会社に北海道運輸会社と越中風帆船会社を合併させ、600万円という巨額な資本金をもとに共同運輸を立ち上げたのである。資本金のうち260万円を政府が拠出していることでわかるとおり、政府の息のかかった会社だった。

かくして同年10月、政府の許可を得て共同運輸会社が正式に発足、翌年1月より営業が開始された。

■共同運輸会社の実態は日本海軍だった

この会社の実態は、ある意味日本海軍といってもよかった。

株式組織だが、同社に与えられた政府の命令書には、会社に付与された船舶は海軍の付属とし、戦時や有事のさいは海軍卿の命令で海軍商船隊に転じる規定があったからだ。また社長には伊東雋吉(しゅんきち)海軍少将、副社長には遠武秀行海軍大佐が就いている。

資金や組織面から見て明治政府が全面的にバックアップして三菱から海運業の主導権を取り戻そうとしていることが見て取れる。単に三菱をおさえるというより、潰してしまおうというもくろみがあったようだ。

というのは、明治16年(1883)3月、三菱社員の山本達雄がたまたま三菱の汽船に乗った西郷従道の話を耳にしており、それによれば、酔っ払った従道は甲板で政府の役人と「三菱会社の専横を毀(そし)り、この権力を殺(そ)がんがために、今般共同運輸会社を設立せし」と大声で話していたというのだ。

さて、この時期のことに関して栄一は自伝で次のように回想している。

「三菱は旭日昇天の勢を以てその海運業が発達した。経済界の人々は三菱会社の余りに政府の特典を受けて専横になるということを羨うらやみかつ憤って、ついにこれに反対する共同運輸会社というものが出来た。私はその共同運輸会社の賛成者であったから、換言すれば、三菱の反対者であった。海運業はさなきだに競争に流れるのを、一方の専横を防禦しようということで組立ったから一方も利かぬ気で力を入れるので、この両会社はしきりに競争をした」(『雨夜譚』)

■海坊主呼ばわりされバッシングを受けた岩崎弥太郎

さあ、三菱にとっては、まさに存亡の危機である。そこで弥太郎は、社内外に不偏不党たることを宣言し、政府に対し新会社設立が国家に大きな不利益をもたらすことを訴える意見書を送った。

河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)
河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)

その内容は、「日本の海運業界はまだ脆弱なのに、新たに海運会社を起こせば、三菱との間に激しい競争が起こり、決して国家のためにならない。ぜひとも中止していただきたい」というものだった。ところが、である。

この意見書が、自由党系の新聞にすっぱ抜かれてしまったのだ。警察の密偵にリークされたらしい。何とも不思議なことだが、当時、自由党と立憲改進党は、反政府という立場で共闘できるのに、ささいな主義の違いから激しく反目しあっていたのだ。

それゆえ、わざと警察が自由党系の新聞に情報を流したようだ。自由党は、「海坊主退治、偽党撲滅」キャンペーンを展開した。偽党とは立憲改進党、海坊主とは三菱、具体的には岩崎弥太郎のことだ。世論も海運業を独占する三菱に良い感情を抱いておらず、弥太郎に同情する者はほとんどいなかった。

編集部註:その後、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の競争が激化。1885年に岩崎弥太郎が亡くなると、政府の仲介で両社が合併し、日本郵船会社(現在の日本郵船)となった。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史家
1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院卒業。高校教師として27年間、教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など。

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(歴史家 河合 敦)

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